飛騨古川・かみさまのおさんぽin古川祭
- 更新日: 2022/06/21
神様のおさんぽ(巡行)について行ってみました。
ここは岐阜県飛騨市古川町。
「飛騨古川」と呼ばれている町である。
飛騨地方の北部に位置し、高山市(飛騨高山)と同じく、伝統的な町家が並ぶ歴史ある町である。
そんな古川で、3年ぶりに「気多若宮神社例大祭」(通称・古川祭)が執り行われた。
なぜ3年ぶりかって?
お前さん、野暮なことを聞くねぇ。コロナが原因よ。
この2年間は、神社内で神事のみを行い、町を練り歩く行列や獅子舞などの華やかな行事は全て中止になっていたのだ。
お祭りの当日。飛騨古川駅の前に立てられたお祭りの旗。
日本人の伝統的な世界観として「ハレ」と「ケ」がある…と唱えたのは、民俗学者・柳田國男であるが、飛騨の人々にとって神社の例祭は、間違いなく「ハレ」である。
特に、4月から5月の初めにかけて飛騨各地で行われる例祭(春祭り)は、厳しい冬を耐え忍んできた飛騨人たちにとって、冬の寒さから解放されて、名実ともに「春が来た」と心から祝う大切な日だ。
しかし、禍々(まがまが)しいコロナのせいで、この2年間は人が集うことが出来ず、多くの行事が中止を余儀なくされた。もちろん、「ハレ」の大舞台である神社の例祭がどこも中止となり、非常に淋しい2年間を過ごしてきた。
…が、しかし、ずっと神様を大事に敬ってきた飛騨人にとって、「ハレ」を自粛し「ケ」のみで過ごすのは、もう我慢の限界だった。
「そろそろ、祭りをやらんとだしかんやろ」(だしかん=「だめ」の飛騨弁)ということで、今年の春は、飛騨の各地で例祭が久しぶりに執り行われることになった。
とはいっても、やはり感染予防対策が必要ということで、規模を縮小し、目立たぬよう静かにやらなくてはいけないのだが…。
◆
そんな4月のある日。
春の陽気に誘われてふらり飛騨市古川町を訪れた。
そう、この日は待ちに待った古川祭の日だ。
まずは飛騨古川駅へ。
駅前のタクシー乗り場。
実は、ここ飛騨市は『君の名は。』で糸守町のモデルとして登場したため、コロナ前は聖地巡礼者で非常に賑わっていた。今となっては懐かしい思い出である。
駅前の宮川タクシーさん。
飛騨古川駅をいざ出発。
この道の先、正面の杜の中にあるのが、気多若宮神社である。
神社に向かってテクテク歩いていると、道路の真ん中で何かをまいているおばさんを発見。
「おぉ…これは!」昭和世代の飛騨人なら「懐かしい~」と感じる光景。
実はこのおばさん、塩をまいているのだ。
神様が通る道を塩で清めているのである。
神様が通られる道に、こうして塩で道筋をつくり、それを自宅の玄関へと繋げる。
すると御巡行(ごじゅんこう)が大通りを通る際に、神様が塩の道筋を伝って我が家にちょこっと寄って下さるという訳だ。
昔は、高山市内の例祭でも、皆が自宅前に塩をまいて神様をお招きしていた。
私が子どもだった昭和50年代。お祭りの朝に、この塩の道をうっかり踏むと「こりゃ!踏むな!バチが当たる!」と厳しく叱られたものだ。
しかし、時代が進むにしたがって、車が塩の上を走行したり、何も知らない観光客がカメラを構えながら踏み荒らす…なんてことが増えてきて、高山市街地ではいつの間にか見かけなくなってしまった。
おばさんに「写真を撮らせてください!」とお願いしたら、「あれまぁ」と言って、愛嬌たっぷりにケラケラ笑い、このポーズで静止してくださった。
どうもありがとうございます!
