変わりゆくもの、変わらぬもの。飛騨高山・思い出ぶらぶら散歩
- 更新日: 2022/09/27
8月の暑い日、観光客になりすまして飛騨高山の街中を歩きました。
私は生まれも育ちも高山で、今も高山市内在住の飛騨弁ネイティブだけど、時々「なんちゃって観光客」になりすまし、市街地をブラブラと散策することがある。
ところで、都会人と田舎人、この両者の違いは何か?と問われたら、私は真っ先に『人の多さへの耐性の有無』と答えたい。
私の周りの地元人に聞くと、「人で混んでいる場所には行きたくない」と答える人が多い。コロナが流行る前から、みんな「密」が苦手なのだ。
都会の人たちのように、ラーメン屋の前で1時間待ちとか、人気スイーツ店の前で2時間待ちとか、そんな気の長いことなんてしていられない。長蛇の列の最後尾に並ぶくらいなら、もう諦めて他の空いている所に行っちゃおう…と、つい思ってしまう。
実は私もそんな口で、観光客がごった返しているシーズン中は、何処へ行っても落ち着かないので、観光マップに載っている人気スポットにはなるべく近寄らないようにしている。
だけど、今回はあえて、夏休み中の日曜日、一番混み合う休日を狙って、市街地へ行ってみた。
どうしてかって?
うーん、ちょっとした好奇心かな。
コロナ禍で一時は客足が途絶えた高山も、今、またたくさんの観光客で賑わっている。
2年以上に及ぶ自粛期間を経て、町の表情が変わってしまったという話を耳にするけど、果たしてどうなんだろう?
その辺りを確かめたくて、自分の足で歩いて見てみることにしたのだった。
とりあえず空町にある高山市図書館の駐車場に車を止めて、そこから市街地へと歩き始めた。
美しく整備された細い路地を見つけて、真っ直ぐ進む。
平成のどこかから、市街地内にある昔ながらの古い路地がきれいに整えられた。こうして、あちこちで、誰でも自由に通ることができる路地が次々と生まれた。この路地もそれだろう。
ちなみに、飛騨地方ではかつて、細くて狭い路地のことを【筋骨】(きんこつ)と呼んでいた。家と家の間、土地と土地の間を縫うように張り巡らされた道の様子から、人体に例えてそう呼んできた。
ちなみに「筋骨」とは、世間一般で「赤道(あかみち)」と言われている道のことである。
一応、公道だから誰でも通れるけど、生活臭がプンプンと立ち込めるプライベートゾーンのぎりぎりを這うように路地が走っていたから、初めて訪れる「よそ者」には、ちょっと刺激が強すぎて通りにくかった。通行人と家々との距離が近すぎるところから、目のやり場に困ってしまうことも多かった。
しかし、令和の裏路地は、路地と家の境界線がはっきりと区切られ、どこまでも真っすぐである。
これならこの地区の人も、通り抜ける観光客も、怖くもないし恥ずかしくもない。
路地を歩きながら、ふと考える。
はて、ここは以前どんな道だったっけ?
もっと狭くて薄暗くて「よそ者」が通るにはちょっと勇気がいるような、生活感に満ちた古い路地だったような気がする。でも、以前のこの場所の様子が全く思い出せない。
便利に整えられていくことで、人々の息づかいや体温、生活の臭い、町の生々しい記憶などが、全てが跡形もなく消え去っていく。
路地を抜けたら、見晴らしのいい所に出てきた。
ここも昔は無かった場所であり、平成時代に観光客向けに整備されてできた。
石段を下りて、市街地へと入る。
ちなみに、この日の気温は32℃。
昔、飛騨地方では30℃を超える「真夏日」は今ほど多くなかった。
ところが最近では、高山も温暖化の影響で都市部並みに暑くなっている。35℃以上の猛暑日も年々増えてきた。自然が多いこの地域でも、温暖化の影響を確実に受けている。
昔の高山しか知らないご先祖様が、お盆でこちらの実家に帰ってきたら、全然涼しくないのにビックリするだろうなぁ。
あぁ暑い…。紫外線がジリジリと肌に突き刺さる。
坂道を下りて、市街地に出てきた。
「飛騨高山まちの体験交流館」
高山の伝統工芸の実演を見学したり、さるぼぼ人形などの工芸品の製作体験ができる施設だ。
そうそう、ここは昔、市の図書館だったんだよね。
中高生の頃に、私も時々利用していた。昔の豪商の邸宅跡地に建てられた図書館で、当時の書庫は狭くて薄暗くて、一人でいるとちょっぴり怖かったことを、今もうっすら覚えている。
やはりここも、平成時代に新しい図書館が他に作られ、そちらへ全て移転したため、ここにあった古い建物もとうとう壊されてしまった。そして令和になり、観光客や地元の人が楽しめるスポットへと生まれ変わったのだ。
こうして少しずつ高山の新しい顔になりつつある。
昔を知っている人(私も含めて)は、旧図書館の記憶の上に、今のこの新しい施設の風景を上書き保存していくのだろうし、初めてここを訪れる人々は、今のこの風景を「これが高山の景色なんだ」と脳裏の1ページ目に刻み込んでいくのだろう。
更に歩く。
鮮やかな漆器が目に入った。
