【大人の歴史さんぽ】古戦場のまち・関ヶ原を歩く

  • 更新日: 2023/06/28

【大人の歴史さんぽ】古戦場のまち・関ヶ原を歩くのアイキャッチ画像

日本一有名な古戦場のまち・岐阜県関ケ原町を散歩仲間と一緒に歩きました。

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いつか歩くのが夢だった関ケ原

戦国時代を舞台にしたドラマや映画を観ると、よく出てくるのが「関ヶ原の戦い」。天下分け目の戦(いくさ)として、日本国民なら誰もが知っている有名な合戦である。
しかし、関ケ原ってどこにあるの?と聞かれたら、答えに窮する人、結構多いんじゃないかな?
ちなみに、関ケ原の現在の正式名称は、

岐阜県不破郡関ケ原町

そう、岐阜県なのだよ。
私は生粋の岐阜県民だけど、お恥ずかしいことに正式な地名を今まで知らずにいた。
県民ですら、これだもん。
全国的にとても有名なスポットなのに、本当に不思議。

さて、散歩の前に、関ケ原の位置をちょっとおさらいしておこう。



(地図/岐阜県Map-Itマップイット(c)より)

赤ラインを引いた場所が、関ケ原町。ご覧の通り、岐阜県の最西端に位置する小さな町である。
その関ケ原で、慶長5年(西暦1600年)秋、徳川家康率いる東軍と石田三成が率いる西軍が激しくぶつかり合い、天下分け目の大合戦が繰り広げられた。

ここから先の戦場の様子は、歴史ファンの皆さんならよくご存じだと思うけど、実際の関ケ原は一体どんな所なのだろう?
合戦シーンにはいろんな武将が登場するけど、どんな場所に陣を構え、どんな所で戦ったのだろうか?
歴史ドラマで繰り返し描かれてきた割には、実際の現場の様子については、あまり知られていないのが実情ではないかと思う。

「それならば、私が歩こうホトトギス」

…ということで、まずは私がサンポー散歩者陣の中から先鋒を切って歩いてみよう!と思い立った。


今回の散歩友を紹介

一緒に散歩した仲間を紹介しよう。

まず1人目は、高校時代の同級生K君。(以下Kと呼ぶ)
私たちは県立斐太高等学校の卒業生で、文系クラス3年D組のクラスメートだった。
当時は私が陰キャだったこともあり、ほとんど話すことなく卒業したのだが、40代の時に同窓会で再会したのが縁で親しくなった。
今では地元の大事な友人の一人である。

Kのことを少し紹介すると、彼は模型部だった。大人になった今も趣味でフィギュアを作っている。



これはK氏45歳の時の作品「千反田える」。アニメ『氷菓』の神山高校は、私たちの母校をモデルにして描かれた。
Kは、私のサンポー記事のファンで、いつも楽しみに読んでくれているらしい。

ある日、彼から「次はどこを歩くの?」と聞かれ、「実は今、関ケ原に興味があるんだけど、遠くてどうしようか悩んでいるんだよね」と答えたところ、Kの目がキラリと光った。
実はK氏、フィギュア以外にも城巡りが趣味で、大の戦国ファンでもある。
仕事がお休みの日は、県内外のいろんな山城に登ったり、歴史スポットを訪れているという。
もちろん関ケ原にも行ったことがあるらしく、自宅にある関ケ原のパンフレットをいくつか送ってくれると約束してくれた。



数日後、Kから郵送でパンフレットが届いた。



開封してビックリ!関ケ原のウォーキングガイドブックだ。しかも七武将・全シリーズがそろっている!




さらに、こんなお手紙まで添えられていた。なんとありがたいことよ。持つべきものは友だなぁ。
早速、パンフレットを開いて見てみたけど、行ったことが無い場所だから土地勘がないし、どこをどう回るといいのか?イマイチわからない。
そこでKに相談してみたところ、彼は何度も関ケ原に行っているとのこと。
「じゃあ、現地を案内してほしい」
とお願いして、Kにお散歩ガイドをしてもらうことになった。




…と、ここで2人目の人物が登場する。私の夫である。(以下「オット」と呼ぶ)
実は、オットとKは仕事を通して顔見知りの間柄だった。
私たちの関ケ原行きの話を聞きつけて「いいなぁ。オレも行ってみたい!」と言い出した。
Kと同じく歴男のオットは、私と同じく関ケ原に行ったことがない。オットも戦国好きだから、「セキガハラ」というワードを耳にして、居ても立っても居られなくなったらしい。

こうして、オットとKのおじさん2人組&私…という不思議な取り合わせで、仲良く出かけることになった。


いざ!関ケ原へ

新年度がスタートして少し落ち着いた4月のある日。
朝からカラッと晴れて、絶好のお散歩日和になった。

待ち合わせの場所でKとおちあい、Kの愛車に乗せてもらう。

いざ関ケ原へ!