ちなみに、この塩の道だが、こんな感じで中央の筋から横道へと引かれ、最後は自宅の玄関まで引いて完了。
飛騨市の古川町では、今もこうして「塩をまく」ことが残っているんだな。
昔からの風習が残っていることに感激して嬉しくなった。
そうこうしているうちに、気多若宮神社に到着。
境内では桜が美しく咲いていた。
この大きな祭りの旗は、飛騨各地で見られるもので、祭りの数日前に、氏子の皆さんによって手作業で立てられている。
旗を立てる作業は「旗立て」、旗を倒して片付ける作業は「旗倒し」と呼ぶ。
この巨大な旗を安全に立てるための作業手順は、町内の組ごとに違う。
組の衆が集まり、実際に作業をやりながら長老から若い衆へと「立て方」を伝え、代々継承していくのだ。
こうした力仕事もまた、町の男衆にとっては誇りであり、祭りの楽しみの一つだったりする。
おっと時間がない。私は急いで鳥居をくぐり石段を駆け上がった。
息を弾ませて石段を登りきると、拝殿が見えてきた。
私が辿り着いた時、もうすでに出立の神事が始まっていた。
神様が、ちょうど鳳輦(ほうれん)にお乗りになられるところだ。間に合って良かった。
鳳輦とは、神輿よりちょっと小さめの輿で、ここに神様がちょこんとお乗りになる。
人間社会で例えるとタクシーみたいなものかな。
神様を前にして、私は慌てて、二礼二拍一礼をする。
「神様、今日は一緒に歩かせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」
と心の中でそっとお祈りする。
「うむ、ついてまいれ」
と、仰ったような気がした。
いざ、出発。
例年なら神様は神輿に乗られるのだが、コロナなので鳳輦になったそうだ。
行列人数も、今年はかなり縮小されていて、なんだか「お忍び旅行」っぽい雰囲気。
それでも、神様にとっては久しぶりのお出かけである。
久々に外を歩かれるのだから、氏子たちはもちろんのこと、神様も喜んでいらっしゃることだろう。
お祭りの日は、神様が人間の世界に降りてくださり、氏子たちが暮らす町を順番に巡ってくださるのだ。なんとありがたいことよ。
私も、神様について一緒に歩きはじめた。
いつもは、雅楽や闘鶏楽(とうけいらく)の音が響き、獅子・裃(かみしも)姿の警護・采女なども一緒に練り歩くので、とても華やかで賑やかなのだが、今回はこじんまりと静かな行列である。
全てはコロナのせい。
しかし、100年に一度のパンデミックなのだから、ある意味、歴史的な瞬間に立ち会っているのかもしれない。
縮小された特別な御巡行について書いたこの記事だって、もしかしたら数十年後には、貴重な歴史的記録になっているかもしれないのだから…。(はてどうかな?)
石段を下りきったところの大鳥居の前で、鳳輦が止まった。
ここで祝詞が挙げられる。
皆が威儀を正して、祝詞にじっと耳を傾ける。
この時、祭り関係者だけでなく、この場に居合わせた一同も、祓い清めていただいた。
私もちゃっかり祓っていただく。
いよいよ御巡行が始まった。
通常の御巡行は、半日かけてじっくり町内を練り歩くのだけど、やはりコロナのせいでコースが縮小されている。今年は約30分間の超短コースだ。
それでも、やはり「ハレ」の日の祭り行列は華やかで心躍る。
道路の真ん中をお通りになられるため、安全対策でお巡りさんも一緒に歩く。
おっと、途中で信号が赤に変わってしまった。行列は一時ストップ。
しばらくして青信号に変わったので、また歩き始める。
美容室チェリーの前を通過。
ところが次は、特急列車が通過するため、線路前でまたストップ。
ようやく進んだと思いきや、またもや赤信号でストップ。
途中で何度もストップさせられて、なかなかスムーズに進まない御巡行。
それでも神様は決して荒ぶることなく、人間のルールにのんびり付き合ってくださっている。
人間もこうありたいものだ。
塩がまかれた道。
道路中央の塩の道から、玄関の方へと白い塩の道が引かれている。
しかし、この塩の道はかなり太いぞ。なんだかグランドの石灰の白線ラインみたいではないか。