伝統工芸の飛騨春慶(ひだしゅんけい)の器たち。露店で販売されていた。
店番の男性は漆職人さんで、背後の建物が工房とのこと。全て手作業で塗られたものだそう。
そういえば、前から「落としても割れないカップが欲しい」と息子が言っていたのを思い出し、息子用に漆器のマグカップを一つ購入した。食器洗剤で洗ってもOKとのこと。
こういう時、『なんちゃって観光客』だと、お店の人のサービス精神から面白い話や裏話なんかがたくさん聞けるので、すごく楽しい。
「漆塗りのカップに入れた飲み物は、他の器と違い、味がまろやかになり美味しく変化するんですよ」
と教えてくれた職人のおじさんの話が、妙に心に残った。
息子に聞いてみて、使い心地が良さそうだったら、後日、私も一つ買ってみよう。
陽射しがまぶしい。
造り酒屋の煙突とギラギラ太陽。そして青空。
この辺りは「古い町並み」地区。さすがにここに来ると、観光客がドンと増える。
メインストリートの上三之町に辿り着く。いやはや、すごい人だった。
日本全国から集まる観光客。マスクをしている人、していない人、鼻マスクの人。それぞれの生き方と価値観が交錯している。
観光客の波をかき分けて、前へと進む。
ガラスケースの中でちょこんと正座しているお人形。この御仁はマスク着用で、感染予防対策はバッチリでござるよ。
さんまち通りに出たら、ちょうど「我楽多市」(がらくたいち)が開催中だった。
我楽多市とは、昭和57年から始まった飛騨高山の骨董市で、冬期間を除いた毎月第一日曜日に開催されている。高山美術商組合が主催で、骨とう品や古美術品が販売されている。
昔はもっとたくさんの出店があり、これを目当てにくる客も多く、大変賑わっていたんだけど、この日はお店もお客さんもまばらだった。
きっと暑さとコロナのせい。
遠くに見える赤い橋は「中橋」。こうしてみると緑が多い。飛騨は山の国・木の国だなぁ・・・と思う。
宮川沿いに建つ家々。この風景は昔のまま変わらない。昭和で時間が止まっている。
本町商店街に出てきた。
勢いよく水をまくおじさん。
打ち水をすると、涼しくなるんだよね。
こちらは本町2丁目商店街のシンボルキャラクター「勇の丁次」(いさみのちょうじ)。江戸時代の火消し組の若衆がモデルになっている。
「あらよっと!」出初め式の決めポーズがカッコイイ。
民家の屋根の上にひょっこり突出して見えるのは、今も残る「火の見櫓」(ひのみやぐら)。現在は国の登録有形文化財に指定されている。
江戸時代に建てられて、以降、大火事の度に焼失しつつも、その都度再建された。その後、町の変遷と共に少しずつ場所を移動し、今の所に落ち着いた。
昔は、高山の町を火災から守る大切な役目を担っていたけど、今は、商店街のシンボルとなっている。
賑やかなアーケード商店街から横へと延びる路地。
ちょっと横道に逸れたくなった。人混みを避けて、路地へ入ってみよう。
きれいに舗装されている裏路地。平屋の長屋が続いている。
ここは、夜に通ると美味しい物にありつける魅惑の路地。
おっと、裏路地の途中でぶどう棚を発見。これも立派な飛騨高山産。
ぶどうの鉢のすぐ真上に、さりげなく貼られたステッカー。
『立ち小便禁止』
きゃー!これはだしかん!
(だしかん=飛騨弁で「だめ!」の意味)
ぶどうからの重要なお願い。
頼むから引っかけないでー-!
路地で立ち話をするおばちゃん。これも高山らしい風景。
大通りに出てきた。昔から変わらない店構えの漬物屋さん。
ここは昔、私が子どもだった頃はお土産屋さんだった。その後、いろいろ変遷があり、今は中華そば屋さんになっている。ちなみに高山では、「ラーメン」のことを「中華そば」と呼ぶのが主流。
さて、暑い中をぐるりと歩いてひと汗かいたので、ちょっと一休みしましょうか。
高山の老舗喫茶店「COFFEE DON」(通称・ドン)で、おやつタイム。
いつもは奥の方の席に座るんだけど、今日は初めて通りに近い席に座った。
DONの娘さんが、毎晩丁寧に仕込みをしているという自家製ドーナッツ。シナモンシュガーがきいて、フワフワで美味しい。
夏のクリームあんみつ。黒蜜をたっぷりかけていただく。
歩き疲れた体に、甘味が優しくしみわたる。
高山っ子なら老若男女問わず、みんなが知っているDON。久しぶりに寄ってみたけど、変わらない佇まいと美味しさに、心が癒されてホッとした。
道行く人を眺めながら、しばし涼んで英気を養う。
それにしても・・・。
100年に一度のパンデミックを体験している私たち。
足元が定まらない不安定な世界を、私たちは生きている。
そんな見えない敵と戦いながら、宛もなく世界を彷徨うような毎日の中で、ふと、昔と変わらない佇まいで、今もそのまま残っているものを見つけると、砂漠の中で命の水を発見したような尊い気分になる。
昔の記憶のまま、今もここに存在してくれたことに、心から感謝したくなる。
淋しそうな表情をしている君。君はどう思う?
