33年ぶりに思い出の街を歩くとどうなってしまうのか ~名古屋・八事・塩釜口~

  • 更新日: 2024/05/16

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卒業以来33年ぶりに懐かしい街を歩きました。

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私の好きな曲に、くるりの『京都の大学生』がある。
メロディラインと歌詞が私の心に突き刺さり、ヘビーローテで聴きまくっていた時期があった。この曲を耳にすると、私の脳裏に学生時代の記憶が甦り、当時のことを思い出して甘酸っぱい気持ちになる。

…と、ここまで読んだ皆さんは「そうかシモハタさんは京都の大学だったのね」と思われるかもしれない。いやいや私の母校は京都じゃなくて名古屋。名古屋の大学生だった。

「えっ?じゃあどうして京都の曲なのに名古屋を思い出すの?」と読者の心の声が聞こえてくるようなので、少し説明しよう。ヒントは歌詞にある。

喫茶店・マールボロ・ZIPPO・煙草の煙…。このワードが、私が学生だった1980年代末~1990年代初め頃を感じさせるからだ。

当時は、今みたいに分煙なんて感覚はなく、喫煙に対してすこぶる寛容な社会だった。喫茶店や飲食店のテーブルには普通に灰皿が置かれ、みんな普通にタバコを吸っていた。

ちなみに私は吸わない人だ。今も一本も吸ったことがない。でも当時は私の周りには愛煙家が多かったから、受動喫煙はあっただろうなぁ。

…おっと、話を戻そう。

今回、久しぶりに「学生時代を過ごした街へ行ってみよう」と思った。

私は大学卒業と同時に故郷に帰り、そのまま就職・結婚・出産・育児…と忙しい日々を送り、気がついたら、もうこんな歳になってしまった。その間、名古屋には時々遊びに行ってはいたけど、かつて住んでいた街や思い出の場所まで足をのばす機会がなかった。

いつか心と時間に余裕ができたら行ってみたい…と考えていたが、それが今だと気づいたのだ。

なんたって卒業式以来だもの。

せっかくだから、入学式と卒業式が行われた鶴舞公園にも寄ってみよう。鶴舞公園に行くのなら、やっぱり桜の季節よね。

歩いている最中、もしかしたら思い出が胸にこみあげてきて、エモくて泣いちゃうかもしれない。そういう熱い感情を久しぶりに味わってみたい気持ちも少しあった。

桜咲く春に名古屋へ。

私は青春時代を過ごした街に行ってみることにした。


高速バスで名古屋へ

毎日、名古屋の桜情報をチェックし続けて、まだかまだか…と待ちくたびれた頃、ようやく「咲き始め」の知らせをキャッチ。さらに待って「満開」の知らせを確認したところで、私は名古屋行きの高速バスに乗り込んだ。

自宅がある飛騨高山から名古屋までは、片道約2時間半ちょっと。ワクワクする。

JR名古屋駅前に到着した後は、名古屋市営地下鉄・東山線の名古屋駅に向かった。



駅の自販機で地下鉄一日券を購入。
おっと、名古屋では「一日券」じゃなくて「24時間券」って言うのね。今気が付いた。

この切符を手に東山線に乗り、伏見駅で乗り換えて、鶴舞線の電車に乗った。


鶴舞公園の桜

私が大学に入学したのは1987年(昭和62年)4月。卒業したのは1991年(平成3年)3月。昭和から平成へと移り変わる時代の転換期だった。

当時、母校の入学式と卒業式は、名古屋市昭和区の鶴舞公園内にある名古屋市公会堂で行われた。
そして、この鶴舞公園は桜の名所として有名である。

鶴舞駅で下車して、公園と直結している4番出口へと歩く。



鶴舞駅構内を歩いていたら、鶴のモザイク画が現れた。これはコンコースに施された鶴のモザイクアート。名古屋市市営地下鉄の駅では、こうしたモザイクがあちこちで見られる。

さて、この日の鶴舞駅は平日なのにやけに人が多かった。「どうしてだろう?」と不思議に感じつつ、出口の外に出てみてビックリ!



