野良庭散歩12
- 更新日: 2023/07/04
人工物と野良庭
梅雨が近づいている。暑すぎたり寒すぎたり、日毎最高気温が10度以上違うような厳しい春だった。自律神経は乱れ、倦怠感が主な症状の風邪に2週間も悩まされた。体調管理というのは本当に難しい。体も自然の一部と考えれば、管理することの難しさに諦めもつく。自分の庭どころか小さな鉢植えでさえ、常に完璧な状態にしておくことは不可能に近い。
中野で用事を終え、このあと高円寺に行くことになっている。一駅だけ電車に乗るというのももったいない。地図アプリで調べてみると最短距離で徒歩20分と表示される。曇っていて空気はしっとりと涼しく歩くのは苦にならないだろう。私は散歩することにした。
とりあえず線路沿いを歩いてみる。道路と線路を隔てる金網の向こうには多くの草が生えている。これはオオアレチノギクだろうか。最近はうちの近所の空き地もこの草で覆われている。放っておくと180センチほどまで伸びるらしい。
野良庭の定番、カタバミにさっそく出会った。ポールに隠れてこちらの様子を伺っている。私はコンビニで水を買い、飲みながら歩くことにする。これからの季節は暑くなくても水分補給に気を付けなければならない。
こんなふうに無骨な配管に惹かれてしまう。金網や、何かの設備の一部と植物が重なった風景が好きだ。人間が意図的に配置した無機物と、意図していない有機物が渾然一体となって景色を作る。
ドクダミも元気に茂っている。後ろのアメリカオ二アザミもかなり背が高かった。
マンションの花壇にて。終わりかけのツツジがくすんだ壁と相まって物悲しい。普段はなるべく明るく、生命力を感じるような写真を撮るよう心がけているのだが、こんな風に憂いのある風景も嫌いではない。
整然と並べられた鉢植えたち。ゼラニウムの赤が眩しい。丁寧に管理されているから野良庭とは呼べないが、路上園芸も好きなのだ。
元々植えられていた植物が完全になくなり、その後に生えた草も枯れ、今はカタバミが覇権を握っているようだ。鉢は、どの段階で壊れたのだろう。おそらく経年劣化なのだろうが、植物の根が膨れ上がり内側から壊してしまったようにも見える。
こちらは鉢から溢れ出したマンネングサ。季節柄、黄色い花を咲かせている。電柱に沿って伸びている小さな木はおそらくタマサンゴ。夏になると赤い実がつく。よく見るとここにもカタバミが紛れてピンクの花をつけている。
放っておいたら一夏で植物に埋まりそうな室外機と、咲きはじめのアジサイ。まだ花の色が薄い。これからかれらの季節がくる。
この辺りは古い町なのか、ヒビ割れから生える草が多い。コンクリート擁壁のヒビから、階段の段差にできた隙間から。これは塀と斜面のヒビから生えたコミカンソウ。とても可愛らしくて私の好きな草のひとつ。
この丸い跡はなんだろう。ポールか何かが立っていたのか、それともヒビ割れが進む過程で偶然できたのか。ここにもごく小さなカタバミが群れている。
マンションの柵に珍しい植栽があった。ランの仲間のデンドロビウムだろうか。ランは手がかかるイメージだが、野晒しで逞しく生きているものもいるのだと思うと心強い。
こちらは花壇に植えられた色々な植物が時を経て自由になった様子。人にはとても真似できない不思議なバランスが美しい。
これは見応えのあるアロエ。残念ながら花が終わった後だった。オレンジの花を咲かせているところを見たければ冬にまた来るしかない。
真っ赤なアマリリスに八重咲きのアジサイ、ピンク色のユリなどセンスが光る素敵な寄せ鉢。
花壇からはみ出していたヤツデ。表面がツヤツヤで見るからに若葉!という感じがする。「八つ手」という名前だがこちらの葉は7枚に分かれているものが多いようだ。