また歩き始める。
これはかなりディープな裏路地。この道の向こう側にあるのは、いつの時代のどんな世界だろう?
アーケード通りを歩いていたら、小さな神社が見えてきた。
ここは山桜神社。
本町商店街の中にある神社で、この日はちょうど馬頭絵馬市を催していた。
毎年8月に、馬頭観音の絵馬市が開催されることで有名。
いつもは、畳のスペースに絵馬が描かれた和紙が色鮮やかに広げられ、売り手と買い手の距離が近く、とても賑やかで華やか。
しかし今は、感染予防対策のため、ビニール幕がしっかり掛けられている。ソーシャルディスタンスはバッチリ。
だけど、これだと風情が無い。コロナだから仕方が無いか・・・。
ちなみに絵馬は、左向きと右向きの2パターンがあり、色も黒馬と白馬の2色。購入すると、上の写真のように名前を書いてもらえる。
この絵馬には「宝物を背負った馬が、福を運んで飛び込んでくる」という願いが込められている。
絵馬の使用例はこちら。
ここは商店街の中にある駐車場の通路。壁面の真ん中にある絵馬をご覧あれ。
高山の馬頭観音様の絵馬は、家や店舗や事務所などの玄関の内側に貼るのが習わしだ。
貼り方に決まりがある。
上の駐車場の絵馬で説明すると、左側(入口側であり外部)に馬のお尻がきて、馬の頭は右側(駐車スペースがある内部)の方を向くように貼ってある。こうすることで、馬が外から内へと駆け込んできて、福が舞い込んでくる・・・という訳だ。
だから、絵馬を購入する時は、貼りたい場所の玄関と壁面を確認し、左向きにするのか?右向きにするのか?を各自で決めなくてはいけない。ちなみに、馬の色は個人のお好みで。
これを貼ると商売繁盛・家内安全になるので、大きい絵馬を店舗の入口の壁にドンと貼っているお店が飛騨には多い。また、個人宅で玄関に貼っているご家庭も多々あり、みなさん福を呼び込んでいる。
これは、昔から変わらない飛騨高山の夏の風物詩。
さて、もう少し歩こう。
そろそろ陽が傾き始めたというのに、まだまだ暑いね。
昔からある老舗の鰻屋さん。
《問題》この巨大うなぎは何と言っているでしょう?吹き出し部分に適切な言葉を入れなさい。
案内板も消防ホース格納箱も消火器も、みんなウッディーな飛騨高山。
ここのお宅にもぶどう棚。ぶどうの自家栽培が流行っているのかな。
見上げると、昔ながらの外灯があった。この辺りは、夜になるとこうした古い外灯がポツポツと灯り、ノスタルジックな雰囲気に包まれる。
また路地を発見。今度は宮川へ下りられる道だった。ちょっと行ってみよう。
高山の中心地を流れる宮川。さっき渡ったばかりの橋が見える。
川辺は涼しくて気持ちがいい。
川上に目を向ける。手前の橋の下から奥に見える赤い橋は、さっきも見た橋…中橋だ。
そういえば私の母は、子供の頃、この宮川で川遊びをしたそうだ。
昭和20〜30年代、学校にまだプールが無かった時代、川は子どもたちの遊び場だった。夏休みになると、他の子供たちと一緒によく中橋の辺りで遊んでいたという。
その後、私が小学生だった昭和50年代には、どこの学校にもプールが完備され、宮川はもう子ども達が遊ぶ川ではなくなってしまった。
以降、川には鯉が放流されるようになり、人間の子どもではなく鯉が悠々と泳いでいる。
母の記憶の中にある宮川と、私の記憶にある宮川。世代が違うと、見えていた風景もここでの体験も全然違ってくる。
石段を上がり、元の通りに戻ってきた。
この道は南北に延びているため、午後になると日陰になる。暑い夏にはありがたい。
さて、また古い町並み地区を歩く。
夕方になると観光客が少しずつ減り、静かになってくる。
朝顔の蔓が品よく伸びている玄関。緑のフレームが爽やかで涼しげ。
土産物屋の店頭にてかぼちゃを販売。自家菜園の畑で採れたものかな。
お香屋さんの前の植木鉢。こちらの朝顔は、夏バテ気味でちょっとお疲れモード。
「古い町並み」と呼ばれている地区。
高校生だったあの頃、あれは80年代半ばだった。ある年の夏休みに、私はこの古い町並みに住んでいた親戚の土産物屋で、店番のお手伝いをしていた。
店の持ち主であるおじさんとおばさんは、子どもがいなかったこともあり、私のことを実の娘のように可愛がってくれた。
