縁を紡ぐ海の街、赤穂坂越を歩く
- 更新日: 2023/09/21
あの日、どうして私は、あの町へと向かう電車に飛び乗ったのだろう。今思い出しても、本当に不思議だ。何か大いなるものに呼ばれたのかもしれない。
10月12日の縁
この夏、私は神戸を旅したのだけど、その時、神戸と同じ兵庫県内に「坂越(さこし)」という町があることを知った。兵庫県の南西部、岡山県との県境にある小さな港町だ。正式な地名は、兵庫県赤穂市坂越町という。
坂越について知ったのは、実は最近のことで、神戸旅に出かける一週間ほど前に、たまたま読んだ東儀秀樹さんのエッセイの中に出てきたことが発端だった。
◇
東儀秀樹さんといえば、元宮内庁楽部の雅楽奏者で、今は雅楽師として国内外でご活躍されている御方だ。
実は私は、高校時代に漫画『あさきゆめみし』を読んだことがきっかけで、平安時代沼にはまり込んだ人間で、王朝文化を感じさせる「雅楽」に昔から強い憧れを抱いていた。地元で開催された東儀秀樹さんの雅楽教室&演奏会にも、もちろん行っている。
だけど、ご先祖については、お恥ずかしいことによく知らなかった。
このエッセイによると、東儀家の先祖は渡来人で、聖徳太子に仕えたという秦河勝(はたのかわかつ)が祖にあたるらしい。
秦河勝は非常に有能な人物で、聖徳太子の右腕として手腕を発揮していたが、太子亡き後、敵対する蘇我氏との戦を避けるために西へと逃れ、播磨国赤穂の坂越に辿り着いたという。
坂越の民は河勝を温かく迎え入れ、やがて亡くなると、彼を神と崇め奉って祀ったのだった。
それが坂越にある大避神社である。
東儀秀樹さんは、先祖が神として祀られたこの神社の秦河勝没後1350年の大祭に招かれて、雅楽を奉納されたという。
ちなみに、大避神社の例祭は毎年10月12日(現在は10月第2土日)に執り行われている。これは秦河勝が亡くなったのが10月12日だからであり、奇しくも子孫の東儀秀樹さんの誕生日も10月12日だそうな。
…と、ここで私は「えっ?」と驚いた。
というのも、私の息子が生まれたのも10月12日だったから。
私にとっては、生まれて初めて「お産」を体験した日でもある。
これらが妙に心に引っかかり、不思議な縁を感じた私は、坂越という町に無性に行ってみたくなった。
JRで神戸から坂越に向かう
神戸旅行の最終日。私は訪問先の神戸から坂越へ向かうことにした。JR神戸駅で東海道本線の姫路行の新快速に乗り、終点の姫路駅で播州赤穂行の普通電車に乗り換えた。
神戸駅からだと、トータルで約1時間20分の鉄道の旅だ。
普段は車移動がメインの山の街で暮らしているため、久しぶりの電車に心が躍る。
坂越へと近づくにつれて車窓に映る景色は、ビルが連なる市街地から、田舎らしい自然豊かな風景へと変わっていった。
がたっごとー、がたっごとーと揺られているうちに、電車は坂越駅に到着。
小さな駅舎で半無人駅だったけど、お客さんは多かった。おそらく観光客は私だけ。あとは地元の人々ばかりだった。次の電車を待つ人、電車から降りた人、みなさん慣れた感じで駅舎内を行き来していた。
坂越駅からお散歩スタート
駅で見つけたお散歩地図。これをもとに大避神社を目指すことにしよう。
駅舎を出ると、そこは猛暑の世界。
蝉が爆音で鳴きまくっていた。自然は元気だ。
歩道を真っ直ぐ進む。
所々で現れる木陰は、まさにオアシス。しかし木陰から一歩出ると、直射日光ジリジリ…ですごく暑い。
距離的にはそう大したことは無いんだろうけど、高温のせいか、果てしなく続く「終わりなき道」のように感じた。
一本道をひたすら歩いて、ようやく交差点に出てきた。
道路を渡ると、大きな橋に出くわす。坂越橋というらしい。
坂越橋の下を流れるのは千種川。これまた大きい川で、水量が豊富で滔々と流れている。
川幅が大きいから当然、橋も長くなるんだけど、調べてみたら、この橋は全長210mもあった。
橋の終わりが、地平線の彼方っぽく見える。暑すぎる日にこの長さは凶器(涙目)。
途中で何度も水分補給をしながら、橋の終わりを目指してひたすら歩く。
もう少しで橋を渡りきるところで、こんな看板を発見。
秦の字に見えるかな? ""秦ノ里"" 11月頃には緑の文字が浮かび上がるだって。秦河勝の「秦」か!