良い雰囲気の場所を見つけた。大きく育ったカポックが室外機に寄りかかるように茂っている。このように人工物と植物が重なる風景が好きなのはSF的な風景への憧れだと以前書いたが(野良庭散歩5参照)厄災が去ってしばらく経った人間のいない場所を植物が覆い始める、というような風景に強烈な憧れを抱いている。私はどうやら自身が「野良庭」と呼ぶ場所に廃墟のエッセンスを感じているらしい。廃墟は心霊スポットや不良の溜まり場にもなり得るが、私はSFの要素を感じ取るのを好む。廃墟は身近に無いし立ち入る際は危険も伴う。だから私は気軽に廃墟の趣を感じられる場所として野良庭を探しているのかもしれない。
廃墟といえば薄暗いイメージを持つ人も多いだろうが『天空の城ラピュタ』に登場する庭園のような明るい廃墟が、私はたまらなく好きだ。植物にとって太陽光は必要不可欠だから、植物と人工物が入り混じる廃墟には明るさがなくてはならない。例えば文明が滅んだとして、生物に比べ形を失うことが極端に遅い人工物はその場に残り続けるだろう。やがて壁や屋根が崩れて光が差して、植物が育ち始める。生きた人間の気配がなくなった場所こそが「明るい廃墟」なのだ。逆に人間の気配が色濃く感じられ、生々しさが残っている場所は「暗い廃墟」なのではないだろうか。
実は、今回のように曇った日の野良庭を撮ることはあまりない。それは私が野良庭写真に「明るい廃墟」を求めているからなのだが、別に薄暗い廃墟が嫌いなわけではない。暗い廃墟なら「終焉の雰囲気を漂わせながらもまだ諦めていない人間たち」のようなストーリーを想像することもできる。植物と人工物のせめぎ合いはそのまま文明と自然の勢力争いとして私の目に映ってくる。その戦いの途中、偶然の調和から美しさが生まれてしまう。そういう場面を切り取りたいというのも、私の野良庭に対する欲望の一つの側面なのだと思う。
これはどういうことなのだろう。蔓性の植物が顔出しパネルのようになっている。近づいてみても何を拠り所にしているのかわからなかった。誰かが蔓を誘引してこの形を作ったのだろうか。一体何のために。
古い建物を覆い尽くそうとするアイビーたち。斑入りのものと緑一色のものがある。私は斑入りのプミラを育てているが、数年経つと斑のない葉が伸びてきて驚いた。一つの個体から代替わりせず先祖返りすることもあるらしい。
高円寺の駅前まで来た。チェーン店の電気屋さんに植物を置いているのは珍しい気がする。元個人商店なのだろうか。金のなる木(カゲツ)、クンシラン、アロエ、ユッカなど。昭和に流行った観葉植物たちが並んでいて郷愁に駆られてしまう。
今度は室外機とタマサンゴ。鮮やかな緑の中に小さな白い花がちらちら見えて可愛らしい。
ひび割れた塀と道路の隙間に生える力強い草たち。セイタカアワダチソウとヒメジョオンだろうか。隣のひび割れからはドクダミが顔を出している。
駐車場と民間を区切る柵からシロバナツタバウンランが溢れ出している。可憐な姿のわりに強い生命力を持つ。紫の花のツタバウンランの方をよく見かけるから少しレア感がある。
目的地の向かいにも私好みの野良庭があった。伸び放題のオボロヅキは白い星形の花を咲かせ、勝手に住み着いたであろうカタバミは小さなオクラのような実をつけている。熟すと破裂して種を飛ばすらしい。そうしてまた生息域を広げるわけだ。本当にしたたかで感心してしまう。自立神経やホルモンバランスなんかに振り回されっぱなしの私は、このしたたかさに憧れているのかもしれない。
最後までご覧下さりありがとうございました。