毎朝、自転車でおじさんの家に行き、一日中、店の奥に座る。
外は日差しが強くて暑くても、町屋の奥は風が通って涼しかった。
店の前の軒にかけた風鈴が揺れて、チリンと澄んだ音を奏でる。のれんが風で揺れる。よく手入れが行き届いた店先の鉢植えの緑が、夏の日差しを受けてキラキラと輝く。外で打ち水をするおばさん。往来する観光客の声が響く。
お客さんとのやり取りも楽しく、また、おじさんの友達だという同じ筋のご隠居さんがふらりと店にやってきて、勘定場の横の畳に腰を下ろし、長話をすることもあった。
ゆったり流れるこの豊かな時間。それは、これからもずっと当たり前のように永遠に続くのだ…と、まだ子どもだった私は無邪気にそう信じていた。
やがて私は大人になる。
おじさんは亡くなり、おばさんも老齢で店をやっていけなくなり、数年前にあの店は人手に渡ってしまった。その後、最近になって、全く別の店に生まれ変わったという話を耳にした。
そして今回、私はこの散歩の途中で、すっかり変わり果ててしまったその場所を初めて目にしたのだった。
キラキラ輝いていた思い出も、昭和末期のどこか穏やかな夏の高山の風情も、おじさんの飄々とした表情や話し声も、私に気さくに話しかけてくれた今は亡きご隠居さん達の面影も、全てが儚く泡のように消えてしまったような気持ちになり、なんだか悲しかった。
これが「喪失感」というものなのか。
ここだけではない。
久しぶりに市街地を歩いてみて、私が知っていた町ではなく、違う町へと変貌しつつあることに気づいた。あの疫病だけではない、少子高齢化の波も押し寄せている。住む人が老いて減っていくことで、町の表情もみるみる変わっていく。
町も生き物だ。
そこに住む人々の意思によって、自由に柔軟に変化していくことも必要なことだと思う。
だけど、高山らしいようでいて高山とはどこか違う、何か作られた私の知らない高山が生み出されて独り歩きし、どんどん知らないところへ流されていくような、そんな淋しさをふと感じたのだった。
先人が長い時間をかけて築き上げてきたものが、ここにはある。
今存在しているものは全て、何百年もの長い歴史をかけて、先人たちが築き上げ、次世代に継承してきたものばかりである。
何かを新たに作り上げるということは、膨大な時間と巨大なエネルギーが必要であり、また、こうして一度作ったものを、長く堅持していくことも大変なことである。
しかし、どんなに強く固く守ってきたものであっても、失う時はあっという間だ。一瞬でいとも簡単に消失してしまう。そして、一度失ったものは、もう二度と元に戻すことはできない。
だからこそ、いつまでも変わらないでほしいと切に願ってしまう。
この世の物は全てに限りが有る。
いつかは消えて無くなるもの。
一度失えば、脳に刻まれた記憶の中でしか会えない。
その脳もいつかは衰え朽ちる。
私達の人生には、常に喪失の淋しさがつきまとう。
だから愛しくて切ないのだ。
私の祖父母が生きていた頃の高山、母が見てきた高山、私が知っている高山、私の息子が今ここで体験している高山。
それぞれに見えている風景が違うのは、時代の変化と共に、街も変わってきたからだ。
ここで生きていくためには、時には変化への葛藤や不安を突破して、その先にある未来を掴む勇気が必要なのかもしれない。
それぞれの世代が、この町で生きていくために、様々な選択と決断を繰り返してきた。
その結果が今の姿であり、私達はまた、未来に向けて新しい選択と決断をしているその最中だ。
そう考えると、今の街の風景は、今の子供たちの記憶の中で生き続けていく高山であり、これが若い世代にとっての故郷の景色。
どんなに世代が変わっても、いつの時代の人々も、この町を好きであることは決して変わらない。
さあ、顔を上げて、また歩こう。
昔からあるタクシー乗り場。
昭和感が抜けたカッコいい看板になっていた。
歩道に並べられた水草の鉢。右から2つ目の鉢の水が昆布茶みたいになっていた。
ゑび坂を登る。周辺の建物は変わっても、この坂の佇まいは、昔から変わらない。
ゑび坂の「おかめ石」。昔からある名物石。この坂を通るたびに、ついつい探してしまう。ヒントは「おかめ型の石」なんだけど、どれかわかるかな?