(運転手はK。助手席に座っているのはオット)

高山市から関ケ原町までは、高速道路を使って2時間ちょっと。
東海北陸自動車道を通って高山市から岐阜市へと進み、岐阜市で高速道路を下りて国道21号線に入り、一路関ケ原へと向かった。


徳川家康の最初陣地を歩く

まず最初に、Kの推しスポットの一つである徳川家康の最初陣地「桃配山」に行った。
岐阜市方面から車で進むと、桃配山は国道21号線のすぐ左脇にある。観光客向けの案内がなければ、気づかずうっかり通り過ぎてしまうような小さな山である。
道路を挟んで反対側にある専用駐車場に車を停めて、ちょっと登ってみることにした。



ビュンビュン車が往来するなかを、一瞬の隙を狙って向こう側へ猛ダッシュ!(良い子はマネをしないでね)

さて、桃配山の入口に到着。

山国の飛騨からやって来た我々には、とても山には見えない…。
思わず「えっ山?」とつぶやいてしまった。これって丘じゃん。メッチャ低いぞ。標高104mなり。



右の「ドライブスルー洗車」の看板に気を取られるけど、そこはグッとこらえて、気持ちを盛り立てながら、丘の上でかがやく一朶の白い旗印のみを見つめる。




ゆっくり階段を登るオット。
苦労人であるがゆえに思慮深く、人の心をつかみながら物事をじっくり動かしていく家康公のことを、オットは若い頃から敬慕していた。
この坂を登り切れば、内府(徳川家康)殿のスピリットに出逢えるんじゃないかな…と期待が高まる。




さて、あっという間に山頂に到着。
奥の方に進むと、昭和時代(戦前)に建てられた大きな碑があった。




昭和の碑の横には、明治時代の石碑も立っていた。
ところで、明治の碑にも記されてある「桃配山」という山名。
どうして「桃を配る山」という名がつけられたんだろうね?

Kの解説によると…。

関ケ原の合戦よりも更に昔の西暦672年、「壬申の乱」という古代日本史最大の内戦が起きたのだけど、大海人皇子が、敵対する大友皇子の軍を迎え撃つため陣を敷いたのが、この山だったらしい。
この時、村人達が採れたての山桃を大海人皇子に献上したところ、この桃がたいそう美味しかったので、兵士たちにも配って食べさせたという。
山桃パワーが効いたのか?大海人皇子軍は勝利する。
こうして大海人皇子は即位して天武天皇となり、この山は「桃配山」と呼ばれるようになった。
その逸話から縁起を担いだ家康が、この桃配山に陣を構えた…という訳である。

へー、知らなかったなぁ。関ケ原で二度も大きな戦(いくさ)があったとは。
桃配山には勝負運があるらしい。ここで陣を構えた者に勝機を与えて、国政の頂点へ導くという…。
縁起がいい山なんだね。




「内府殿が座ったという腰掛石はこれかな?」とオット氏。
この場所には、家康公が使ったと言われる腰掛石と机石があるらしいが、よくわからないので、とりあえず適当に座ってみる。
家康公からのありがたい御告げが降りてくるんじゃないか…とワクワクして待ったけど、何の音沙汰もなかったとのこと。
推しとの交信は失敗に終わった。




西軍が陣取った笹尾山方面を眺めてみた。高い建物がないから、見晴らしがいい。

ここでKに「好きな武将は誰?」とさりげなく聞いてみる。
この時の私は、オットとKが、東軍派と西軍派に分かれて終始喧嘩してくれるとネタとしては面白いなあ…と邪な下心を抱いていたので、Kが「僕の好きな武将?もちろん西軍の石田三成だよ!」と明るく言ってくれるのを密かに期待していた。