古びた花壇に似つかわしくないくらい鮮やかなアジサイをどうぞ。こちらはおそらくダンスパーティーという品種。翻るドレスの裾のような花びらが可愛らしいですね。梅雨は灰色の季節ですが、カラフルな花でも見ながら、踊りながら乗り越えていきましょう。
中野で用事を終え、このあと高円寺に行くことになっている。一駅だけ電車に乗るというのももったいない。地図アプリで調べてみると最短距離で徒歩20分と表示される。曇っていて空気はしっとりと涼しく歩くのは苦にならないだろう。私は散歩することにした。
とりあえず線路沿いを歩いてみる。道路と線路を隔てる金網の向こうには多くの草が生えている。これはオオアレチノギクだろうか。最近はうちの近所の空き地もこの草で覆われている。放っておくと180センチほどまで伸びるらしい。
野良庭の定番、カタバミにさっそく出会った。ポールに隠れてこちらの様子を伺っている。私はコンビニで水を買い、飲みながら歩くことにする。これからの季節は暑くなくても水分補給に気を付けなければならない。
こんなふうに無骨な配管に惹かれてしまう。金網や、何かの設備の一部と植物が重なった風景が好きだ。人間が意図的に配置した無機物と、意図していない有機物が渾然一体となって景色を作る。
ドクダミも元気に茂っている。後ろのアメリカオ二アザミもかなり背が高かった。
マンションの花壇にて。終わりかけのツツジがくすんだ壁と相まって物悲しい。普段はなるべく明るく、生命力を感じるような写真を撮るよう心がけているのだが、こんな風に憂いのある風景も嫌いではない。
整然と並べられた鉢植えたち。ゼラニウムの赤が眩しい。丁寧に管理されているから野良庭とは呼べないが、路上園芸も好きなのだ。
元々植えられていた植物が完全になくなり、その後に生えた草も枯れ、今はカタバミが覇権を握っているようだ。鉢は、どの段階で壊れたのだろう。おそらく経年劣化なのだろうが、植物の根が膨れ上がり内側から壊してしまったようにも見える。
こちらは鉢から溢れ出したマンネングサ。季節柄、黄色い花を咲かせている。電柱に沿って伸びている小さな木はおそらくタマサンゴ。夏になると赤い実がつく。よく見るとここにもカタバミが紛れてピンクの花をつけている。
放っておいたら一夏で植物に埋まりそうな室外機と、咲きはじめのアジサイ。まだ花の色が薄い。これからかれらの季節がくる。
この辺りは古い町なのか、ヒビ割れから生える草が多い。コンクリート擁壁のヒビから、階段の段差にできた隙間から。これは塀と斜面のヒビから生えたコミカンソウ。とても可愛らしくて私の好きな草のひとつ。
この丸い跡はなんだろう。ポールか何かが立っていたのか、それともヒビ割れが進む過程で偶然できたのか。ここにもごく小さなカタバミが群れている。
マンションの柵に珍しい植栽があった。ランの仲間のデンドロビウムだろうか。ランは手がかかるイメージだが、野晒しで逞しく生きているものもいるのだと思うと心強い。
こちらは花壇に植えられた色々な植物が時を経て自由になった様子。人にはとても真似できない不思議なバランスが美しい。
これは見応えのあるアロエ。残念ながら花が終わった後だった。オレンジの花を咲かせているところを見たければ冬にまた来るしかない。
真っ赤なアマリリスに八重咲きのアジサイ、ピンク色のユリなどセンスが光る素敵な寄せ鉢。
花壇からはみ出していたヤツデ。表面がツヤツヤで見るからに若葉!という感じがする。「八つ手」という名前だがこちらの葉は7枚に分かれているものが多いようだ。