ゑび坂の途中で立ち止まり、振り返って市街地を眺める。
お盆前だったせいかな。
昔の記憶が鮮やかに甦ってくる不思議な散歩だった。
懐かしい思い出に浸りつつ、町の新しい風景に出会い、失ったもの、新しいもの、様々なものに触れて、いろんなことを考え、深く感じた。
今度は他の思い出も辿ってみよう。
また、歩きに来るね。
ところで、都会人と田舎人、この両者の違いは何か?と問われたら、私は真っ先に『人の多さへの耐性の有無』と答えたい。
私の周りの地元人に聞くと、「人で混んでいる場所には行きたくない」と答える人が多い。コロナが流行る前から、みんな「密」が苦手なのだ。
都会の人たちのように、ラーメン屋の前で1時間待ちとか、人気スイーツ店の前で2時間待ちとか、そんな気の長いことなんてしていられない。長蛇の列の最後尾に並ぶくらいなら、もう諦めて他の空いている所に行っちゃおう…と、つい思ってしまう。
実は私もそんな口で、観光客がごった返しているシーズン中は、何処へ行っても落ち着かないので、観光マップに載っている人気スポットにはなるべく近寄らないようにしている。
だけど、今回はあえて、夏休み中の日曜日、一番混み合う休日を狙って、市街地へ行ってみた。
どうしてかって?
うーん、ちょっとした好奇心かな。
コロナ禍で一時は客足が途絶えた高山も、今、またたくさんの観光客で賑わっている。
2年以上に及ぶ自粛期間を経て、町の表情が変わってしまったという話を耳にするけど、果たしてどうなんだろう?
その辺りを確かめたくて、自分の足で歩いて見てみることにしたのだった。
とりあえず空町にある高山市図書館の駐車場に車を止めて、そこから市街地へと歩き始めた。
美しく整備された細い路地を見つけて、真っ直ぐ進む。
平成のどこかから、市街地内にある昔ながらの古い路地がきれいに整えられた。こうして、あちこちで、誰でも自由に通ることができる路地が次々と生まれた。この路地もそれだろう。
ちなみに、飛騨地方ではかつて、細くて狭い路地のことを【筋骨】(きんこつ)と呼んでいた。家と家の間、土地と土地の間を縫うように張り巡らされた道の様子から、人体に例えてそう呼んできた。
ちなみに「筋骨」とは、世間一般で「赤道(あかみち)」と言われている道のことである。
一応、公道だから誰でも通れるけど、生活臭がプンプンと立ち込めるプライベートゾーンのぎりぎりを這うように路地が走っていたから、初めて訪れる「よそ者」には、ちょっと刺激が強すぎて通りにくかった。通行人と家々との距離が近すぎるところから、目のやり場に困ってしまうことも多かった。
しかし、令和の裏路地は、路地と家の境界線がはっきりと区切られ、どこまでも真っすぐである。
これならこの地区の人も、通り抜ける観光客も、怖くもないし恥ずかしくもない。
路地を歩きながら、ふと考える。
はて、ここは以前どんな道だったっけ?
もっと狭くて薄暗くて「よそ者」が通るにはちょっと勇気がいるような、生活感に満ちた古い路地だったような気がする。でも、以前のこの場所の様子が全く思い出せない。
便利に整えられていくことで、人々の息づかいや体温、生活の臭い、町の生々しい記憶などが、全てが跡形もなく消え去っていく。
路地を抜けたら、見晴らしのいい所に出てきた。
ここも昔は無かった場所であり、平成時代に観光客向けに整備されてできた。
石段を下りて、市街地へと入る。
ちなみに、この日の気温は32℃。
昔、飛騨地方では30℃を超える「真夏日」は今ほど多くなかった。
ところが最近では、高山も温暖化の影響で都市部並みに暑くなっている。35℃以上の猛暑日も年々増えてきた。自然が多いこの地域でも、温暖化の影響を確実に受けている。
昔の高山しか知らないご先祖様が、お盆でこちらの実家に帰ってきたら、全然涼しくないのにビックリするだろうなぁ。
あぁ暑い…。紫外線がジリジリと肌に突き刺さる。
坂道を下りて、市街地に出てきた。
「飛騨高山まちの体験交流館」
高山の伝統工芸の実演を見学したり、さるぼぼ人形などの工芸品の製作体験ができる施設だ。
そうそう、ここは昔、市の図書館だったんだよね。
中高生の頃に、私も時々利用していた。昔の豪商の邸宅跡地に建てられた図書館で、当時の書庫は狭くて薄暗くて、一人でいるとちょっぴり怖かったことを、今もうっすら覚えている。
やはりここも、平成時代に新しい図書館が他に作られ、そちらへ全て移転したため、ここにあった古い建物もとうとう壊されてしまった。そして令和になり、観光客や地元の人が楽しめるスポットへと生まれ変わったのだ。
こうして少しずつ高山の新しい顔になりつつある。
昔を知っている人(私も含めて)は、旧図書館の記憶の上に、今のこの新しい施設の風景を上書き保存していくのだろうし、初めてここを訪れる人々は、今のこの風景を「これが高山の景色なんだ」と脳裏の1ページ目に刻み込んでいくのだろう。
更に歩く。
鮮やかな漆器が目に入った。