これだけたっぷりと塩をまかれたら、神様も見落とすことはないだろう。
行列は駅前の市街地へと入っていった。
今年の例祭で主事となった屋台組の男衆。ビシッと正装して並び、神様をお出迎えする。
会館の建物の二階窓から顔を出しているのは、サーチライトだろうか。夜祭用の灯であろう。
右折する神様をお守りすべく、お巡りさんは交通整理で大忙し。
神様は、伝統的な町家が連なる古川町の中心地・壱之町に入った。
行列の気配を感じて、徐々に町の人々が集まり始めた。
神様が通られるときは、家の中から人が出てきて威儀を正し、神様にご挨拶する。
飛騨の町家は、祭の日には、格子戸にすだれをかけて、玄関には家紋が入ったのれんを掛ける。更に、外には祭り提灯を掲げる。これが例祭の日の習わしだ。
この日も、各家ごとにすだれと祭り提灯を掲げて、家を祭り仕様で飾っていた。
こうして自宅を品よく飾り付けることも、祭りの楽しみの一つであり、町衆の誇りになっている。
作家の司馬遼太郎は、『街道をゆく/飛騨紀行』(朝日新聞社) のなかで、飛騨古川の町並みのことを「みごとなほど、気品と古格がある」と絶賛している。
高山の古い町並みも歴史と風格を感じるけど、今や観光地化しているのに対して、古川の人々は、自分たちの町並みを無理して観光地化しようともしないし、無理やり商業化もしない。
そんな潔さに、司馬遼太郎は心惹かれたようだ。
この潔さは、古川の人々の気質からきている。
古川の人のことを、飛騨地方の人々は、敬意をこめて『古川やんちゃ』と呼んでいる。
「やんちゃ」と言われるほど、筋を通すことにこだわり、良くも悪くも頑な人たちなのだ。
この土地の習わしや生き方を決して曲げず、自分たちの美学をとことん追求する。
そして、古川の町が好きで、祭りも大好き。町を愛する気持ちがどこよりも強い。
古川が大好きだからこそ、町の佇まいを汚さぬよう、誇りをもって品よく暮らす。
その精神を貫き通しているのが『古川やんちゃ』なのである。
だから、祭りも「ハレ」の日に相応しく、品の良さと美しさを追求する。
「ハレ」の日を、どこよりも粋でかっこよく迎える。これも『古川やんちゃ』の心意気である。
神様の大切な行事なのだから、神様に対して失礼のないよう厳かに由緒正しく町をしつらえる。
格式の高さと品の良さに徹底してこだわるのも、やはり、やんちゃ魂の表れなのだ。
道中で、蔵に収まっている祭り屋台を見つけた。
飛騨地方では、祭りの山車のことを「屋台」(やたい)と呼ぶ。
「祭り屋台」といえば飛騨高山が有名だけど、ここ飛騨古川にも立派な屋台が9台あり、町衆の誇りになっている。
屋台は、飛騨の匠(たくみ)が造った動く芸術品である。
祭の日だけ、蔵の扉が開かれる。
町内には2軒の造り酒屋があるが、酒屋の玄関先も、祭り仕様に美しく飾られていた。
神様は、古川の町並みを静かに通り抜けていく。
さて、この角を右に曲がると、その先に御旅所(おたびしょ)がある。
御旅所とは神様がお休みになる場所だ。
そうこうしているうちに、御旅所がある「まつり広場」に到着。
おまつり広場は、古川祭の夜祭『起こし太鼓』の出立祭などが行われる場所である。
普段は、観光客向けの公園になっていて、市民の憩いの場でもある。
さて、この建物が御旅所。
建物の中に神輿が置かれてあり、今からこの神輿の中へと神様は遷(うつ)られる。
神様は今夜は御旅所の中で一泊されるのだ。
鳳輦をひとまず置いて、今から神様が遷られるための仕度をする。なんだか旅館のフロントで、チェックインの順番を待っているみたいな感じ。
待つこと数分。
ようやく準備が整い、神様の鳳輦が、神輿の近くへと運ばれた。
神様が乗り物(鳳輦)からお部屋(神輿)に遷られるとき、私達人間は神様の御姿を見てはいけない。
宮司様が「うおおおおおおおー----!」と声を挙げられるのを合図に、人間は頭を下げて、ジッと待つ。
宮司様の声が止み、神様の移動は無事に完了。
私も周りの人と同じく、ホッとして顔をあげた。
