ノスタルジック飛騨高山・空町を歩く
- 更新日: 2022/03/17
ガラス窓に映っているのは私
飛騨高山にある「空町」(そらまち)。
これはどんなに探しても地図には載っていない地名である。しかし、生粋の高山人ならば皆が知っている町だ。
空町とは、高山市街地の東側、ゑび坂を上がった所にある小高い土地一帯のことをいう。
今は地区ごとに「馬場町」「吹屋町」「愛宕町」「天性寺町」…と細かく町名がついているけど、ついつい昔の名残で、高山の人はこの辺りのことを、ひとくくりにして「空町」と呼んでいる。
(高山市図書館の駐車場の名称に「空町」の文字。図書館がある辺りも空町)
ここで少し歴史について説明しよう。
昔、戦国時代に豊臣秀吉の命で飛騨に攻め入った金森長近は、そのまま飛騨一国の主となり、この地に城下町を築いた。それが現在の高山市である。
この時、金森長近は、今は「城山」と言われている山に高山城を築き、城のすぐ脇にある小高い土地を家臣たちの屋敷町と定めた。更に屋敷町の奥には寺院を並べ建て、京都の東山地区に模した寺町を築いた。
(飛騨高山観光パンフレット「東山遊歩道」より)
そんな坂の上にある武家町から寺町にかけての高台一帯を、高山の町衆は「空町」と呼んだ。
ちなみに商人など町衆の居住地は、坂の下の地区に置いた。現在「古い町並み」と呼ばれる地域がそこである。
(こちらはゑび坂。この坂の下が商人や町人のエリア。坂の上が「空町」地区である)
その後、飛騨国は江戸幕府の天領直轄地となり、飛騨の中心地である高山の町は大きく変貌していく。
金森氏が他の領地へと移封された後、幕府の命で高山城は取り壊され、政治の中枢も坂の上から坂の下へと下ろされた。坂を下りた所にある金森家の下屋敷が、代官所に定められたのである。
この代官所は、今も「高山陣屋」として現存している。
かつては金森家の家臣が住んでいた空町は、時代と共に庶民が暮らす町へと変わっていった。
現在の空町は、江名子川が流れ、細い小路や長屋が連なり、下町の風情を強く残している。
昭和の雰囲気が、今も色濃く残る町。
それが「空町」である。
そして、私の母は、この空町の出身であった。
◇◇◇
2022年3月。
珍しく雪ではなかった。
時々、天から雨粒がパラパラとこぼれ落ちる。
「この程度なら大丈夫かな?」
と思い、私は傘を持たずに空町を歩いた。
「三寒四温」というけど、飛騨では3月にはまだ雪が降る。
「三寒」で雪が降り、「四温」に雨が降る…という感じだ。
今までなら雪が舞うところを、この日は春らしく小雨となった。
今年は大雪だったため、雨が降るほど温かくなったとはいえ、屋根や日陰にはまだ雪がたくさん残っている。
高山の人にはなじみ深い高山米穀。
ゑび坂から東山の方へ歩いていくと、途中で小さな川にぶち当たる。
この川は、江名子川(えなこがわ)という。
この橋を渡ると、そこから先はたくさんの寺院が並ぶ寺町となる。
江名子川沿いを歩いてみる。
昔のまま、全く手つかずの家も多い。昭和で時間が止まってしまったかのよう。
雪の重みで軒が折れないよう、補強してある屋根。
車一台がやっと通れるほどの路地。
雪かき道具。まだ雪が降るかもしれないので、4月になるまで片付けられない。
助六橋を渡った先にある土蔵の辺りは、近年新しくできた公園。雪に埋もれていた。
川沿いを歩き、途中、短い坂道を登って、祖母が暮らしていた町に辿り着いた。
所々に残雪がある。
ちょうど冬と春の境目で、空は雲に覆われている。
薄暗さを感じるのは、季節がしっかり定まっていないからかもしれない。植物も生き物も、まだ冬の眠りから目覚めていない空白の時。
この世界全体に色は無く、もしも無理に色を付けるとしたらグレーがかった…というべきか。
いつもそうだけど、この時期の飛騨は、どこかもの悲しくて淋しい。
◇◇◇
飛騨牛乳の配達ボックス。
防火用バケツと竹ぼうき。