伝統工芸の飛騨春慶(ひだしゅんけい)の器たち。露店で販売されていた。
店番の男性は漆職人さんで、背後の建物が工房とのこと。全て手作業で塗られたものだそう。
そういえば、前から「落としても割れないカップが欲しい」と息子が言っていたのを思い出し、息子用に漆器のマグカップを一つ購入した。食器洗剤で洗ってもOKとのこと。
こういう時、『なんちゃって観光客』だと、お店の人のサービス精神から面白い話や裏話なんかがたくさん聞けるので、すごく楽しい。
「漆塗りのカップに入れた飲み物は、他の器と違い、味がまろやかになり美味しく変化するんですよ」
と教えてくれた職人のおじさんの話が、妙に心に残った。
息子に聞いてみて、使い心地が良さそうだったら、後日、私も一つ買ってみよう。
陽射しがまぶしい。
造り酒屋の煙突とギラギラ太陽。そして青空。
この辺りは「古い町並み」地区。さすがにここに来ると、観光客がドンと増える。
メインストリートの上三之町に辿り着く。いやはや、すごい人だった。
日本全国から集まる観光客。マスクをしている人、していない人、鼻マスクの人。それぞれの生き方と価値観が交錯している。
観光客の波をかき分けて、前へと進む。
ガラスケースの中でちょこんと正座しているお人形。この御仁はマスク着用で、感染予防対策はバッチリでござるよ。
さんまち通りに出たら、ちょうど「我楽多市」(がらくたいち)が開催中だった。
我楽多市とは、昭和57年から始まった飛騨高山の骨董市で、冬期間を除いた毎月第一日曜日に開催されている。高山美術商組合が主催で、骨とう品や古美術品が販売されている。
昔はもっとたくさんの出店があり、これを目当てにくる客も多く、大変賑わっていたんだけど、この日はお店もお客さんもまばらだった。
きっと暑さとコロナのせい。
遠くに見える赤い橋は「中橋」。こうしてみると緑が多い。飛騨は山の国・木の国だなぁ・・・と思う。
宮川沿いに建つ家々。この風景は昔のまま変わらない。昭和で時間が止まっている。
本町商店街に出てきた。
勢いよく水をまくおじさん。
打ち水をすると、涼しくなるんだよね。
こちらは本町2丁目商店街のシンボルキャラクター「勇の丁次」(いさみのちょうじ)。江戸時代の火消し組の若衆がモデルになっている。
「あらよっと!」出初め式の決めポーズがカッコイイ。
民家の屋根の上にひょっこり突出して見えるのは、今も残る「火の見櫓」(ひのみやぐら)。現在は国の登録有形文化財に指定されている。
江戸時代に建てられて、以降、大火事の度に焼失しつつも、その都度再建された。その後、町の変遷と共に少しずつ場所を移動し、今の所に落ち着いた。
昔は、高山の町を火災から守る大切な役目を担っていたけど、今は、商店街のシンボルとなっている。
賑やかなアーケード商店街から横へと延びる路地。
ちょっと横道に逸れたくなった。人混みを避けて、路地へ入ってみよう。
きれいに舗装されている裏路地。平屋の長屋が続いている。
ここは、夜に通ると美味しい物にありつける魅惑の路地。
おっと、裏路地の途中でぶどう棚を発見。これも立派な飛騨高山産。
ぶどうの鉢のすぐ真上に、さりげなく貼られたステッカー。
『立ち小便禁止』
きゃー!これはだしかん!
(だしかん=飛騨弁で「だめ!」の意味)
ぶどうからの重要なお願い。
頼むから引っかけないでー-!
路地で立ち話をするおばちゃん。これも高山らしい風景。
大通りに出てきた。昔から変わらない店構えの漬物屋さん。
ここは昔、私が子どもだった頃はお土産屋さんだった。その後、いろいろ変遷があり、今は中華そば屋さんになっている。ちなみに高山では、「ラーメン」のことを「中華そば」と呼ぶのが主流。
さて、暑い中をぐるりと歩いてひと汗かいたので、ちょっと一休みしましょうか。
高山の老舗喫茶店「COFFEE DON」(通称・ドン)で、おやつタイム。
いつもは奥の方の席に座るんだけど、今日は初めて通りに近い席に座った。
DONの娘さんが、毎晩丁寧に仕込みをしているという自家製ドーナッツ。シナモンシュガーがきいて、フワフワで美味しい。
夏のクリームあんみつ。黒蜜をたっぷりかけていただく。
歩き疲れた体に、甘味が優しくしみわたる。
高山っ子なら老若男女問わず、みんなが知っているDON。久しぶりに寄ってみたけど、変わらない佇まいと美味しさに、心が癒されてホッとした。
道行く人を眺めながら、しばし涼んで英気を養う。
それにしても・・・。
100年に一度のパンデミックを体験している私たち。
足元が定まらない不安定な世界を、私たちは生きている。
そんな見えない敵と戦いながら、宛もなく世界を彷徨うような毎日の中で、ふと、昔と変わらない佇まいで、今もそのまま残っているものを見つけると、砂漠の中で命の水を発見したような尊い気分になる。
昔の記憶のまま、今もここに存在してくれたことに、心から感謝したくなる。
淋しそうな表情をしている君。君はどう思う?