橋の欄干の隙間から撮影した河原。この草むらのどのあたりに「秦ノ里」という字が浮かび上がってくるのだろう?確認のため11月にまた来ようかしら。
橋のゴールに無事到達。まだ目的地に着いていないのに、ここまで頑張って歩いた自分を褒めてあげたい。
道路を渡って下道におりた。これより住宅街に入る。
われは海の子・坂越っ子
道なりに歩いていたら、壁面アートに出くわした。これは蟹シリーズ。蟹三兄弟とヤドカリ君が楽しそうに踊っているぞ。
こちらは写実的で本格派。
平成5年(1993年)ということは、約30年前に描かれたものなのね。
さっきの絵とは異なる画風。こちらは子どもが描いたと推測。
既視感があるぞ。ぎょぎょ!もしかして君はハコフグちゃん?!
消えかかっているけど、この「フレッシュ坂越っ子」というワードに思わず笑みがこぼれる。
調べてみたら、この子どもの壁画は、平成21年(2009年)に坂越小学校6年生児童によって描かれたものだった。
平成5年に描かれていた壁画が、ある日、何者かによって黒ペンキで落書きされたらしい。そこで当時の子ども達の発案で、6年生の卒業記念作品として新たに描き直されたという。
手描きの絵は、どれも子どもらしく、素朴で明るくてのびのびしていた。
絵の中に「生島」という言葉があちこちに出てくるのは、きっと町のシンボルなのだろう。それを子ども達もちゃんとわかっていて、この島を町の誇りとして大切に思っているから描いたんだろうな。
いいなぁ。こういう雰囲気、好きだなぁ。
地下道を通り抜けて、また更に歩く。
住宅街に出てきた。暑さのせいか、誰も歩いていない。
こちらが坂越小学校。さっきの壁画を描いた子どもたちの母校だ。さすが海の町らしく、校章は碇(いかり)だった。
こども100当番の家の塀には、タコさんが並んでいた。なんだか天日干し中の干物みたい。
保育園の柵の中に、遠慮がちに立てられていた標語「子育ては ほん気で のんきに こん気よく」。
これって子育て以外でも大事なことだと思う。私も3つのきを大切にしよう。
看板のフォントがレトロな歯科医院。建物は新しいけど、代々町民の歯の健康を守り続けた歴史の深みを感じる。
「あれ?どこで曲がるんだったっけ?」と道に迷いかけた頃合いで、しれっと登場する案内板。華美過ぎない上に、出てくるタイミングが絶妙すぎる。
ノスタルジック坂越大道
この辺りから、古い町並み地区に入る。この道は坂越大道(だいどう)と言うらしい。この道を真っ直ぐ進むと、瀬戸内海(坂越浦)だ。
昔の道標。「右 大坂 左 城下 道」と刻まれていた。これは、右方面が坂越港および大坂方面の道であり、左方面が赤穂城下への道であることを示している。
古い家、ちょっと古い家、新しい家、それぞれが程良いバランスで織り交ざっている町並み。部活帰りらしき子どもが、自転車でスーッと通り抜けていった。
散策中、あまりに暑かったので、ちょっと休憩させてもらおうと「坂越まち並み館」に入る。
館内に入ると、ご年配の女性(スタッフさん)が駐在していて、温かく迎え入れて下さった。休ませていただいている間、坂越についていろいろ教えてもらった。
女性スタッフさんの解説によると、さっき、地下道の壁画にあった「生島」は、昔、秦河勝が流れ着いて晩年を過ごした島だった。
島の中には古墳があり、今は大避神社の御旅所となっていて、普段は人が入れない禁足地となっている。10月の祭りの日にのみ人の上陸が許されるのだが、神事に携わる者しか島に上がれないらしい。