良い雰囲気の場所を見つけた。大きく育ったカポックが室外機に寄りかかるように茂っている。このように人工物と植物が重なる風景が好きなのはSF的な風景への憧れだと以前書いたが(野良庭散歩5参照)厄災が去ってしばらく経った人間のいない場所を植物が覆い始める、というような風景に強烈な憧れを抱いている。私はどうやら自身が「野良庭」と呼ぶ場所に廃墟のエッセンスを感じているらしい。廃墟は心霊スポットや不良の溜まり場にもなり得るが、私はSFの要素を感じ取るのを好む。廃墟は身近に無いし立ち入る際は危険も伴う。だから私は気軽に廃墟の趣を感じられる場所として野良庭を探しているのかもしれない。
廃墟といえば薄暗いイメージを持つ人も多いだろうが『天空の城ラピュタ』に登場する庭園のような明るい廃墟が、私はたまらなく好きだ。植物にとって太陽光は必要不可欠だから、植物と人工物が入り混じる廃墟には明るさがなくてはならない。例えば文明が滅んだとして、生物に比べ形を失うことが極端に遅い人工物はその場に残り続けるだろう。やがて壁や屋根が崩れて光が差して、植物が育ち始める。生きた人間の気配がなくなった場所こそが「明るい廃墟」なのだ。逆に人間の気配が色濃く感じられ、生々しさが残っている場所は「暗い廃墟」なのではないだろうか。
実は、今回のように曇った日の野良庭を撮ることはあまりない。それは私が野良庭写真に「明るい廃墟」を求めているからなのだが、別に薄暗い廃墟が嫌いなわけではない。暗い廃墟なら「終焉の雰囲気を漂わせながらもまだ諦めていない人間たち」のようなストーリーを想像することもできる。植物と人工物のせめぎ合いはそのまま文明と自然の勢力争いとして私の目に映ってくる。その戦いの途中、偶然の調和から美しさが生まれてしまう。そういう場面を切り取りたいというのも、私の野良庭に対する欲望の一つの側面なのだと思う。
これはどういうことなのだろう。蔓性の植物が顔出しパネルのようになっている。近づいてみても何を拠り所にしているのかわからなかった。誰かが蔓を誘引してこの形を作ったのだろうか。一体何のために。
古い建物を覆い尽くそうとするアイビーたち。斑入りのものと緑一色のものがある。私は斑入りのプミラを育てているが、数年経つと斑のない葉が伸びてきて驚いた。一つの個体から代替わりせず先祖返りすることもあるらしい。
高円寺の駅前まで来た。チェーン店の電気屋さんに植物を置いているのは珍しい気がする。元個人商店なのだろうか。金のなる木(カゲツ)、クンシラン、アロエ、ユッカなど。昭和に流行った観葉植物たちが並んでいて郷愁に駆られてしまう。
今度は室外機とタマサンゴ。鮮やかな緑の中に小さな白い花がちらちら見えて可愛らしい。
ひび割れた塀と道路の隙間に生える力強い草たち。セイタカアワダチソウとヒメジョオンだろうか。隣のひび割れからはドクダミが顔を出している。
駐車場と民間を区切る柵からシロバナツタバウンランが溢れ出している。可憐な姿のわりに強い生命力を持つ。紫の花のツタバウンランの方をよく見かけるから少しレア感がある。
目的地の向かいにも私好みの野良庭があった。伸び放題のオボロヅキは白い星形の花を咲かせ、勝手に住み着いたであろうカタバミは小さなオクラのような実をつけている。熟すと破裂して種を飛ばすらしい。そうしてまた生息域を広げるわけだ。本当にしたたかで感心してしまう。自立神経やホルモンバランスなんかに振り回されっぱなしの私は、このしたたかさに憧れているのかもしれない。
最後までご覧下さりありがとうございました。
古びた花壇に似つかわしくないくらい鮮やかなアジサイをどうぞ。こちらはおそらくダンスパーティーという品種。翻るドレスの裾のような花びらが可愛らしいですね。梅雨は灰色の季節ですが、カラフルな花でも見ながら、踊りながら乗り越えていきましょう。