また歩き始める。
これはかなりディープな裏路地。この道の向こう側にあるのは、いつの時代のどんな世界だろう?
アーケード通りを歩いていたら、小さな神社が見えてきた。
ここは山桜神社。
本町商店街の中にある神社で、この日はちょうど馬頭絵馬市を催していた。
毎年8月に、馬頭観音の絵馬市が開催されることで有名。
いつもは、畳のスペースに絵馬が描かれた和紙が色鮮やかに広げられ、売り手と買い手の距離が近く、とても賑やかで華やか。
しかし今は、感染予防対策のため、ビニール幕がしっかり掛けられている。ソーシャルディスタンスはバッチリ。
だけど、これだと風情が無い。コロナだから仕方が無いか・・・。
ちなみに絵馬は、左向きと右向きの2パターンがあり、色も黒馬と白馬の2色。購入すると、上の写真のように名前を書いてもらえる。
この絵馬には「宝物を背負った馬が、福を運んで飛び込んでくる」という願いが込められている。
絵馬の使用例はこちら。
ここは商店街の中にある駐車場の通路。壁面の真ん中にある絵馬をご覧あれ。
高山の馬頭観音様の絵馬は、家や店舗や事務所などの玄関の内側に貼るのが習わしだ。
貼り方に決まりがある。
上の駐車場の絵馬で説明すると、左側(入口側であり外部)に馬のお尻がきて、馬の頭は右側(駐車スペースがある内部)の方を向くように貼ってある。こうすることで、馬が外から内へと駆け込んできて、福が舞い込んでくる・・・という訳だ。
だから、絵馬を購入する時は、貼りたい場所の玄関と壁面を確認し、左向きにするのか?右向きにするのか?を各自で決めなくてはいけない。ちなみに、馬の色は個人のお好みで。
これを貼ると商売繁盛・家内安全になるので、大きい絵馬を店舗の入口の壁にドンと貼っているお店が飛騨には多い。また、個人宅で玄関に貼っているご家庭も多々あり、みなさん福を呼び込んでいる。
これは、昔から変わらない飛騨高山の夏の風物詩。
さて、もう少し歩こう。
そろそろ陽が傾き始めたというのに、まだまだ暑いね。
昔からある老舗の鰻屋さん。
《問題》この巨大うなぎは何と言っているでしょう?吹き出し部分に適切な言葉を入れなさい。
案内板も消防ホース格納箱も消火器も、みんなウッディーな飛騨高山。
ここのお宅にもぶどう棚。ぶどうの自家栽培が流行っているのかな。
見上げると、昔ながらの外灯があった。この辺りは、夜になるとこうした古い外灯がポツポツと灯り、ノスタルジックな雰囲気に包まれる。
また路地を発見。今度は宮川へ下りられる道だった。ちょっと行ってみよう。
高山の中心地を流れる宮川。さっき渡ったばかりの橋が見える。
川辺は涼しくて気持ちがいい。
川上に目を向ける。手前の橋の下から奥に見える赤い橋は、さっきも見た橋…中橋だ。
そういえば私の母は、子供の頃、この宮川で川遊びをしたそうだ。
昭和20〜30年代、学校にまだプールが無かった時代、川は子どもたちの遊び場だった。夏休みになると、他の子供たちと一緒によく中橋の辺りで遊んでいたという。
その後、私が小学生だった昭和50年代には、どこの学校にもプールが完備され、宮川はもう子ども達が遊ぶ川ではなくなってしまった。
以降、川には鯉が放流されるようになり、人間の子どもではなく鯉が悠々と泳いでいる。
母の記憶の中にある宮川と、私の記憶にある宮川。世代が違うと、見えていた風景もここでの体験も全然違ってくる。
石段を上がり、元の通りに戻ってきた。
この道は南北に延びているため、午後になると日陰になる。暑い夏にはありがたい。
さて、また古い町並み地区を歩く。
夕方になると観光客が少しずつ減り、静かになってくる。
朝顔の蔓が品よく伸びている玄関。緑のフレームが爽やかで涼しげ。
土産物屋の店頭にてかぼちゃを販売。自家菜園の畑で採れたものかな。
お香屋さんの前の植木鉢。こちらの朝顔は、夏バテ気味でちょっとお疲れモード。
「古い町並み」と呼ばれている地区。
高校生だったあの頃、あれは80年代半ばだった。ある年の夏休みに、私はこの古い町並みに住んでいた親戚の土産物屋で、店番のお手伝いをしていた。
店の持ち主であるおじさんとおばさんは、子どもがいなかったこともあり、私のことを実の娘のように可愛がってくれた。
毎朝、自転車でおじさんの家に行き、一日中、店の奥に座る。
外は日差しが強くて暑くても、町屋の奥は風が通って涼しかった。
