六郷用水物語を歩く

  • 更新日: 2020/10/22

六郷用水物語を歩くのアイキャッチ画像

大田区の道ばたでやたら見かける『物語』

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 個人的なことだが、東京・大田区に引っ越してきて、はや半年が過ぎた。その間、コロナ渦の外出自粛期間を挟みつつも、少しづつ生活に慣れ、街の雰囲気がなんとなく分かってきた気がする。そんなある日のことだった。近所を散策していると、『六郷用水物語』と書かれた謎のマンホールを発見した。ロゴの横には、ギザギザの歯車のような物に乗った人の絵も添えられている。これは一体何だろう?あたりには、用水路らしきものもなければ、物語がありそうな雰囲気ではない、ごくごく普通の、蒲田の路地裏である。
 その時は不思議に感じつつも、通り過ぎてしまったが、それからというもの、この謎のロゴを、大田区内のあちこちで見かけ出したのである。何回も通ったはずの道でさえ発見した。僕は、この街のディープさを知らなかったのだ。浅はかであった。知ったかぶりをしていたのだ。 
 

▲『物語』が区内各所に仕掛けられている

 さて、六郷用水物語とは一体何であろう。今は便利な時代であり、ネットで軽く調べてみると、かつて、この地域を流れていた、六郷用水と呼ばれる用水路のモニュメントであることが分かった。それにしても、なんてことのない住宅街に、唐突に『物語』に出くわすと、歩いてみようという気にもなる。退屈でパッとしない日常を送っているから、物語に飢えているのかも知れない。そんな日常を打破するべく、歩いてみようではないか。


 六郷用水物語は東急多摩川駅の近くから始まる。
 駅前には特にお店があるわけでもなく、南北に公園に挟まれて、静かな雰囲気だ。隣の駅は田園調布なので、美しい毛並みの育ちの良さそうな犬と散策する人の姿も見かける。そんな駅前を5分ほど歩くと、住宅街に突如として、トンネルが口を開けている。このトンネルは、中原街道と立体交差するための物だ。見るからに古そうで、昼間でも薄暗いトンネルは、物語のはじまりとして、いい感じではないか。


▲『六郷用水物語』のはじまり


 トンネルの中には、鈍く光を放つマンホールがあった。見るからに年代物の色をしている。これは、戦前の物のようで、真ん中に描かれているマークは東京府の紋章のようだ。日の当たらないトンネル内で、80年以上に渡って、歩行者や自動車に踏まれながらも、貴重な物が残っている。トンネル下暗し。


▲トンネル内にある貴重なマンホール

 トンネルを抜けると、『六郷用水の跡』と書かれた石碑が立っていて、整備された遊歩道が始まる。傍らには案内板があり、用水路の全体図が描かれている。どうやら六郷用水は、この場所が起点ではなく、はるか遠く離れた狛江が起点のようだ。狛江で多摩川の水を取り入れて、大田区東部の大森・蒲田方面に送るために、30キロメートルに及ぶ用水路を、江戸時代の人たちが作ったそうだ。このような大規模な用水路が出来た背景や歴史は、ざっと、以下のような流れらしい。

 江戸時代になり、現在の大田区東部、大森・蒲田・羽田といった平坦なエリアを、新田開発をすることになった
しかし、このエリアは、米作りに適した水に恵まれていなかった(付近の多摩川は海に近いため、塩分が含まれている)。
14年に及ぶ工事の末、六郷用水を作った(多摩川の対岸の川崎には二ヶ領用水を同時に作った)。

 ざっと、こんな感じらしい。



▲六郷用水の全体像

 さて、六郷用水物語を歩いていこう。このあたりは、遊歩道の脇には水路が整備されていて、澄んだ水が流れている。鯉や亀が泳ぎ、緑も多く、のどかな散歩道となっている。この流れが、今も残る六郷用水なのかと早合点しそうになるが、これは湧き水を使用した用水路の復元のようだ。六郷用水自体は、農業用水としては役目を終え、大部分は埋められてしまったのだ。



▲『六郷用水の跡』


▲昔の用水路の復元


 しばらく、復元された水路の横を歩きながら、水路を泳ぐ鯉や亀を見る。なかなか人懐っこく、立ち止まると、集まってきて口をぱくぱくさせる。遊歩道を進んでいくと、見覚えのある物を見かけた。これは、六郷用水物語の看板に描かれているギザギザの謎の物体ではないか。これはジャバラと呼ばれる人力で回す水車で、用水路から、田んぼに水を引き入れるための物らしい。これを足で回すのは難しそうだ。ぼんやりしていると、次の板が脛に直撃して痛い目に合うだろうし、何しろ、つるつる滑りそうで危ない。今ならポンプを使えばいいだろうが、昔は大変だったのだ。