「どえりゃあ混んどるがねー!」と思わず名古屋弁が出てくるほどの混みっぷり。後で調べたら、この日は鶴舞公園で『桜まつり』が催されていた。




どこを見ても人・人・人。昔はこんなに混んでなかった気がするんだけど。




公会堂では専門学校の入学式が行われていた。ここだけ昔と変わらない風景。




熱気ムンムンの公園内。

私の頭の中では「桜の下を心静かに歩きながら、思い出に耽ってしんみりする」計画だったのに、この状況では100%無理だった。

なんだか出鼻をくじかれちゃったなぁ。まぁ、桜を見たからよしとしようか…。

私は鶴舞駅に戻り、次の目的地(八事)へと向かった。


八事の母校とコメダ珈琲店

私が通った大学は昭和区八事(やごと)にある。
八事と聞けば、名古屋の人はすぐにピンと来るあの大学。オリンピックでメダリストを多く輩出している某私立大学である。



そうこうしているうちに、八事駅に到着。




今は母校と直結する出口がついて通学に便利になったけど、私が在籍していた頃は、興正寺に近い1番出口が最寄りの出口だった。ここからみんな大学の門へと歩いた。




1番出口の外に出た。歩道の左側の木々は、興正寺の境内の茂み。

興正寺は尾張徳川家と縁のある古刹で、大学のすぐ真裏にある。縁日になると、名古屋市内のお年寄りが集まり大賑わいになるという有名なお寺だ。
でも当時の私は、信仰心が薄く神社仏閣に興味関心がなかったから、一度も参拝したことがなかった。




この坂は「大学坂」という。今は焼き肉屋になっているこの辺りに、昔はコメダ珈琲店があった。

あの頃のコメダは、純喫茶風の渋い店構えで、もちろん各テーブルには灰皿が置かれていた。あの頃はコメダに限らずどの喫茶店も、全般的に「喫煙する男性客」向けの仕様だったと思う。

大学時代、私は書道部に所属していた。当時、書道部の部長だったY先輩は、ここのコメダの常連客で、今みたいにスマホもケータイも無かった時代、Y先輩を探すなら「コメダに行けば大抵いるよ」と言われていた。店の前にY先輩のスクーターが停まっていれば「中にいる」のサインだった。

ある日、このコメダで、Y先輩に珈琲をおごってもらったことがある。煙草をふかしながら「好きな物、選んでいいぞ」と言っていたY先輩が、私たち新入部員にはすごく大人に感じられた。

ちなみにコメダ珈琲店の看板の字は、私の母校の書道の教授で、書道部の顧問でもあるT本先生が書いたものである。この話を教えてくれたのもY先輩だった。

日本の書道界の重鎮でもあるT本先生は、名古屋弁でニコニコと話しかけてくださる先生で、私たち学生は陰でこっそり「Tちゃん」と呼んでいた。今思うと若気の至りというか、怖いもの知らずというか、大変恐れ多いことである。


山手通りの街並み

母校がある八事地区は、坂が多い所でもある。



この道は「山手坂」という。この坂道をのぼっていくと左手に母校があり、さらに進んで坂の頂を越えて、そのまま坂を下った先にはノーベル賞で有名な名古屋大学がある。




坂道を歩いていたら、懐かしい母校の入口に到着した。この階段は私が大学生だった頃のままだった。




大学の階段の横にあるこのお店。昔は妙齢のママさんが切り盛りしている小さな昭和の喫茶店だった。今は学生向けのラーメン屋に変わっていた。




山手坂に沿うかたちで建っている我が母校。

私が学生だった頃は、もっとこぢんまりしていて地味だったのに、今は立派な校舎になりスタバまでできてビックリ。




少し離れたところから母校を眺める。

赤レンガの門は昔のままだけど、それ以外は全て建て替えられていて、私の知らない世界になっていた。

ここまで激変しちゃうと、思い出にふけるための隙間が1ミリも残っていないというか、どこをほじくり返しても昔を懐かしむためのネタが出てこないというか、感傷に浸ること自体が無理になるんだなぁ…と思った。これは意外な発見だった。