宗猷寺境内の公衆トイレの入口上部に祀られた烏枢沙摩明王さま。
◇◇◇
母の実家は空町(宗猷寺町)の一角にあった。
母の実家(私の母方の祖母の家)は、戦前に建てられた古い家で、間口は狭いけど奥に長い町屋造り。玄関を開けると、土間がまっすぐ奥まで続いていた。
私は、祖母が動き回っている姿をあまり見たことがなく、祖母はいつも居間の掘り炬燵の奥に、まるでそこに鎮座するかのようにどっしりと座っていた。
髪をキュッと頭の上で結わえて、着物をゆるく着流し、時々、愛用のキセルで煙草をふかしていた祖母。
生前の祖母をよく知っている人は、「あの人はなかなかの女傑だった。厳しい人だった。」と口をそろえて言う。
確かに、やさしく温かく包み込んでくれるというよりは、芯が強くて筋をキッチリ通し、誰に対しても物おじしない、打てば響くような潔さがあった。
明治生まれの気質が、祖母をそういう人に仕立てていたのかもしれない。
私の母は、お盆・お正月・祖母の町の神社の例祭の日には、必ず子供たちを連れて、自分の実家(祖母の家)に帰った。
私が一番好きで印象に残っているのは、例祭(お祭り)の日だ。
祖母の地区の神社の例祭は5月5日。大型連休の最終日を飾るこの日は、毎年不思議と天候がよく、いつも五月晴れの清々しい日だった。
春から初夏へと移り変わる新緑の季節。
お祭りの日に祖母の家に行くと、家はきれいに履き清められ、祭ののれんが玄関に飾られる。
このハレの日には、母の姉妹達も家族を連れて帰省するため、いつもは静かな祖母の家が、たくさんの人で賑やかになる。
襖を取っ払って、座敷にテーブルを準備し、この日のために用意された赤飯や仕出し屋のご馳走をいただく。大人たちは酒を飲み、子供たちは久しぶりに会ういとこたちと過ごす。
この時、私は、親戚のおじさんやおばさんから、お小遣いをもらえるのが楽しみだった。
もらった硬貨や500円札を握りしめて、私は靴を履き、いとこたちと連れだって祖母の家から飛び出した。
家の前の通りを走り抜け、「たかの湯」という銭湯の角を曲がって、細い坂道を駆け下りる。
下りたところにあるのは江名子川。
その川にかかる小さな橋を渡り、私達は駄菓子屋へと走った。
昔から飛騨の子供は、駄菓子屋に入るときは、「ごーめん!」と言う。
「ごめんください」の略なんだろうけど、子ども達の間ではこれが流儀になっていた。
私も、いとこたちと一緒に「ごーめん!」と大きな声で叫んで駄菓子屋に入る。
すると奥から店のおばちゃんが出てくる。
「おばちゃん、これいくら?あれは?」
と聞くと、おばちゃんは、
「これか?これは20円やよ。そっちは50円。」
と答える。
そんなやり取りを何回かした後、私達は限られたお小遣いの中で買えそうなもの、そして、欲しいものを選んでいく。
くじを引いたり、駄菓子を買ったり、おもちゃ(へび花火や妖怪けむり)を選んだり…等々。
そういえば、男の子達はメンコを買い、女の子はおはじきを買っていたなぁ。
これらは、放課後、友達と遊ぶための大事な道具だった。
こうして買ったものを紙袋に入れてもらい、私達は駄菓子屋を出る。
次に向かうのは、公園だ。
さっきの「たかの湯」の角を下った先に小さな公園があり、そこが私達の遊び場だった。
買ったばかりの駄菓子を食べたり、遊具に乗って遊んだり、小石で地面に丸を書いたり、ケラケラ笑ったり…。クタクタに疲れて飽きるまで、私達は夢中になってここで遊んだ。
今回、久しぶりにあの公園に行くと、敷地も遊具も雪に埋もれていた。
今季は大雪だったことがうかがえる情景。
「こんなに狭くて小さかったんだ…」と、改めて驚く。
私の思い出の中では、この公園はとても大きくて広くて、温かくて美しい場所だった。
この町で遊んだ瞬間を、子どもでいられるこの時を、楽しかった記憶と共に自分の心にしっかりと刻み留めておこう…と、あの時の私は幼心にそう固く誓った。