▲ジャバラ(with 亀)
 

▲細くなりつつも水路(復元)は続く


▲このカーブ、いかにも水路があった感じがする


 六郷用水物語は、東急多摩川線に並行していて、スタート地点の多摩川駅から2駅先の鵜の木駅の近くまで進んできた。左手は、ちょっとした丘陵となっているので、用水路跡は低い所を通っている。当然といえば当然なのだが、用水路は水が流れるように、起点から終点まで、ゆるやかな下り勾配で作られている・・・はずなのだが、六郷用水物語は、突然上り坂となる。これは一体どういうことだろうか。
 この様な疑問が湧くと、丁度よいポイントに説明書きがあり、例のジャバラを回すおじさんが教えてくれる。六郷用水は、この場所を切り通しで進んだようだ。岩盤を人力で掘る作業は、かなりの難工事であり、女性も手伝ったようなので、女堀と呼ばれたらしい。今は、切り通しは埋められ、坂道となっているので、そんな難所があったとは想像つかない。ちょっとした渓谷のようになっていたのかもしれない。
 

▲女堀があった丘陵(写真が下手だが、結構なアップダウン)


▲要所要所で、ジャバラおじさんが説明してくれる

 女堀を過ぎると、平坦な道のりになる。いつしか復元された水路もなくなり、用水路跡地は、完全に住宅街の裏道といった雰囲気になる。所々にあるジャバラおじさんの案内板がなければ、ここが用水路跡とは思わないだろう。ここからは想像力が試される。五感や第六感をフルにして、六郷用水物語を感じ取っていこうではないか。


 用水路跡の通りは、交通量や人通りも、さほど多くないのだが、その割には、道幅が広かったりする。また、微妙にカーブしたりする。その様に、注意深く観察してみると、ここはかつて、水路があった気がしてくる。


▲交通量の割に幅広い道路

 そのような、”違いが分かる人”になった気分で歩いていくと、横須賀線の高架下を抜ける箇所に『六郷用水ガード』という文字を発見。また、道路の端にある電柱に『用水』の文字を発見した。ずっとアスファルトの道を歩いていると、果たして、ここに用水路があったのか疑心暗鬼になってくるのだが、このような活字化された物を発見すると、動かぬ証拠を見つけたようで嬉しい。端から見たら、「何撮ってるんだ、この人・・・」と思われているのだろうが、心の中ではガッツポーズである。


▲横須賀線のガード下に残る『用水』


▲電柱に残る『用水』




▲縦書きバージョン

 六郷用水は、起点から終点まで一本道だったわけではない。途中で何度も枝分かれがあり、最終的には網の目のようになり、水田地帯を潤していたらしい。六郷用水物語という物語は、そんな、別れの物語なのかもしれない。下丸子のあたりに、『南北引き分け跡』という案内板があった。ここで、用水路が二手に分かれ、大森方面と蒲田方面とに、分岐していたようだ。水が貴重だった当時、水を巡る争いに発展しないように、このような分岐点では、水が等しく分配されるような仕組みになっていたらしい。
 もしこの分配が上手く機能せず、大森 vs 蒲田で水を巡るトラブルが発生していたら、今でも禍根を残し、大田区が出来なかった可能性もある(大田区は、大森区と蒲田区が合併して出来た)。この施設の果たした役割は、想像以上に大きいのかもしれない。


▲物語の分かれ道、もしくは物語を強制終了することも出来る(下丸子駅へ)


▲見た目にはどうってことのないT字路だけども、心のVRでは、用水路の分かれ道が可視化されている(?)


 『南北引き分け』の分かれ道をどちらに進むか迷ったが、帰宅に便利なように蒲田方面に進むことにする。しばらく行くと、矢口のあたりで、第二京浜によって行く手を阻まれる。六郷用水は第二京浜の向こうに続いているが、直接行けないので、横断歩道へ迂回するしかない。
 六郷用水は、この地域では大先輩のインフラのはずなのに、後から出来た若いインフラに引き裂かれたり踏みつけられたり、なんとも悲しい扱いである。


▲直接行けないもどかしさ


 第二京浜を越えると、町工場などが点在する住宅街を進む。蒲田駅も近い。東急多摩川駅の近くからスタートしたので、東急多摩川線の全線を歩いて移動したことになる。しかし、またしても、行く手を阻まれる。目の前に京浜東北線の車庫が広がっているのだ。例のごとく、ジャバラおじさんの説明板がある。ここで六郷用水は、糀谷・羽田・六郷へ三本に枝分かれしていたらしい。枝分かれする様子から、蛸の手という名が付けられたようだ(蛸の足ではない)。蛸の手の跡地は、京浜東北線の車庫になり、それこそ蛸の手のように、無数の線路が張り巡らされているが、かつては、用水路が蛸の手のように枝分かれしていたのだ。なにかと、蛸と縁が深い土地のようだ(?)。


▲またも、行く手を遮られる六郷用水物語


▲電車がいっぱい!