墓石屋と八事霊園

すっかり変わってしまったものもあれば、昔と変わらない光景もある。それは八事の石材店(墓石屋)だ。



大学近くの坂道で、見覚えのある石材店を発見した。33年前と変わらぬ佇まいに喜びを感じたのだが…。



近寄って店内をのぞいて見たら、荒廃していた。ヒー!



荒れ果てた店内にポツンと残る仏様。あぁ…この奥は夜は絶対に見てはいけない怖いやつ。

ちなみに、この八事地区は、私が学生だった頃から石材店(墓石屋)が多く立ち並んでいた。というのも、近くに名古屋市営の墓地「八事霊園」と火葬場があるからだ。



ご覧の通り、広大な墓地である。




歩道橋があるこの辺りが山手坂の頂点で、この歩道橋を渡って山手坂をもう少し進んだ先に八事霊園がある。久しぶりにちょっと行ってみよう。




また見覚えのある石材店に出会った。こちらは営業していてホッとする。墓地参拝用の仏花も売られていた。




ピカピカの墓石が並んでいる店内。




八事霊園の看板が見えてきた。ここが入口。




この奥いっぱいに墓地が広がっている。

入学してすぐの頃、山手坂に面した校舎の最上階の窓から外を眺めた時、丸裸の丘状の山が目に入った。「木が一本も生えていない山なんて珍しいなぁ」と思ってよく見たら、山肌一面が墓石だったので驚いた。それが私と八事霊園との出会いである。

この辺りは墓地を囲むように開発が進み、巨大霊園と娑婆がいい塩梅で溶け合っている。




彼岸と此岸の境目。あの世とこの世の境界線。なんともシュールな光景だけど、こういうのを「共存共栄」というのかもしれない。


八事・弥生が岡のアパート

ここから少し歩いた先に、大学3年春から卒業するまでの2年間暮らしたアパートがある。八事に来たついでに、ちょっと見に行ってみよう。



山手坂をUターンして下り、八事の交差点へと向かう。

昔はこの周辺は、学生向けの飲食店や喫茶店、本屋、服屋など、いろんなお店があって賑やかだった。でも今は、当時の店舗があまり見当たらなくて、街全体がずいぶん変わったのを感じる。




八事の交差点に出てきた。実はこの交差点は七叉路で、ちょっと複雑な地形になっている。




七叉路の構造については、交差点の歩道にあったこの碑をご覧あれ。

ちなみにこの碑は私が卒業した後に設置されたものである。昔は「坂」じゃなくて「通り」で呼んでいた気がするんだけど。八つの坂に名前がついていたことを、これを見て初めて知った。

墓地に行った後だからだろうか。一瞬「八つの坂の街」を「八つの墓の村」に見違えてしまった。




こちらは天道坂の入口で見つけた碑。何百年も昔から建っていそうな碑だけど、こんな碑あったっけ?私の記憶に全くないんだけど…。今日初めて見た気がする。




こちらは音聞坂の入口で見つけた碑。この碑も全然覚えていない。

学生時代、この辺りの道を何度も通ったはずなのに、あの頃の私は一体どこを見て歩いていたのだろう?