へー、なるほど。あれは神様の島だったんだね。
この町の人にとって「生島」は、先祖の代から大切に守り続けた宝物のような島なんだ。
だから子ども達の絵にもしっかり描かれてあったのか。
話の成り行きで、私が飛騨高山から来たことを伝えたら、彼女は「まぁ!そんな遠い所から、わざわざ来てくださったの!この暑い中を!」と驚かれた。
更に、私が東儀秀樹さんのエッセイで坂越のことを知り、大避神社を参拝しようと思い立ったことを打ち明けたら、それにもたいそう驚かれていた。
というのも、今まで大避神社を目指して来たのは、秦河勝から入ってきた人たち(月刊ムー系)か、梅原猛さんから入ってきた人たち(古代史ロマン系)か…の、この2パターンだったから。東儀秀樹さんから入ってきた人(雅楽系)は、どうも私が初めてだったらしい。
あらもしかして私、3つ目の新しい道を切り拓いちゃったのかしら?
なんだか話が弾んじゃったなぁ。楽しいひと時だった。
◇
坂越まち並み館を出て、また歩き始めた。
造り酒屋の白壁土蔵が続く。外はやっぱり暑い。また汗が噴き出てきた。
「靴の底 すりへって 傷だらけになって 私の歩みを支えている」散歩者の心に刺さるお言葉。
「もう少しで海に着くぜ!がんばれよ!」と言っている風の、自転車屋さんの看板猫。
ここの消防ホース格納箱は木製だった。渋カッコいい。
遺跡から発掘されたような蛇口。凛としている。
ポストを先頭に整列。番号!いち・に・さん・し・ご・ろく・しち…8番目は小さな石の道標。
坂越浦と生島
大道を抜けて三叉路に出てきた。視界がパーッと広がる。真っ直ぐ進めば、海だ!
急いで道路を渡り、どんどん進むと海が見えてきた。海に浮かぶ緑のモコモコした塊が生島だ。
瀬戸内海を見るのは、何年ぶりだろう。
穏やかで、静かな海。
海なし県(岐阜県)の山奥に籠って暮らしているから、本物の海を見ると「大当たり!」みたいな気分になるのよね。
しばし潮風に当たりながら、ボーと海を眺めていたら、左方から男の子達の楽しそうな声が聞こえてきた。遠すぎて見えないけれど、どうも高校生が海に入って遊んでいるらしい。アオハルだなぁ。
さて、そろそろ神社へと参りましょうか。
海を背にしてこの道を直進した先に、大避神社がある。
「たこまつり」のポスターが町内のあちこちに貼られてたんだけど、ここにもあった。ちょっと気になる。
海から続く参道を通って大避神社へ
ゆるやかな坂道(参道)を登っていくと、鳥居が見えてきた。人々の暮らしの中に、神様の道が溶け込んでいる。
斜めの電柱と真っ直ぐな路地。神域に入ったのかな?ちょっと不思議な光景。
◇
参道を歩きながら、私は28年前の10月12日のことを思い出していた。
あの日の空は、美しく澄んだ青。爽やかな秋晴れの日だった。
臨月に入ってすぐの検診。
軽い気持ちで受けた診察から緊急手術となり、急遽、帝王切開で息子を産んだ。
生まれた瞬間、息子は小さな体からエネルギーの塊のような大きな産声を発して、元気よく泣いた。
その声を聞いて、私はホッとしたのだった。
その後、私が産科に入院していた約一週間の間、連日ずっと晴天が続き、私は毎日、病棟の窓から紺碧の秋空をぼんやり眺めていた。
どんな子に成長していくのだろう。
この子は将来、どんな人生を歩むのだろうか。
そんなことを想像しつつ、不安と期待で胸いっぱいだった若かりし日の私。