▲蛸の手


 蛸の手の枝分かれでは、六郷方面へ向かうことにする。京浜東北線と東海道線の踏切を渡ったり、何度か曲がり角があったりし、しばらく行くと、黒湯で有名な蒲田温泉の裏手を通る。この温泉は歴史が古く、昭和初期からある。なので開業当時は、用水路が残っていたのだと思う。住宅街として発展するにつれ、六郷用水は本来の農業用水から、生活排水が流れる水路に変わってしまったようなので、もしかしたら黒湯も流れたりしたのかと、想像してしまう。


▲この温泉は『蒲田』を強烈に肌で感じることが出来る


 六郷用水物語は、京浜急行と第一京浜を越える。この辺りはいよいよ、町工場の数が増えてくる。用水路跡は、込み入った住宅街の中を、不自然にカーブしていたり、幅が広がったり狭まったりと、いかにも用水路の痕跡を感じる。そんなことを感じながら歩いていると、二手に分かれる箇所がある。その間には狭い幅に、家が並んでいる。まるで中洲のような感じになっている。ここはどういう風に用水が流れていたのだろう。この『中洲』を見ていると、両脇を水が流れているような風景が思い浮かんでくる。まるで、アスファルトで出来た枯山水のようだ。


▲湾曲する路端に、用水路を感じる


▲いかにも、水が流れていたかのようだ


▲ここはどのように流れていたのだろう


 『七辻』と呼ばれる大田区名所(?)の七叉路付近を、六郷用水物語は通る。この辺りにくると、ぐっと道幅が細くなる。この細さこそ、田んぼの間を縫うように通る用水路のように見えてくる。このあたりは狭い道路が入り組んでいるが、元々あった無数のあぜ道、無数の用水路が宅地化された際に、そのまま、路地として使われるようになったのではないかと想像してしまう。


▲ぐっと細くなる六郷用水物語


▲用水路然としている


 さて、この物語も終わりに近づいている。UR南六郷団地や都営アパートといった団地が立ち並ぶエリアが見えてきた。多摩川が近い。
 六郷用水は、狛江で多摩川の水を取水した後、大森・蒲田エリアの水田を潤し、そして余った分は、多摩川や東京湾(江戸湾)へと流していたようだ。そのうちの一つが、今の六郷水門に当たる場所とのこと。水門自体は、昭和初期に作られた。その時代になると、六郷用水の流域は宅地化が進行しつつあった。そこで問題となったのが、大雨時に多摩川の水が六郷用水を伝って、街を冠水させてしまうことだった。それを阻止するために出来たのが六郷水門とのこと。
 六郷水門のあたりは、入り江のようになっていて、漁船らしきものも停泊している。また、釣り人も多い。


▲六郷水門

 多摩川の土手ではジョギングする人やスポーツを楽しむ姿が見られ、ほのぼのとした雰囲気である。今では、この地域は住宅地が広がっているが、かつては田植えの時期ともなると青々とした田園が広がり、のどかな地域だったのだ。しかし、そのような風景になったのも、先人たちが苦労して作った六郷用水のお陰だったのだ。


▲六郷水門内には船溜まり


 蒲田や大森というと、なんとなくがやがやした街のイメージであるが、このような歴史を知ると、また違った印象で街を見ることが出来る。六郷用水がこの地域を一大田園地帯に変えた。そこに住まった人たちは、あぜ道を抜けて、集落や隣村との交流を図っただろう。蒲田・大森エリアの入り組んだ路地・・・往々にして迷い、どうにかならないかと思ってしまうが、その様な路地は、先人たちが網の目のような用水路やあぜ道を作り、米を作ったり運んだり、そして、交流してきた証なのだろう。


▲これが六郷水門?いや、公衆トイレなのだ・・・間違えないように


▲こちらが本物


▲六郷水門にやたら貼り付いているマーク、これは、この辺りの旧地名・六郷町の紋章(ヒント:ロの個数)







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仕事 <<< 散歩 < 睡眠
という残念なおじさん。
自分探しをするため、今日も蒲田の街をさまよい歩く。

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