「珈琲家ダフネ」この看板は見たことがあるような気がする(うろ覚え)。

コメダフォントで書かれていて、お店の画もなんだかコメダっぽいけど、コメダとは全然関係のない名古屋の喫茶店だ。

あっ…。ここで完全に道に迷ってしまった。あまりに周辺の建物が激変していて、どの道だったか分からなくなってしまった。

なんとか記憶の片隅からアパートの名前と町名を引っ張り出し、Googlマップで検索したらヒット!今もアパートは残っているらしい。スマホを片手に、目的地へと向かう。




新しいマンションや店舗が立ち並び、すっかり変わってしまった街並みの中で、このカーブの曲がり具合だけは昔のままだった。




道路左側の団地が建っているところは、昔は鬱蒼とした雑木林だった。歩道の右側のマンションも昔はなかった。

かつてこの辺りは自然が残る静かな場所だったのに、この33年の間にずいぶん開発が進んだようだ。こりゃあ道に迷うはずだわ。




そうこうしているうちにアパートに無事到着!卒業までの2年間をこのアパートで過ごした。ここだけすっぽりと平成元年のままだった。

私にとっては青春の思い出が詰まった場所である。ここにたどり着いたら感傷にひたって泣いちゃうかしら?と思ったけど、私の胸中は意外とサッパリしていた。

先ほどの母校と同じく、環境があまりに激変していたため、自分の中で区切りがついたというか「もうあの時代は終わったんだ」という潔い気分になっていた。




アパートの真横のマンションの敷地で、桜が美しく咲いていた。これは私が卒業した後に植えられた桜かしら。はじめまして、こんにちは。

すっかり新しくなった風景を見て、私の脳裏にあった街の記憶がみるみる風化していく。

私は八事駅に戻ることにした。




おぉー懐かしい!この通りで唯一、昔の面影を残している米屋さん。

看板が昔より立派になっていた。「よくぞご無事で!激動の時代をよくぞ生き抜きましたなぁ」と再会を喜び合いたい気分。




これはエドヒガンだろうか。八事の交差点に植えられた若い桜が、可憐に美しく咲いていた。


塩釜口駅周辺を散策する

私は地下鉄八事駅に戻り、鶴舞線の電車に乗って塩釜口駅に向かった。



塩釜口駅の3番出口。

大学1・2年生の2年間、私は塩釜口駅から徒歩10分くらいの所にある女子寮みたいなアパートに住んでいた。

合格発表の後、初めての一人暮らしで「どの部屋にしようか」と迷っていた時、女子専用だったのと大家のおじさんが民生委員だったことから、親が「ここなら安心」と即断で決めた部屋だった。

しかし、このアパートは、3階建ての古ビルを大家のおじさんのDIYであちこち修繕して人が住める形にしたという特殊な建物で、見た目も中身もボロボロの格安物件だった。私が契約した部屋は、トイレ・風呂共同の6畳一間で月15,000円なり。

おじさんは普段(昼間)は1階の小さな管理人室にいて、そこで柴犬を飼っていた。白い犬はシロ、黒い犬はクロと命名されて可愛がられていたけど、その犬が繁殖してシロとクロだらけになり、管理人室は犬屋敷みたいになっていった。

今なら問題物件じゃないかと思う。しかし人々が寛容だった昭和時代。増える犬よりも、おじさんの「民生委員」の肩書きが、安心と信頼にかなりの効力を発揮していた。

他に入居していた女子たちとは同世代のよしみで、すぐに打ち解けて友達になった。夜、仲良くなった子の部屋に集まってお喋りしたり、料理を持ち寄って食事会をしたり、楽しかったなぁ。

さて、あのアパートは今も残っているのだろうか?



塩釜口駅の3番出口を出て、飯田街道に出てきた。右折して元八事4丁目方面へと歩く。




最初の交差点。手前に100円ローソンが見える。昔ここはローソンじゃなくて、ミニストップだった気がする。イートインコーナーがあって、ちょっとした時間つぶしに便利だった。




記憶をたどりながらさらに歩くと、見覚えがあるアパートに出くわした。「コーポみずたに」外壁を塗り直して新しく見えるけど、昭和のままの外観。




ここは昔「リバプール」という名前のレストランバーだったんじゃないかと思う。
この街に住んでいた頃、ランチや夕食を食べに何度か友達と行ったことがある。店内はいつもザ・ビートルズの曲が流れていて、店内のインテリアもイギリスのパブみたいな感じで洒落ていた。

今回久しぶりに訪れてみたら、もうとうの昔に閉店したみたい。残念…。




またまた見覚えがある建物を発見。私がこの街にいた時からすでに古アパートだった物件。まさか令和の今も残っていたとはビックリ!