子ども心にも、自分が将来大人になった時、ここで過ごした記憶は一生涯の宝物になる…と、そんな気がしていたのだ。
自分でも、ませた子どもだったなぁ…としみじみ思う。
でも、あの頃の私は小さくて幼かったけど、高山の町が…この空町の雰囲気が大好きだった。
◇◇◇
あれから40年以上経った今も、私は時々、思い出をなぞるようにこの地区を歩く。
最近は、私の記憶が薄れていくのに比例して、町の面影も風情も少しずつ変わっていくのを感じる。
人が変わり、世代が変われば、町も変わる。
『不易と流行』という言葉があるけど、「変えてはいけないもの」と「変わらなくてはいけないこと」この両方のバランスを上手に取り入れていくことが、「人が住む町」には必要なのではないか…と思う。
そう、町とは、そこに住む人々のものなのだから…。
変わってしまった部分もあれば、全く変わっていない部分もある。
でも、それで良いのだと思う。
どんなに昔のままで居たいと言っても、形あるものはいつかは朽ちる。
朽ちて土に還るのも良し、違う形に生まれ変わって生き抜くのも良し。
それはここに暮らす人々が、自ら決めることでもある。
祖母は、私が息子を産んだ次の年に亡くなった。
あの頃はまだ若かった私の両親も、今は当時の祖母と同じくらい年を取ってしまった。
そして私も…。やがて年老いて、全てが露と消えていくのだろう。
しかし、この町で生きてきた人々の息遣いや暮らしの匂いは、今も町の至る所に残っている。
ここに縁のある人々の思いや生きざまが、この町に深く染みついている。
歩きながらふと、今日こうしてこの町を歩いたことを、いつか年老いた私は懐かしく思い出すのだろうか?…と思った。
しかし、きっと、それでもやっぱり子供時代の思い出の方が、この町の記憶として私の心の中に強く残り続けるのだろうな…と思った。
幼かった私が感じた通り、あの頃の記憶は、私のかけがえのない財産になっている。
切なく愛しい。
大切な思い出たち。
これからもこの町の片隅で、私の記憶は美しく残り続けるのだろう。
幼く小さかった女の子の姿となって。
これはどんなに探しても地図には載っていない地名である。しかし、生粋の高山人ならば皆が知っている町だ。
空町とは、高山市街地の東側、ゑび坂を上がった所にある小高い土地一帯のことをいう。
今は地区ごとに「馬場町」「吹屋町」「愛宕町」「天性寺町」…と細かく町名がついているけど、ついつい昔の名残で、高山の人はこの辺りのことを、ひとくくりにして「空町」と呼んでいる。
(高山市図書館の駐車場の名称に「空町」の文字。図書館がある辺りも空町)
ここで少し歴史について説明しよう。
昔、戦国時代に豊臣秀吉の命で飛騨に攻め入った金森長近は、そのまま飛騨一国の主となり、この地に城下町を築いた。それが現在の高山市である。
この時、金森長近は、今は「城山」と言われている山に高山城を築き、城のすぐ脇にある小高い土地を家臣たちの屋敷町と定めた。更に屋敷町の奥には寺院を並べ建て、京都の東山地区に模した寺町を築いた。
(飛騨高山観光パンフレット「東山遊歩道」より)
そんな坂の上にある武家町から寺町にかけての高台一帯を、高山の町衆は「空町」と呼んだ。
ちなみに商人など町衆の居住地は、坂の下の地区に置いた。現在「古い町並み」と呼ばれる地域がそこである。
(こちらはゑび坂。この坂の下が商人や町人のエリア。坂の上が「空町」地区である)
その後、飛騨国は江戸幕府の天領直轄地となり、飛騨の中心地である高山の町は大きく変貌していく。
金森氏が他の領地へと移封された後、幕府の命で高山城は取り壊され、政治の中枢も坂の上から坂の下へと下ろされた。坂を下りた所にある金森家の下屋敷が、代官所に定められたのである。
この代官所は、今も「高山陣屋」として現存している。
かつては金森家の家臣が住んでいた空町は、時代と共に庶民が暮らす町へと変わっていった。
現在の空町は、江名子川が流れ、細い小路や長屋が連なり、下町の風情を強く残している。