神様を運んできた鳳輦は奥にしまわれ、これで本日の御巡行は滞りなく終了。
この後、正装姿の警護が交代で御旅所に詰めて、明日のご帰宅の御巡幸まで神様をお守りする。
神様、道中お疲れさまでした。今日はゆっくりお休みくださいね。
御旅所の建物の前には、観光客や地元の人たちが集まり、神様にお参りをしていた。
さて、神様とのお散歩が無事に終わったので、古川の町をぶらり歩いてみよう。
たくさんの献酒。飛騨人は日本酒が好き。飛騨の地酒はどれも美味しい。
神様の足元を照らすために掲げられるという大提灯。
そうそう、祭りのお楽しみ。屋台を見て回ろう。
青龍台。からくり人形が乗っている。
白虎台。法被姿が粋でカッコいい。
金亀台。近くまで寄って屋台の装飾を鑑賞できるのも、お祭りの楽しみ。
清曜台。屋台中央に水墨画の見送り幕が掛けられている。
屋台は動く美術館だと私は思う。
江戸時代の職人たちが腕を振るって制作した最高傑作を、祭りのたびに間近で鑑賞できるのだから、これほど贅沢なことはない。特に彫刻がどれも素晴らしくて、毎回うっとりと見とれてしまう。
飛騨の匠の腕の確かさに、いつも惚れ惚れする。
更に町を散策してみよう。
この筋の奥にも、祭り旗が立てられているのが見える。
祭り区域に立てられる大きな旗は、神様が降りてこられる場所の目印であり、結界の役目も果たしている。
秋葉様の小さな祠も、お祭り用に美しく飾られていた。
四つ辻の大提灯。
提灯にはビニール袋がかぶせられていた。
遠くに黄色い帽子をかぶった小学生の列。お祭り見物かな?
…と、ここでカネゴンが登場。
「お金入れ」のミニ・カネゴンの向かいには、大きなカネゴンが鎮座していた。
「よぉ!」と声をかけてくるおじさんみたいなポーズ。
お祭りに関係なく、古川の町に昔からずっといるカネゴン。
ちょっと劣化しているけど、会うとホッとする不思議な存在。町の癒し系だ。
こうした遊び心を所々に織り込むのも、古川やんちゃの美学なのだろう。
下の無人販売所は、飛騨地方の電子マネー「さるぼぼコイン」でも支払いができるシステムになっていた。
何でもない無人販売所であっても、個性豊かで茶目っ気がある。これも古川の魅力。
ブラブラ歩いていたら、屋台が道路を横断するところにバッタリ遭遇した。
停まっている屋台も美しくて素敵だけど、動く屋台もカッコよくていいなぁ…と思う。
冬と春の境目の時。
飛騨の人々は、華やかな祭りで「春」を迎え、お祝いをする。
祭りが終われば、飛騨は完全に「春」へと移行する。
この日を境に、自然は冬の眠りから目覚めて芽吹きだし、人々は田畑の営みを始動させ、生活のサイクルを「冬」から「春」へと切り替える。
そう、祭りは大切な暮らしの節目なのだ。
この大切な「ハレ」の日を、神様を、無事にお迎えすることができて本当に良かった。
次の日。
午後に再び古川の町へ行ってみると、神様は御旅所を出発し、神社へとお帰りになられる最中であった。
田植え前の田んぼの横を、ゆっくりと歩く行列。
祭りも二日目になると、御巡幸を見物する人も少なくなり、とても静かなものだった。
祭りを無事にやり終え、あとは神社に帰るのみ。
大きな行事を滞りなく終えた後の充実感とくたびれ感。
この両方が心地よく混ざりあって、尊い御巡行でありながら、なんともゆるい雰囲気が漂っていた。
この感じ、何かに似ているなぁ…と思ったら、そうそう、遠足の帰り道だ。
遠足が終わる淋しさと、楽しかった思い出と、たくさん歩いた疲れがミックスされた、あの独特の空気感。
神様も久しぶりのお出かけで、心地よい疲労感に包まれていらっしゃるかもしれない。
一泊二日のお祭りの旅。
かみさまのおさんぽ。
行列の方々も、神様も、本当にお疲れさまでした。
来年こそは、お祭りがフルコースで行われることを切に願いつつ。
「飛騨古川」と呼ばれている町である。
飛騨地方の北部に位置し、高山市(飛騨高山)と同じく、伝統的な町家が並ぶ歴史ある町である。
そんな古川で、3年ぶりに「気多若宮神社例大祭」(通称・古川祭)が執り行われた。
なぜ3年ぶりかって?