人は住んでいるのだろうか?今は空き家っぽい感じがするけど、庭木は手入れされているようなので、管理する人はご健在なのだろう。




さっきの八事と違って、ここ塩釜口には懐かしい建物が結構残っていた。見つけるたびに、思い出がポロポロとこぼれ落ちていく。




この建物も見覚えがある。1階には飲食店やスナックが入っていた。あの頃はそれほど気にも留めずに通り過ぎていたけど、今改めて見ると、なかなかモダンな建物である。


はて、私の記憶だと、もうそろそろアパートに到着してもいいはずなんだけど、なかなかたどり着かない。10代の足にはあっという間の距離感だったのに、今の私には遠く感じられる。

うっかり通り過ぎないように、目印になるものをキョロキョロ探しながら歩いていたら、見覚えのある看板を見つけた。




おぉ!「株式会社サカイ・名古屋事業所」この看板と社名は私の記憶に残っているぞ。

…ということは、ここがアパートがあった場所?!




えっ?ここ?!全く別の建物に変貌していた。つぎはぎだらけのおんぼろアパートが、きれいなマンションになっていて衝撃を受ける。

あまりの変わりっぷりに「本当にここで正解なの?」と一瞬疑ったけど、道路を挟んで向かいにある喫茶店の看板を見て「やっぱりここだわ!」と確信した。




「coffeeサントス」私がこの街に住んでいた時からある喫茶店だ。アパートの大家のおじさんも、よくここでコーヒーを飲んでいた。

大家のおじさんは生粋の名古屋人で、コテコテの名古屋弁ネイティブだった。おじさんと何気なく交わす日常会話を通して、私は本場の名古屋弁を習得したのだった。

当時のおじさんは60代くらいだっただろうか。白髪のあごひげを仙人のようにのばし、デニムのオーバーオールを穿いていて、いつもアパート内のどこかをDIYでリフォームしている、ちょっと風変わりな優しいおじさんだった。

なんだか懐かしさで胸がいっぱいになる。

サントスさん、シャッターが下りているということは、もしかして廃業しちゃったのかしら。心配になり近くまで行ってみると…。



臨時休業だった。今もやっていることがわかりホッとした。

この喫茶店も、やはり近所の常連さん(大人たち)の憩いの場所だったなぁ。友達と窓辺の席でサンドイッチを食べたことを思い出す。




アパート前の通り。この道路は昔、暴走族の通り道だった。

18歳の春、部屋の窓から暴走族の爆走シーンを生まれて初めて見て「名古屋すげー!」と驚愕したことを思い出した。あの頃この道を走っていた少年たちも、今は50代だろうか。彼らもいいおじさんになっているんだろうな。




改めて旧アパート跡地を眺める。しみじみ「昭和は遠くなりにけりだなぁ…」と思った。

ここで同世代の友人達と過ごした10代最後の日々。

青春の思い出が残る場所も、建物が壊され新しく建て替えられ、街の風景が変わってしまうと、その土地に沁み込んだ思い出や感情の数々も、居場所を無くして昇華しちゃうんだね。今回の散策で、深く実感したのだった。

長年私の心の中に残っていた当時の残影が、この場所ではもう回収不可能だと悟った瞬間に、スーッと成仏したような感じになった。そう「成仏」だ。成仏という言葉がピタっとくる。