昭和の雰囲気が、今も色濃く残る町。
それが「空町」である。
そして、私の母は、この空町の出身であった。
2022年3月。
珍しく雪ではなかった。
時々、天から雨粒がパラパラとこぼれ落ちる。
「この程度なら大丈夫かな?」
と思い、私は傘を持たずに空町を歩いた。
「三寒四温」というけど、飛騨では3月にはまだ雪が降る。
「三寒」で雪が降り、「四温」に雨が降る…という感じだ。
今までなら雪が舞うところを、この日は春らしく小雨となった。
今年は大雪だったため、雨が降るほど温かくなったとはいえ、屋根や日陰にはまだ雪がたくさん残っている。
高山の人にはなじみ深い高山米穀。
ゑび坂から東山の方へ歩いていくと、途中で小さな川にぶち当たる。
この川は、江名子川(えなこがわ)という。
この橋を渡ると、そこから先はたくさんの寺院が並ぶ寺町となる。
江名子川沿いを歩いてみる。
昔のまま、全く手つかずの家も多い。昭和で時間が止まってしまったかのよう。
雪の重みで軒が折れないよう、補強してある屋根。
車一台がやっと通れるほどの路地。
雪かき道具。まだ雪が降るかもしれないので、4月になるまで片付けられない。
助六橋を渡った先にある土蔵の辺りは、近年新しくできた公園。雪に埋もれていた。
川沿いを歩き、途中、短い坂道を登って、祖母が暮らしていた町に辿り着いた。
所々に残雪がある。
ちょうど冬と春の境目で、空は雲に覆われている。
薄暗さを感じるのは、季節がしっかり定まっていないからかもしれない。植物も生き物も、まだ冬の眠りから目覚めていない空白の時。
この世界全体に色は無く、もしも無理に色を付けるとしたらグレーがかった…というべきか。
いつもそうだけど、この時期の飛騨は、どこかもの悲しくて淋しい。
飛騨牛乳の配達ボックス。
防火用バケツと竹ぼうき。
宗猷寺境内の公衆トイレの入口上部に祀られた烏枢沙摩明王さま。
母の実家は空町(宗猷寺町)の一角にあった。
母の実家(私の母方の祖母の家)は、戦前に建てられた古い家で、間口は狭いけど奥に長い町屋造り。玄関を開けると、土間がまっすぐ奥まで続いていた。
私は、祖母が動き回っている姿をあまり見たことがなく、祖母はいつも居間の掘り炬燵の奥に、まるでそこに鎮座するかのようにどっしりと座っていた。
髪をキュッと頭の上で結わえて、着物をゆるく着流し、時々、愛用のキセルで煙草をふかしていた祖母。
生前の祖母をよく知っている人は、「あの人はなかなかの女傑だった。厳しい人だった。」と口をそろえて言う。
確かに、やさしく温かく包み込んでくれるというよりは、芯が強くて筋をキッチリ通し、誰に対しても物おじしない、打てば響くような潔さがあった。
明治生まれの気質が、祖母をそういう人に仕立てていたのかもしれない。
私の母は、お盆・お正月・祖母の町の神社の例祭の日には、必ず子供たちを連れて、自分の実家(祖母の家)に帰った。
私が一番好きで印象に残っているのは、例祭(お祭り)の日だ。
祖母の地区の神社の例祭は5月5日。大型連休の最終日を飾るこの日は、毎年不思議と天候がよく、いつも五月晴れの清々しい日だった。
春から初夏へと移り変わる新緑の季節。
お祭りの日に祖母の家に行くと、家はきれいに履き清められ、祭ののれんが玄関に飾られる。
このハレの日には、母の姉妹達も家族を連れて帰省するため、いつもは静かな祖母の家が、たくさんの人で賑やかになる。
襖を取っ払って、座敷にテーブルを準備し、この日のために用意された赤飯や仕出し屋のご馳走をいただく。大人たちは酒を飲み、子供たちは久しぶりに会ういとこたちと過ごす。
この時、私は、親戚のおじさんやおばさんから、お小遣いをもらえるのが楽しみだった。
もらった硬貨や500円札を握りしめて、私は靴を履き、いとこたちと連れだって祖母の家から飛び出した。
家の前の通りを走り抜け、「たかの湯」という銭湯の角を曲がって、細い坂道を駆け下りる。