お前さん、野暮なことを聞くねぇ。コロナが原因よ。
この2年間は、神社内で神事のみを行い、町を練り歩く行列や獅子舞などの華やかな行事は全て中止になっていたのだ。
お祭りの当日。飛騨古川駅の前に立てられたお祭りの旗。
日本人の伝統的な世界観として「ハレ」と「ケ」がある…と唱えたのは、民俗学者・柳田國男であるが、飛騨の人々にとって神社の例祭は、間違いなく「ハレ」である。
特に、4月から5月の初めにかけて飛騨各地で行われる例祭(春祭り)は、厳しい冬を耐え忍んできた飛騨人たちにとって、冬の寒さから解放されて、名実ともに「春が来た」と心から祝う大切な日だ。
しかし、禍々(まがまが)しいコロナのせいで、この2年間は人が集うことが出来ず、多くの行事が中止を余儀なくされた。もちろん、「ハレ」の大舞台である神社の例祭がどこも中止となり、非常に淋しい2年間を過ごしてきた。
…が、しかし、ずっと神様を大事に敬ってきた飛騨人にとって、「ハレ」を自粛し「ケ」のみで過ごすのは、もう我慢の限界だった。
「そろそろ、祭りをやらんとだしかんやろ」(だしかん=「だめ」の飛騨弁)ということで、今年の春は、飛騨の各地で例祭が久しぶりに執り行われることになった。
とはいっても、やはり感染予防対策が必要ということで、規模を縮小し、目立たぬよう静かにやらなくてはいけないのだが…。
そんな4月のある日。
春の陽気に誘われてふらり飛騨市古川町を訪れた。
そう、この日は待ちに待った古川祭の日だ。
まずは飛騨古川駅へ。
駅前のタクシー乗り場。
実は、ここ飛騨市は『君の名は。』で糸守町のモデルとして登場したため、コロナ前は聖地巡礼者で非常に賑わっていた。今となっては懐かしい思い出である。
駅前の宮川タクシーさん。
飛騨古川駅をいざ出発。
この道の先、正面の杜の中にあるのが、気多若宮神社である。
神社に向かってテクテク歩いていると、道路の真ん中で何かをまいているおばさんを発見。
「おぉ…これは!」昭和世代の飛騨人なら「懐かしい~」と感じる光景。
実はこのおばさん、塩をまいているのだ。
神様が通る道を塩で清めているのである。
神様が通られる道に、こうして塩で道筋をつくり、それを自宅の玄関へと繋げる。
すると御巡行(ごじゅんこう)が大通りを通る際に、神様が塩の道筋を伝って我が家にちょこっと寄って下さるという訳だ。
昔は、高山市内の例祭でも、皆が自宅前に塩をまいて神様をお招きしていた。
私が子どもだった昭和50年代。お祭りの朝に、この塩の道をうっかり踏むと「こりゃ!踏むな!バチが当たる!」と厳しく叱られたものだ。
しかし、時代が進むにしたがって、車が塩の上を走行したり、何も知らない観光客がカメラを構えながら踏み荒らす…なんてことが増えてきて、高山市街地ではいつの間にか見かけなくなってしまった。
おばさんに「写真を撮らせてください!」とお願いしたら、「あれまぁ」と言って、愛嬌たっぷりにケラケラ笑い、このポーズで静止してくださった。
どうもありがとうございます!