ところが彼の答えは、

「うーん。特別好きな武将はいないけど、強いて言えば…金森長近かな」

だった。

えっ?金森長近?
東軍じゃん。



ちなみに、金森長近は飛騨国の初代藩主だ。この関ヶ原合戦には、なんと御年76歳で参戦している。
今の時代なら後期高齢者だ。

合戦時に58歳だった家康は、自分よりも高齢で頑健な長近のことを、戦乱の世を渡り歩いた同志のように思い、厚い信頼を寄せていたらしい。慎重派の家康も安心して心を許せるほど、実直で堅実な人物だったのだろう。

金森長近は今の飛騨高山の古い町並みの礎を築いた人である。
飛騨人にとっては親のような存在だもん。Kが特別な思いを抱くのもわかる気がする。




そうか、この2人は東軍派だったのね。

…と、あっという間に令和5年春の関ケ原に戻ってしまった。




「この説明書き、なかなか勉強になるね。面白い」と熱心に読む2人。
この後、私たちはまたダッシュで道路を渡り、車に乗り込んだ。


関ケ原古戦場記念館とミツナリ君

次に向かったのは、Kの推しスポットその2「岐阜県関ケ原古戦場記念館」である。桃配山からは車で約5分(2.4㎞)。すぐ到着した。
無料駐車場に車を停めて、建物に入る。



こちらが岐阜関ケ原古戦場記念館。
中に入って入館料を支払う。大人一人500円。



入館券には武将のイラストが描かれていた。Kにもらったパンフレットと同じ絵だ。
…ということは7種類あるってことかな?

「かなり充実した施設なのにワンコイン(500円)で入場できるんだから、すごくお値打ちだよ」とK。




ここでは、Kおすすめの合戦シアターを鑑賞した。関ケ原ビギナーに是非観てほしい内容で、お散歩前の地理の予習にはバッチリだった。
他の展示も鑑賞したあと、最上階の展望室へと進む。




ここが展望室。全面ガラス張りで見晴らしがすごくいい。関ケ原古戦場跡が一望できる。
石田三成の陣跡である笹尾山はもちろんのこと、松尾山(小早川秀秋の陣跡)も確認できた。
武将の陣跡には、大きな旗印(のぼり旗)が立てられているため、すぐに見つけやすい。




上の写真だと、中央やや右にある小高い山に、白い旗が小さく見える。あれは黒田長政の陣が置かれた岡山(丸山)だ。

…と、ふと横を見ると、何かいるぞ!



ロボットのミツナリくんだった。自律走行型ロボットで、展望室を案内してくれるらしい。




顔面のタッチパネルで「笹尾山」をポチったら、笹尾山に近い展望スポットまでスーと進み、いろいろ解説してくれた。

いやはやビックリ。
治部少輔(石田三成)殿、令和の世にそなたはロボットになったでござるよ。


東軍の陣跡を巡る(松平・井伊・京極・藤堂・福島)

記念館でランチを食べて、いよいよここからが本番!
関ケ原古戦場記念館を出発し、Kのナビゲートで本格的に歩く。




いいお天気だけど、風が強いため、それほど暑さを感じなかった。爽やかでお散歩にはちょうどいい感じ。




これは緊急用の飲料水備蓄タンク。絵巻物風でカッコいい。




出発して数分で、もう最初の陣跡に到着した。「東首塚」とあるのは、合戦の後、亡くなった兵を供養する首塚になったため。




この場所に陣を構えたのは、松平忠吉と井伊直政である。この二人は舅と婿の間柄だった(松平忠吉は井伊直政の娘婿)。
ちなみに彦根城のゆるキャラ・ひこにゃんは、井伊直政の息子(彦根藩二代当主・井伊直孝)と縁があった伝説の猫がモデルである。

この婿&舅コンビが、福島正則に負けじと先鋒を切って西軍に攻撃を仕掛けたことで、関ケ原合戦が始まったのだ。




開戦の瞬間を思い描きながら、神妙な気持ちで陣跡の説明書きを読んでいたら、目の前の歩道を高校生の自転車がスーッと通って行った。
戦国と令和がオーバーラップする不思議な光景。