下りたところにあるのは江名子川。
その川にかかる小さな橋を渡り、私達は駄菓子屋へと走った。
昔から飛騨の子供は、駄菓子屋に入るときは、「ごーめん!」と言う。
「ごめんください」の略なんだろうけど、子ども達の間ではこれが流儀になっていた。
私も、いとこたちと一緒に「ごーめん!」と大きな声で叫んで駄菓子屋に入る。
すると奥から店のおばちゃんが出てくる。
「おばちゃん、これいくら?あれは?」
と聞くと、おばちゃんは、
「これか?これは20円やよ。そっちは50円。」
と答える。
そんなやり取りを何回かした後、私達は限られたお小遣いの中で買えそうなもの、そして、欲しいものを選んでいく。
くじを引いたり、駄菓子を買ったり、おもちゃ(へび花火や妖怪けむり)を選んだり…等々。
そういえば、男の子達はメンコを買い、女の子はおはじきを買っていたなぁ。
これらは、放課後、友達と遊ぶための大事な道具だった。
こうして買ったものを紙袋に入れてもらい、私達は駄菓子屋を出る。
次に向かうのは、公園だ。
さっきの「たかの湯」の角を下った先に小さな公園があり、そこが私達の遊び場だった。
買ったばかりの駄菓子を食べたり、遊具に乗って遊んだり、小石で地面に丸を書いたり、ケラケラ笑ったり…。クタクタに疲れて飽きるまで、私達は夢中になってここで遊んだ。
今回、久しぶりにあの公園に行くと、敷地も遊具も雪に埋もれていた。
今季は大雪だったことがうかがえる情景。
「こんなに狭くて小さかったんだ…」と、改めて驚く。
私の思い出の中では、この公園はとても大きくて広くて、温かくて美しい場所だった。
この町で遊んだ瞬間を、子どもでいられるこの時を、楽しかった記憶と共に自分の心にしっかりと刻み留めておこう…と、あの時の私は幼心にそう固く誓った。
子ども心にも、自分が将来大人になった時、ここで過ごした記憶は一生涯の宝物になる…と、そんな気がしていたのだ。
自分でも、ませた子どもだったなぁ…としみじみ思う。
でも、あの頃の私は小さくて幼かったけど、高山の町が…この空町の雰囲気が大好きだった。
あれから40年以上経った今も、私は時々、思い出をなぞるようにこの地区を歩く。
最近は、私の記憶が薄れていくのに比例して、町の面影も風情も少しずつ変わっていくのを感じる。
人が変わり、世代が変われば、町も変わる。
『不易と流行』という言葉があるけど、「変えてはいけないもの」と「変わらなくてはいけないこと」この両方のバランスを上手に取り入れていくことが、「人が住む町」には必要なのではないか…と思う。
そう、町とは、そこに住む人々のものなのだから…。
変わってしまった部分もあれば、全く変わっていない部分もある。
でも、それで良いのだと思う。
どんなに昔のままで居たいと言っても、形あるものはいつかは朽ちる。
朽ちて土に還るのも良し、違う形に生まれ変わって生き抜くのも良し。
それはここに暮らす人々が、自ら決めることでもある。
祖母は、私が息子を産んだ次の年に亡くなった。
あの頃はまだ若かった私の両親も、今は当時の祖母と同じくらい年を取ってしまった。
そして私も…。やがて年老いて、全てが露と消えていくのだろう。
しかし、この町で生きてきた人々の息遣いや暮らしの匂いは、今も町の至る所に残っている。
ここに縁のある人々の思いや生きざまが、この町に深く染みついている。
歩きながらふと、今日こうしてこの町を歩いたことを、いつか年老いた私は懐かしく思い出すのだろうか?…と思った。
しかし、きっと、それでもやっぱり子供時代の思い出の方が、この町の記憶として私の心の中に強く残り続けるのだろうな…と思った。
幼かった私が感じた通り、あの頃の記憶は、私のかけがえのない財産になっている。
切なく愛しい。
大切な思い出たち。
これからもこの町の片隅で、私の記憶は美しく残り続けるのだろう。
幼く小さかった女の子の姿となって。