ちなみに、この塩の道だが、こんな感じで中央の筋から横道へと引かれ、最後は自宅の玄関まで引いて完了。
飛騨市の古川町では、今もこうして「塩をまく」ことが残っているんだな。
昔からの風習が残っていることに感激して嬉しくなった。
そうこうしているうちに、気多若宮神社に到着。
境内では桜が美しく咲いていた。
この大きな祭りの旗は、飛騨各地で見られるもので、祭りの数日前に、氏子の皆さんによって手作業で立てられている。
旗を立てる作業は「旗立て」、旗を倒して片付ける作業は「旗倒し」と呼ぶ。
この巨大な旗を安全に立てるための作業手順は、町内の組ごとに違う。
組の衆が集まり、実際に作業をやりながら長老から若い衆へと「立て方」を伝え、代々継承していくのだ。
こうした力仕事もまた、町の男衆にとっては誇りであり、祭りの楽しみの一つだったりする。
おっと時間がない。私は急いで鳥居をくぐり石段を駆け上がった。
息を弾ませて石段を登りきると、拝殿が見えてきた。
私が辿り着いた時、もうすでに出立の神事が始まっていた。
神様が、ちょうど鳳輦(ほうれん)にお乗りになられるところだ。間に合って良かった。
鳳輦とは、神輿よりちょっと小さめの輿で、ここに神様がちょこんとお乗りになる。
人間社会で例えるとタクシーみたいなものかな。
神様を前にして、私は慌てて、二礼二拍一礼をする。
「神様、今日は一緒に歩かせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」
と心の中でそっとお祈りする。
「うむ、ついてまいれ」
と、仰ったような気がした。
いざ、出発。
例年なら神様は神輿に乗られるのだが、コロナなので鳳輦になったそうだ。
行列人数も、今年はかなり縮小されていて、なんだか「お忍び旅行」っぽい雰囲気。
それでも、神様にとっては久しぶりのお出かけである。
久々に外を歩かれるのだから、氏子たちはもちろんのこと、神様も喜んでいらっしゃることだろう。
お祭りの日は、神様が人間の世界に降りてくださり、氏子たちが暮らす町を順番に巡ってくださるのだ。なんとありがたいことよ。
私も、神様について一緒に歩きはじめた。
いつもは、雅楽や闘鶏楽(とうけいらく)の音が響き、獅子・裃(かみしも)姿の警護・采女なども一緒に練り歩くので、とても華やかで賑やかなのだが、今回はこじんまりと静かな行列である。
全てはコロナのせい。
しかし、100年に一度のパンデミックなのだから、ある意味、歴史的な瞬間に立ち会っているのかもしれない。
縮小された特別な御巡行について書いたこの記事だって、もしかしたら数十年後には、貴重な歴史的記録になっているかもしれないのだから…。(はてどうかな?)
石段を下りきったところの大鳥居の前で、鳳輦が止まった。
ここで祝詞が挙げられる。
皆が威儀を正して、祝詞にじっと耳を傾ける。
この時、祭り関係者だけでなく、この場に居合わせた一同も、祓い清めていただいた。
私もちゃっかり祓っていただく。
いよいよ御巡行が始まった。
通常の御巡行は、半日かけてじっくり町内を練り歩くのだけど、やはりコロナのせいでコースが縮小されている。今年は約30分間の超短コースだ。
それでも、やはり「ハレ」の日の祭り行列は華やかで心躍る。
道路の真ん中をお通りになられるため、安全対策でお巡りさんも一緒に歩く。
おっと、途中で信号が赤に変わってしまった。行列は一時ストップ。
しばらくして青信号に変わったので、また歩き始める。
美容室チェリーの前を通過。
ところが次は、特急列車が通過するため、線路前でまたストップ。
ようやく進んだと思いきや、またもや赤信号でストップ。
途中で何度もストップさせられて、なかなかスムーズに進まない御巡行。
それでも神様は決して荒ぶることなく、人間のルールにのんびり付き合ってくださっている。
人間もこうありたいものだ。
塩がまかれた道。
道路中央の塩の道から、玄関の方へと白い塩の道が引かれている。