首塚の大木。兵たちの霊を慰めるために植えられたのだろうか。
首塚というだけあって、ちょっと淋しい雰囲気だったので、写真を撮るのは控えることにした。




東首塚に建てられた立派な門。手厚く葬られたことが伺える。




門を出て、歩道に戻って少し歩くと、三叉路に出た。



左に曲がるとJR関ケ原駅だけど、私たちは道路を渡って、駅とは反対側の右方へと進んだ。

途中、小さな階段を見つけたので、下りてみる。



下りた先は、八幡神社だった。




境内に咲く一輪のツバキ。




ツバキの前の案内板を読む。「ヤブ椿」というらしい。あの花は今年最後の一輪だったみたい。散る前に見ることができて良かった。




先ほどの案内板によると、ここは合戦後の家康の本陣跡地だったらしい。後に、八幡神社が創建されたとのこと。

八幡神社を出ると、昭和の香りを残す町並みが広がっていた。




電柱には、どれも関ケ原の豆知識が記されていた。ふむふむ…これは歴史の勉強になる。




「このまち、まるごと、古戦場」町のキャッチコピーに目が釘付け。

真っすぐ歩いていたら、大通りに出た。




大通りといっても一車線の道路。これは国道21号線だ。
歩道橋に記された地名は「関ケ原町関ケ原」。関ケ原オブ関ケ原。




昭和の交通戦争を彷彿させる交通量。危ないので一列になって歩く。




電気屋さんの店頭に、西軍の武将の旗印が立っていた。町の商工会が作ったものらしい。

「これって、選べるのかな?」
「商工会で割り振られているんじゃないの?」

「実は東軍のファンなのに、西軍が割り当てられちゃったよ…ってこともあるかもしれないね」
「好きな武将の旗に交換できると良いなぁ」

…と、信号待ちをしている間、旗について3人で熱く議論する。

国道を横断して少し進むと、歩道橋が見えてきた。



「さっきの国道じゃなくて、この道が中山道じゃないかな?」とK。ブラタモリのタモリさんっぽくなってきた。




歩道橋の上から眺める中山道の町並み。




この案内板のすごいこと。東軍の名だたる武将が、ご近所さんみたいに並んでいた。




また出てきた豆知識。




こんなところに島津の旗印が…!
「地球にやさしいエコロジー・ふとんの打ち直し」に包囲されている島津軍。




斬られた足軽のように倒れている関ケ原。




お喋りしながら仲良く歩くオットとK。


途中で右に曲がると、何やら祠が見えてきた。



これは西首塚。

東首塚と比べると、こぢんまりしているけど、きれいに手入れされていた。





地域の人が、今も大事に守っているのがわかる。
首塚の祠に手を合わせてお参りし、また歩き出す。


この辺りは、町の雰囲気が昭和チックでどこか懐かしい。




「やすい」三連発。




いい味を醸し出している古い家が多いが、空き家も目立つ。この家の周りには春の花が咲き乱れていた。




突然出てきた葵の御紋と大一大万大吉。町の景観に溶け込んでいた。


そして、ここが次の陣跡。



中学校の敷地内に、藤堂高虎と京極高知の陣跡があるらしい。




校門を入ってすぐ右に、目指す陣跡の碑があった。「おっ!これだ!」と写真を撮るおじさん達。




陣跡の碑と説明書きを見ているオットと私。(K氏撮影)

いつも思うのだけど、藤堂高虎と京極高知って、どちらも超カッコいい名前だよね。
合戦の朝、この陣から進撃し、大谷吉継の部隊と戦ったという二武将。令和の世の今は、町の中学生たちを温かく見守ってくれている。




中学校を出て、また更に歩く。




関ケ原町の町章。兜みたいでカッコいい。




正面奥に見える山が伊吹山。

この道を歩いていた時、風が猛烈に強くなった。

顔を上げると、遠くに伊吹山が見える。
昔から「伊吹おろし」と言って、この辺りは冬になると冷たい強風が吹き荒れる。

今は春だから伊吹おろしではないけど、それでも強烈な風だった。

帽子が吹き飛ばされないように気を付けて、向かい風を受けながら歩いた。




ネギ畑の中に立っていた案内板。次の陣跡まで、あと250m。



あと50m。



着いた!こちらが福島正則の陣跡でございます。




「福島正則陣跡・無料駐車場」という看板が、銭湯の駐車場っぽくて好き。

中に入ってみた。




手前の大杉は、関ケ原合戦図屏風にも描かれた「月見の宮大杉」である。樹齢800年。

本当ならば東軍は、この福島正則が先陣を切って戦を始める予定だったんだよね。
ところが、婿&舅コンビの松平忠吉と井伊直政が出し抜いて発砲し、合戦の火蓋を切ってしまったのだ。