店の前の軒にかけた風鈴が揺れて、チリンと澄んだ音を奏でる。のれんが風で揺れる。よく手入れが行き届いた店先の鉢植えの緑が、夏の日差しを受けてキラキラと輝く。外で打ち水をするおばさん。往来する観光客の声が響く。
お客さんとのやり取りも楽しく、また、おじさんの友達だという同じ筋のご隠居さんがふらりと店にやってきて、勘定場の横の畳に腰を下ろし、長話をすることもあった。
ゆったり流れるこの豊かな時間。それは、これからもずっと当たり前のように永遠に続くのだ…と、まだ子どもだった私は無邪気にそう信じていた。
やがて私は大人になる。
おじさんは亡くなり、おばさんも老齢で店をやっていけなくなり、数年前にあの店は人手に渡ってしまった。その後、最近になって、全く別の店に生まれ変わったという話を耳にした。
そして今回、私はこの散歩の途中で、すっかり変わり果ててしまったその場所を初めて目にしたのだった。
キラキラ輝いていた思い出も、昭和末期のどこか穏やかな夏の高山の風情も、おじさんの飄々とした表情や話し声も、私に気さくに話しかけてくれた今は亡きご隠居さん達の面影も、全てが儚く泡のように消えてしまったような気持ちになり、なんだか悲しかった。
これが「喪失感」というものなのか。
ここだけではない。
久しぶりに市街地を歩いてみて、私が知っていた町ではなく、違う町へと変貌しつつあることに気づいた。あの疫病だけではない、少子高齢化の波も押し寄せている。住む人が老いて減っていくことで、町の表情もみるみる変わっていく。
町も生き物だ。
そこに住む人々の意思によって、自由に柔軟に変化していくことも必要なことだと思う。
だけど、高山らしいようでいて高山とはどこか違う、何か作られた私の知らない高山が生み出されて独り歩きし、どんどん知らないところへ流されていくような、そんな淋しさをふと感じたのだった。
先人が長い時間をかけて築き上げてきたものが、ここにはある。
今存在しているものは全て、何百年もの長い歴史をかけて、先人たちが築き上げ、次世代に継承してきたものばかりである。
何かを新たに作り上げるということは、膨大な時間と巨大なエネルギーが必要であり、また、こうして一度作ったものを、長く堅持していくことも大変なことである。
しかし、どんなに強く固く守ってきたものであっても、失う時はあっという間だ。一瞬でいとも簡単に消失してしまう。そして、一度失ったものは、もう二度と元に戻すことはできない。
だからこそ、いつまでも変わらないでほしいと切に願ってしまう。
この世の物は全てに限りが有る。
いつかは消えて無くなるもの。
一度失えば、脳に刻まれた記憶の中でしか会えない。
その脳もいつかは衰え朽ちる。
私達の人生には、常に喪失の淋しさがつきまとう。
だから愛しくて切ないのだ。
私の祖父母が生きていた頃の高山、母が見てきた高山、私が知っている高山、私の息子が今ここで体験している高山。
それぞれに見えている風景が違うのは、時代の変化と共に、街も変わってきたからだ。
ここで生きていくためには、時には変化への葛藤や不安を突破して、その先にある未来を掴む勇気が必要なのかもしれない。
それぞれの世代が、この町で生きていくために、様々な選択と決断を繰り返してきた。
その結果が今の姿であり、私達はまた、未来に向けて新しい選択と決断をしているその最中だ。
そう考えると、今の街の風景は、今の子供たちの記憶の中で生き続けていく高山であり、これが若い世代にとっての故郷の景色。
どんなに世代が変わっても、いつの時代の人々も、この町を好きであることは決して変わらない。
さあ、顔を上げて、また歩こう。
昔からあるタクシー乗り場。
昭和感が抜けたカッコいい看板になっていた。
歩道に並べられた水草の鉢。右から2つ目の鉢の水が昆布茶みたいになっていた。
ゑび坂を登る。周辺の建物は変わっても、この坂の佇まいは、昔から変わらない。
ゑび坂の「おかめ石」。昔からある名物石。この坂を通るたびに、ついつい探してしまう。ヒントは「おかめ型の石」なんだけど、どれかわかるかな?
ゑび坂の途中で立ち止まり、振り返って市街地を眺める。
お盆前だったせいかな。
昔の記憶が鮮やかに甦ってくる不思議な散歩だった。
懐かしい思い出に浸りつつ、町の新しい風景に出会い、失ったもの、新しいもの、様々なものに触れて、いろんなことを考え、深く感じた。
今度は他の思い出も辿ってみよう。
また、歩きに来るね。