しかし、この塩の道はかなり太いぞ。なんだかグランドの石灰の白線ラインみたいではないか。
これだけたっぷりと塩をまかれたら、神様も見落とすことはないだろう。
行列は駅前の市街地へと入っていった。
今年の例祭で主事となった屋台組の男衆。ビシッと正装して並び、神様をお出迎えする。
会館の建物の二階窓から顔を出しているのは、サーチライトだろうか。夜祭用の灯であろう。
右折する神様をお守りすべく、お巡りさんは交通整理で大忙し。
神様は、伝統的な町家が連なる古川町の中心地・壱之町に入った。
行列の気配を感じて、徐々に町の人々が集まり始めた。
神様が通られるときは、家の中から人が出てきて威儀を正し、神様にご挨拶する。
飛騨の町家は、祭の日には、格子戸にすだれをかけて、玄関には家紋が入ったのれんを掛ける。更に、外には祭り提灯を掲げる。これが例祭の日の習わしだ。
この日も、各家ごとにすだれと祭り提灯を掲げて、家を祭り仕様で飾っていた。
こうして自宅を品よく飾り付けることも、祭りの楽しみの一つであり、町衆の誇りになっている。
作家の司馬遼太郎は、『街道をゆく/飛騨紀行』(朝日新聞社) のなかで、飛騨古川の町並みのことを「みごとなほど、気品と古格がある」と絶賛している。
高山の古い町並みも歴史と風格を感じるけど、今や観光地化しているのに対して、古川の人々は、自分たちの町並みを無理して観光地化しようともしないし、無理やり商業化もしない。
そんな潔さに、司馬遼太郎は心惹かれたようだ。
この潔さは、古川の人々の気質からきている。
古川の人のことを、飛騨地方の人々は、敬意をこめて『古川やんちゃ』と呼んでいる。
「やんちゃ」と言われるほど、筋を通すことにこだわり、良くも悪くも頑な人たちなのだ。
この土地の習わしや生き方を決して曲げず、自分たちの美学をとことん追求する。
そして、古川の町が好きで、祭りも大好き。町を愛する気持ちがどこよりも強い。
古川が大好きだからこそ、町の佇まいを汚さぬよう、誇りをもって品よく暮らす。
その精神を貫き通しているのが『古川やんちゃ』なのである。
だから、祭りも「ハレ」の日に相応しく、品の良さと美しさを追求する。
「ハレ」の日を、どこよりも粋でかっこよく迎える。これも『古川やんちゃ』の心意気である。
神様の大切な行事なのだから、神様に対して失礼のないよう厳かに由緒正しく町をしつらえる。
格式の高さと品の良さに徹底してこだわるのも、やはり、やんちゃ魂の表れなのだ。
道中で、蔵に収まっている祭り屋台を見つけた。
飛騨地方では、祭りの山車のことを「屋台」(やたい)と呼ぶ。
「祭り屋台」といえば飛騨高山が有名だけど、ここ飛騨古川にも立派な屋台が9台あり、町衆の誇りになっている。
屋台は、飛騨の匠(たくみ)が造った動く芸術品である。
祭の日だけ、蔵の扉が開かれる。
町内には2軒の造り酒屋があるが、酒屋の玄関先も、祭り仕様に美しく飾られていた。
神様は、古川の町並みを静かに通り抜けていく。
さて、この角を右に曲がると、その先に御旅所(おたびしょ)がある。
御旅所とは神様がお休みになる場所だ。
そうこうしているうちに、御旅所がある「まつり広場」に到着。
おまつり広場は、古川祭の夜祭『起こし太鼓』の出立祭などが行われる場所である。
普段は、観光客向けの公園になっていて、市民の憩いの場でもある。
さて、この建物が御旅所。
建物の中に神輿が置かれてあり、今からこの神輿の中へと神様は遷(うつ)られる。
神様は今夜は御旅所の中で一泊されるのだ。
鳳輦をひとまず置いて、今から神様が遷られるための仕度をする。なんだか旅館のフロントで、チェックインの順番を待っているみたいな感じ。
待つこと数分。
ようやく準備が整い、神様の鳳輦が、神輿の近くへと運ばれた。
神様が乗り物(鳳輦)からお部屋(神輿)に遷られるとき、私達人間は神様の御姿を見てはいけない。
宮司様が「うおおおおおおおー----!」と声を挙げられるのを合図に、人間は頭を下げて、ジッと待つ。