鉄砲の音を聞きつけ、味方の勝手な動きに怒った福島正則はブチ切れた。
怒りに怒って、戦の手柄を取り戻すと言わんばかりに、西軍の宇喜多秀家隊に猛突したのだ。

その正則の陣跡は、今は春日神社となっている。

当時の東軍は、この福島正則をはじめ、血気盛んで「三成憎し」の武人も集まっていたから、統率を取るのはさぞ難しかったであろう。娑婆の酸いも甘いも知り尽くした老練の徳川家康だったからこそ、上手くまとめられたんだろうな…。




福島正則の陣跡の横にある畳屋さん。なかなか渋い店構えだ。「堀田時二郎」って名前の戦国武将、どこかにいそうな気がする。




畳屋さんの窓。日に焼けたポスターが、なんともノスタルジックな雰囲気で良き。

これにて東軍の陣跡巡りは終了。




次は西軍の陣跡を目指して、私達はまた歩き始めた。


不破関の辺りを散策

次の陣跡へと向かう途中、「不破関跡」(ふわのせきあと)の案内を見つけた。



「不破関にも行ってみる?」とK。




「不破関」は、壬申の乱後に天武天皇の命によって設置された東山道の関所で、越前の愛初関と伊勢の鈴鹿関に並ぶ「古代三関」の一つと言われている。
ここでいう東山道とは、後の中山道のことだ。

関ケ原は、近畿地方と東国を結ぶ「東山道」、北陸へ向かう「北国街道」、更には伊勢へ向かう「伊勢街道」の三つが通っていて、日本の歴史上、長く交通の要所であり続けた。

ちなみに、司馬遼太郎『関ヶ原』によると、「こういう交通地理的な地形を、古来兵法の術語では「衢地」(くち)といい、古来から大会戦の行われる場所とされてきた」とある。




確かに、先ほどの桃配山でも少し紹介したけど、この地は、古代には壬申の乱の戦地となり、戦国時代には天下分け目の大合戦が起きている。

ちなみに、関ケ原合戦の時には、この不破関跡の近くまで藤堂高虎&京極高知軍が進撃し、大谷吉継隊との間で熾烈な戦いが繰り広げられている。

なるほど、関ケ原での戦いを制する者が天下を制するのか…。
なかなか凄みのある土地ではないか。




これが不破関跡。関守の末裔である三輪家が代々この場所を守ってきた。
この不破関より東は、関所より東だから「関東」、西は「関西」。文化も風習も、この関を境に東西で大きく分けられる。

不破関跡は、塀の横から自由に中へ入れるようになっていた。




ちいさな建物と庭があり、庭は散策できるようになっていた。

不破関跡を出て、また更に歩く。




これ、さっきも見たぞ。消防ホース格納箱かしら。横に書かれた一筆啓上は、なかなかの達筆。




昔の街道筋の風情を残す古い家。




日本家屋が並ぶ静かな住宅街を歩く。


西軍の陣跡を巡る(宇喜多・小西・島津)

中山道の町並みを通り過ぎて、いよいよ西軍の陣地へと進む。




道路を渡って「開戦地」と記された方向へと登っていく。
さりげなく立っている通学路の標識。関ケ原の子どもたちは、古戦場の史跡の中を毎日歩いて登校しているんだね。




坂を登りきると、跨線橋になっていた。下は東海道本線。

跨線橋を渡り終えると、今度は林の中へ。




太陽が照り付ける下を歩いてきたので、木陰の涼しさが身に沁みる。風が涼しくて気持ちいい。

この林を通り抜けると…。



見晴らしの良い所に出てきた。この辺りから西軍の拠点に入る。

ここで私たちは左折して、南天満山を目指すことにした。




農道のようなのどかな道を進む。




右方に目を向けると、また伊吹山が見えてきた。




目的地まで、あと370mなり。太陽が照りつける道をずっと歩いてきたから、だんだん疲れてきた。

これが小学生の遠足なら、水筒の麦茶とおやつのバナナで一休みしたいところだけど、大人の私たちは休む間もなく歩き続けた。




ここから林道に入っていく。


まさかクマは出ないよね…と心配しながら林の中を進んで行くと、道が2つに分かれていた。




左に進むと大谷吉継の墓、右に進むと宇喜多秀家の陣跡。


ガイドのKの説明によると、大谷吉継の墓と陣跡へ行くには、ここから更に1㎞以上、山道を歩かなくてはいけないらしい。

「遠いから、今回はスルーでいい?」
とKに聞かれて、この時点でバテ気味の私とオットは即決OKを出した。

ところが…である。

Kに「こっちだよ」と案内された道を歩けど歩けど、宇喜多秀家の陣跡が見えてこない。




どんどん林の中に入っていく。人気(ひとけ)が全くないし、山道特有の寂しさが漂い始めた。
おかしいなぁ…。なんか変だよね。
かなり進んだところで、「しまった!道を間違えたかも!」とKが言い出し、Uターンすることにした。