そうか、今回の名古屋散歩は、モラトリアム期の過去の私を成仏させるための巡礼だったのだ。


塩釜口から八事まで飯田街道を歩く

塩釜口駅の3番出口前に戻って来た。ここから飯田街道を歩いて、八事方面に戻るとしよう。



周囲にこんな史跡があったとは!若い頃ってホントこういうのに興味関心がなかったのよね。今住んでいたら、毎日散策していると思う。




これが飯田街道。まっすぐ進むと八事にたどり着く。ここも延々と続く坂道だ。




途中、右手に名城大学が見えてきた。新入生を迎えるように桜が咲いていた。




なんか既視感があるなぁ…と思ったら、飛騨神岡のさんぽで見つけた高原川沿いの高架に似ていた。古代ギリシャの神殿みたいで神々しい。




ここで非常に興味深い看板を発見。バイク屋だけど鶏のイラストに店名が「トサカ」。これってどういう意図なのか、ちょっと聞いてみたい。




塩釜口と八事のちょうど真ん中あたりまでやって来た。




右手に見えてきたのは、台湾ラーメンの味仙。私が学生だった頃からこの通りにあった。男子学生に人気のお店だったなぁ。




ふと左手を見ると「君の名は。」みのある階段を発見。




右を向くと、建物と道路の隙間から墓地が見えていた。




そしてこちらは臨死体験者の語りに出てきそうな、あの世のお花畑みたいな小径。




さらに歩き続け、ようやく道の先に八事の交差点が見えてきた。と同時に、また石材店が視界に入る。




この辺りは「石屋坂」という。名前の通り、石材店が立ち並んでいるエリアだ。




「ここってこんなに石材店があったっけ?」と今更ながら驚く。若かった頃は墓石に興味も関心もなかったから、この通りの石材店はあまり印象に残っていなかった。

しかし、今の私は人生の折り返し地点をとうに過ぎ、年齢的にも墓に収まる日が近くなったせいだろうか?墓石が妙に気になる。点在している墓石屋に自然と目が逝って…いや、いってしまう。




とある石材店の前を通りかかったら、店頭に電光看板が設置されているのに気づいた。



「心が穏やかになります」そうそう、歳をとると穏やかな心の境地に憧れるのよね。



「街のかかりつけ石屋」えっ?医者と石屋をかけている!?



「お墓は幸せのシンボル」

次々と変わる電光看板の文面があまりに素晴らしすぎて、つい立ち止まって見入ってしまった。
お墓が潜在的に持っている暗くてネガティブなイメージを完全払拭する斬新なコピーに衝撃を受ける。

なんだか墓石がハッピーアイテムに感じられてきた。




この33年の間に消えた店舗もあれば、たくましく生き抜いた店舗もある。

八事の石材店は昔ながらの風情を残しつつ、今の時代の流れに乗っかり、イメージ刷新でがんばっていた。すごく元気をもらったよ。




無事、八事の交差点に到着。思い出さんぽ、お疲れさまでした。


最後はコメダ八事店でひと休み

散策の締めくくりに、八事のイオンにできたコメダ珈琲店でひと休みすることにした。



ちなみに今はイオンだけど、昔はジャスコだった。私が卒業した後に建て替えられたため、ここもやはり昔の面影はない。




コメダ八事店にやってきた。この字を見るたびにT本先生を思い出す。




シロノワールとアメリカンコーヒーをいただいた。

暑い中、たくさん歩いて疲れたから、甘味が五臓六腑にしみわたって美味しい。ここでコーヒーをすすりながら、今日の散歩の一人反省会をする。

いやー面白かった!
感傷的な散歩になるのでは…という私の予想は見事に外れ、最後は成仏と墓石という壮大なオチで今回の散策を終えた。積年の憑き物がとれたみたいで、サッパリした清々しい気分だ。

やっぱ湿っぽいのはいかんてー。カラッと明るいところが名古屋のええところだがや。またいつでも歩きに来りゃええでよー。

…と、大家のおじさんの名古屋弁と笑い声が聞こえてくるようだ。

私の第二の故郷・名古屋。
古く湿った記憶を成仏させ、新しい思い出が誕生した楽しい散歩だった。









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シモハタエミコ

飛騨高山在住の飛騨弁ネイティブ。散歩と帽子とかわいいものが好き。

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