宮司様の声が止み、神様の移動は無事に完了。
私も周りの人と同じく、ホッとして顔をあげた。
神様を運んできた鳳輦は奥にしまわれ、これで本日の御巡行は滞りなく終了。
この後、正装姿の警護が交代で御旅所に詰めて、明日のご帰宅の御巡幸まで神様をお守りする。
神様、道中お疲れさまでした。今日はゆっくりお休みくださいね。
御旅所の建物の前には、観光客や地元の人たちが集まり、神様にお参りをしていた。
さて、神様とのお散歩が無事に終わったので、古川の町をぶらり歩いてみよう。
たくさんの献酒。飛騨人は日本酒が好き。飛騨の地酒はどれも美味しい。
神様の足元を照らすために掲げられるという大提灯。
そうそう、祭りのお楽しみ。屋台を見て回ろう。
青龍台。からくり人形が乗っている。
白虎台。法被姿が粋でカッコいい。
金亀台。近くまで寄って屋台の装飾を鑑賞できるのも、お祭りの楽しみ。
清曜台。屋台中央に水墨画の見送り幕が掛けられている。
屋台は動く美術館だと私は思う。
江戸時代の職人たちが腕を振るって制作した最高傑作を、祭りのたびに間近で鑑賞できるのだから、これほど贅沢なことはない。特に彫刻がどれも素晴らしくて、毎回うっとりと見とれてしまう。
飛騨の匠の腕の確かさに、いつも惚れ惚れする。
更に町を散策してみよう。
この筋の奥にも、祭り旗が立てられているのが見える。
祭り区域に立てられる大きな旗は、神様が降りてこられる場所の目印であり、結界の役目も果たしている。
秋葉様の小さな祠も、お祭り用に美しく飾られていた。
四つ辻の大提灯。
提灯にはビニール袋がかぶせられていた。
遠くに黄色い帽子をかぶった小学生の列。お祭り見物かな?
…と、ここでカネゴンが登場。
「お金入れ」のミニ・カネゴンの向かいには、大きなカネゴンが鎮座していた。
「よぉ!」と声をかけてくるおじさんみたいなポーズ。
お祭りに関係なく、古川の町に昔からずっといるカネゴン。
ちょっと劣化しているけど、会うとホッとする不思議な存在。町の癒し系だ。
こうした遊び心を所々に織り込むのも、古川やんちゃの美学なのだろう。
下の無人販売所は、飛騨地方の電子マネー「さるぼぼコイン」でも支払いができるシステムになっていた。
何でもない無人販売所であっても、個性豊かで茶目っ気がある。これも古川の魅力。
ブラブラ歩いていたら、屋台が道路を横断するところにバッタリ遭遇した。
停まっている屋台も美しくて素敵だけど、動く屋台もカッコよくていいなぁ…と思う。
冬と春の境目の時。
飛騨の人々は、華やかな祭りで「春」を迎え、お祝いをする。
祭りが終われば、飛騨は完全に「春」へと移行する。
この日を境に、自然は冬の眠りから目覚めて芽吹きだし、人々は田畑の営みを始動させ、生活のサイクルを「冬」から「春」へと切り替える。
そう、祭りは大切な暮らしの節目なのだ。
この大切な「ハレ」の日を、神様を、無事にお迎えすることができて本当に良かった。
次の日。
午後に再び古川の町へ行ってみると、神様は御旅所を出発し、神社へとお帰りになられる最中であった。
田植え前の田んぼの横を、ゆっくりと歩く行列。
祭りも二日目になると、御巡幸を見物する人も少なくなり、とても静かなものだった。
祭りを無事にやり終え、あとは神社に帰るのみ。
大きな行事を滞りなく終えた後の充実感とくたびれ感。
この両方が心地よく混ざりあって、尊い御巡行でありながら、なんともゆるい雰囲気が漂っていた。
この感じ、何かに似ているなぁ…と思ったら、そうそう、遠足の帰り道だ。
遠足が終わる淋しさと、楽しかった思い出と、たくさん歩いた疲れがミックスされた、あの独特の空気感。
神様も久しぶりのお出かけで、心地よい疲労感に包まれていらっしゃるかもしれない。
一泊二日のお祭りの旅。
かみさまのおさんぽ。
行列の方々も、神様も、本当にお疲れさまでした。
来年こそは、お祭りがフルコースで行われることを切に願いつつ。