これって、もしかしたら、大谷吉継に呼ばれたのかしら。
「なぜ来ないのじゃあぁぁぁ!」という大谷刑部の叫び声が、草葉の陰から聞こえたような気がする。

御免なさい、刑部殿。
今回は時間が押しているのでスルーさせていただきます。合掌。




さっきの分かれ道の所に戻ってきた。
健康ウォーキングコースが「行軍」ってスゴくない?




さっきは左に進んでしまったけど、今度は右へ。宇喜多秀家の陣跡へと向かう。

先程の分かれ道から少し歩くと、神社が見えてきた。




ここが宇喜多秀家の陣跡。今は天満神社になっている。




西軍の主力部隊と言われた宇喜多軍一万七千もの兵が、この辺りに詰めていたのか…と思うと、なかなか圧巻である。




ここ南天満山を陣取る宇喜多の軍勢に向かって、東軍の松平・井伊コンビが銃を発砲したことが発端で合戦が始まり、その後、福島軍もいっきに攻めてきて、この一帯は激しい戦場となった。

しかし、そこは兵力一万七千の余裕からか?最初は宇喜多軍が優勢だったという。

ところが、味方のはずの小早川秀秋が寝返って西軍に襲いかかってきたため、事態は急変。隣に陣を構えていた大谷吉継の軍勢が総崩れし、宇喜多軍も勝機を逃してしまう。

激戦の末、秀家は敗走。完敗であった。


私たちは神社で柏手を打ってお参りし、この地を後にした。




帰りは元来た道ではなく、細い参道を歩いてみた。




参道の入口に出てきたところで、振り返って写真を撮る。

舗装された道路に出てきて、少しホッとした。
先ほどの東軍の陣跡と違って、西軍の陣跡は、戦に敗れたからだろうか?どこか物哀しくて寂しい雰囲気を感じる。
こういう時、散歩の連れがいて良かったなぁ…としみじみ思う。一人だったら淋しくて歩けなかっただろうな。

さて、気を取り直して道なりに真っすぐ進むと、住宅が見えてきた。




カッコいい交通安全の看板。




住宅の横に隠れるように安置されている、怪しげな黒ジャビットくんを発見。
岐阜県は中日ドラゴンズ圏のはずなのだが…。隠れキリシタンならぬ、隠れ巨人の里なのかしら。




住宅地を過ぎて、また山裾の細い道に入った。




「ここってクマが出るのかな?」と、またもや不安に陥る私達。
飛騨人は、こういう山道を歩くと、野生動物に遭遇するんじゃないか?と、ついつい警戒しちゃうのよね。

クマさんに会うことなく、無事に林を抜けて一安心。
また、だだっ広い所に出てきた。




遠くにのぼり旗が見える。




ようやく次の目的地に到着。
関ケ原合戦の開戦地。
今回、私が一番行きたかった場所だ。




今日はスカッと晴天だけど、合戦当日の朝は、1m先も見えないほどの濃い霧に包まれていた。

霧が晴れてきたのをきっかけに、東軍の婿&舅コンビの松平・井伊隊が西軍に向けて発砲する。その銃声を耳にした福島正則が、味方に出し抜かれたと怒り、負けじと宇喜多隊に突撃して一斉射撃をしかけた…という現場がここである。
天下分け目の大合戦はここから始まったのだ。
今はきれいに整備されて、公園になっている。

奥の方へ進んでいくと、西軍・小西行長の陣跡を見つけた。




開戦地のすぐ近くに、小西行長の陣跡があるのに面食らう。「えー!すぐ目と鼻の先だよ!」
ここが小西軍が陣を構えたという北天満山だろうか?山には見えないけど。

実際に現地を訪れてみて、開戦直前、東軍は西軍の懐深くに入り込み、敵にかなり近づいていたことがわかった。
司馬遼太郎『関ヶ原』によると、あの日の朝、東軍の松平・井伊隊は、深い霧に身を隠して兵をジリジリと進ませていたとある。
ところが霧が晴れてきたら、松平・井伊隊は「しまった!接近しすぎた!」と気づいて驚き、西軍の宇喜多勢も「あれは敵か?」と気づいて臨戦態勢に入り、それで発砲に至った…と。