あれからいろんなことがあり、泣いたり笑ったり、酸いも甘いもたくさん通り抜けてきたけど、全ては結果オーライだった。いやプラス分が多くて、お釣りが返ってくるくらい。あの頃の私に「大丈夫よ、楽しくて幸せな子育て期間だったよ」と教えてあげたい。
お陰様で息子は立派な晴れ男となって成長し、今は酷暑の京都で暮らしている。
息子が生まれた時と同じ青天の日に、何のご縁か?私はこの神社に辿り着いてしまった。
石段を登る。その先にあるのは神門。
登り切ったところで、ふと立ち止まって振り返ると、真っ直ぐ先に海と生島が見えた。
拝殿にて神様にご挨拶してお参りし、拝殿の両脇にある絵馬堂を拝観する。
歴史を感じる絵馬堂。古くは江戸時代に奉納された船絵馬があるらしい。
神事に使われた船も納められていて、海なし県で生まれ育った私には、すごく興味深かった。
遠路はるばる訪れた聖地。
旅は土地との出会いであり、これもまた一期一会だ。
今回、私が思い切って訪れなければ、おそらく一生涯、この地を踏むことは無かっただろう。そう思うと感慨深い。
ここに来れて良かった。
神様に感謝を申し上げて、神社を後にした。
展望公園から見える海
石段を下りたところで、右に曲って急な坂道を登ると、見晴らしのいい所に出てきた。ここは展望公園というらしい。
あずま屋を見つけたので、ちょっと座って休もうとしたら、既に先客がいた。地元のご年配のグループみたい。楽しそうにお弁当を広げていらっしゃった。
それなら坂越浦の絶景を眺めようと、あずま屋の横にあるビュースポットへ向かうと…。
あれ?こちらも先客がいる模様。
お弁当を食べていたグループのお一人が歩み出て、私より一足先に特等席に腰を下ろされた。あらら…残念。
今いる場所からでも瀬戸内海が一望できるけど、でも、やっぱり特等席から眺めてこの景色を独り占めしたかったなぁ。
次回、また来た時のお楽しみにとっておくね。
路地と町並み
そのまま路地の階段を下りて、もと来た道に戻ることにした。坂越は魅力的な路地が多い。ここもその一つ。
どの路地もきれいに掃き清められていて気持ちがいい。住む人々の心を感じる。
さて、大道に出てきたので、坂越駅方面へと戻りましょうか。
タイル張りが素敵な医院。昭和の個人医院はこんな感じだったよね。
強そうなトビの絵。大事なものを奪われないよう気を付けよう。
なんと!ここでマチュピチュ階段を発見!坂越にもあったとは…ビックリ。
長い時間歩いていたから、だんだんお腹が空いてきた。電車に乗る前に大道でご飯を食べておこう。
吸い寄せられるように古民家カフェ暖木さんに入店し、一汁多菜定食をいただく。暑さで消耗した分を、しっかり食べて補充したよ。黒酢の酢豚、すごく美味しかった。
さぁ、急いで駅へ戻ろう。
可愛らしい赤穂浪士の消火栓蓋。下に写っているのは私の影法師。
ありがとう坂越
また、あの長い直線コースをテクテク歩いて、JR坂越駅に無事に到着。1時間に1本しかない電車に、なんとか間に合うことができた。駅の券売機で切符を買う。神戸から坂越まで片道1,520円なり。
駅舎を通り抜ける風が心地よい。自然の風で身体を涼ませながら、歩いた町の風景を思い出す。
楽しかったな、坂越散歩。
次は暑くない季節に歩きたいね。
10月12日のお祭りもいつか見てみたい。
そうだ、千種川の「秦の里」もいつか確認しにいかなきゃ。
おっと、この調子じゃ、リピ確定じゃん。
一見さんでは収まり切らないご縁が、私の深いところで結ばれた気がした。