その発砲音で合戦が始まったことを察知した小西行長は、この北天満山から狼煙(のろし)を上げて、味方の西軍勢に合戦開始を知らせたのだった。

さらに、小西行長の陣跡から目前の風景を眺めると…。



中央やや右側の林の裾野に白いのぼり旗が見える。
えっ?あれは島津の陣跡だよね?
なんと!ここからメッチャ近いではないか⁉
調べてみたら、300mしか離れていなかった。

大河ドラマや映画で見てきた合戦シーンを思い出す。ドラマでは広大な場所のように感じたけど、実際の現場は意外と近いんだな。いやはやビックリだった。

私たちは開戦地&小西行長の陣跡を出て、島津の陣跡に行ってみることにした。




開戦地・無料駐車場の看板。鉄砲の玉が当たったみたいに凸凹していた。

歩き始めてすぐ、島津軍の陣跡がはっきり見えてきた。



ここも小さな丘という感じ。




なだらかな坂道を登る。




陣の入口付近から、小西行長の陣跡&開戦地を見下ろしてみる(右手前の林)。やはり近いぞ。




島津の陣跡に到着。
この場所で、島津義弘入道とその甥・豊久は陣を構えた。
西軍につくため、薩摩からはるばる美濃国にやってきた島津軍。他の軍より兵力が少なかったせいだろうか?石田三成に軽く扱われてしまい、2人は憤怒する。
開戦後、島津は、三成から攻撃の指示が再三出ていたにも関わらずガン無視し続けた。戦時は、敵も味方も関係なく、この陣に近づく者は容赦なく鉄砲で撃ったという。

そして、いよいよ西軍敗北が見えてきた時、義弘入道は甥の豊久の意見を聞き入れ、前代未聞の大胆な退却作戦を試みるのである。
合戦中は、すぐ間近で戦闘が起きているわけだから、陣に流れ弾が飛んでくることもあっただろう。
それなのに、この場所で微動だにせず、目前の激しい戦況をじっと見ていたのだ。すごい度胸だよ。さすがは薩摩隼人。
それに、あの有名な「島津の退き口」はここから出発したのか…と想像すると、なんとも感慨深い。

私たちは島津の陣跡を出発し、西軍最後の目的地を目指した。




島津の陣跡の周りは、静かな住宅地だった。




次の目的地まで、あと500m程なり。


いよいよ笹尾山へ

私たちは、石田三成の陣跡・笹尾山へと向かった。



また山道かな?
細くて小さな坂を登りきると…。




だだっ広い所に出てきた。左手に見える旗印が笹尾山である。




テクテク歩き続けて、ようやく笹尾山のふもとに辿り着いた。




今まで見た陣跡の駐車場の中で、この看板が一番立派だった。
看板の奥には「島左近」ののぼり旗が見える。




「ゴミと一緒に信用を持ち帰る」という表現、ユニークだなぁ。ゴミも信用もポイ捨てしちゃいけないよね。




ここが山の入口。早速、登ってみよう。




一段目の柵の場所に到着。奥に「島左近陣地」ののぼり旗が見える。

そう、三成の側近・島左近は、この笹尾山に布陣していたのだ。
ここから目の前の戦場へと勇猛に出陣した。

司馬遼太郎の小説『関ヶ原』を読むと、冷静沈着で主君への忠義に厚く、賢くて強靭で戦上手な島左近が超イケメンすぎて、私は胸がときめいてしまう。
石田三成が彼に目を付けて、「三顧の礼」で自分の家臣に招き入れたのも、すごくよくわかる。
男も惚れる左近の漢っぷりよ。

古い謡の中に、
「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」
というのがあるけど、ホントその通り!…と私も思うぞ。


更に階段を登る。



家康の桃配山と比べると、こっちの方が段数が多くて登るのが大変だった。




汗をかき、息を切らせて階段を登っていく。ようやく石田三成ののぼり旗が見えてきた。




到着!ここが三成の陣地なり。標高200m。




櫓(やぐら)に登って古戦場跡の盆地を一望する。

さすが三成くん、いい場所に陣を構えたね。
正面から攻めてくる敵の動きを全て見通せるではないか。

…と、武将になりきって眼下を見下ろしたいのに、オープンカフェのようなベンチが気になって仕方がない。

気を取り直して、空を仰ぐ。



古今東西、戦場では制高点を占領することが勝利の要だと言われてきた。
「制高」とは、戦術思考の一つで「敵よりも高い位置を占めることで、戦が優位になる」というものである。
これは飛行機が登場する前の話であり、昔から戦いで勝利したい者は、敵より高い場所を制して、そこに陣を構えようとした。
関ケ原合戦の日、制高点では西軍は東軍よりも圧倒的に勝れていた。その上、兵力でも有利だった。
このパーフェクトな布陣に、三成自身、我が西軍の勝利を確信していたと思う。

ところが…である。
三成の人望の無さが生み出す小さな歪みが、積もり積もって大きな亀裂となり、三成の思うままに味方は動いてくれなかった。
今から423年前。慶長5年9月15日午後。
この場所から、西軍が次々と崩れていく様が一部始終よく見えたはずだ。
三成はどんな気持ちで、目の前の悲惨な状況を見つめていたのだろうか…。

再び視線を下ろして、古戦場跡を改めて眺める。



うーん、やっぱり下のベンチに目が行っちゃうんだよなぁ。
今度また訪れた時は、ここでお弁当を食べよう笑。


私達は笹尾山を下りた。
麓に着くと、島左近の陣地に甲冑を着た人たちが集まっていた。




どうも海外の撮影隊の現場に遭遇したみたいだ。




「このタイミングで撮影に出くわすとは運がいいね」とK。



鉄砲隊は柵の中で銃を構え、口々に「ドーン」と言いながら、鉄砲を撃つシーンのテストを行っていた。

大河ドラマや映画も、こんな感じで撮影したのかしら。

良いもの見させてもらったよ。
三成殿、左近殿、ありがとう。


古戦場さんぽのしめくくりは徳川家康最後陣地

笹尾山を出た私たちは、出発地点の岐阜関ケ原古戦場記念館に戻ることにした。




お花畑に心が和む。古戦場保存会「カンナの会」という名前の由来がちょっと気になる。




全国広しといえども、日本国内で「決戦地」という名のトイレはここだけじゃないの?
今はウォシュレット付き水洗トイレが完備されているけど、合戦中はどうしていたんだろうね。




帰り道、水田に囲まれたのどかな道を歩く。
水を張った田植え前の田んぼは、水面を大きく波打たせてキラキラと輝いていた。相変わらず風が強いけど、爽やかで心地よい。

正面を見ると、大きなのぼり旗が立っている。何だろう?と近寄って見ると、決戦地の旗印だった。




どこからでも目立つ立派な石碑と旗。笹尾山からそれほど離れていない。




この地で、三成の首を狙う者vs三成を守る者の最後の激闘が交わされたという。
戦のない今の世の尊さを、心の奥でぎゅっと噛みしめる。

しんみりした気持ちで、私たちはこの場所を後にした。




道なりに進んでいくと、風景は田園から住宅地へと一変した。




関ケ原の飛び出し坊やは甲冑姿。




ゴミ収集場にも、大一大万大吉と葵の御紋が...!ゴミ出しルールを破ったら手打ちにされそう。

そうこうしているうちに、徳川家康の最後の陣地に辿り着いた。



合戦が始まって3時間後の午前11時頃。家康は桃配山を下りて前進し、この場所に新たに陣を構えた。
そして、密約を交わしたはずの小早川秀秋が一向に動かないことに業を煮やし、小早川の陣に向かって発砲するよう家臣に命じる。




東軍に加勢しようとしない小早川にブチ切れた家康が、手指の爪を嚙みながら「金吾(小早川秀秋)にたばかられたか!」と叫ぶシーンの現場は、ここだったんだね。
砲撃による脅しが効いて、小早川は慌てて動き出した。
1万5千の軍勢をもつ小早川に攻め込まれたらひとたまりもない。それまで奮戦していた大谷軍は、小早川の裏切りによって全滅。大谷吉継は自害する。
これを機に西軍はパニックに陥って総崩れとなり、一方の東軍は勝利へと突き進むのだ。




東軍の勝利が見えてきた時、それまで沈黙を守っていた島津軍が突如動き出した。
島津軍は、この陣めがけて正面から突撃し、そのまま東軍の中を突っ切ろうと試みたのだ。
「捨て奸」(すてがまり)という壮絶な撤退作戦で多数の犠牲者を出しながら、島津勢はなんとか関ケ原を脱出し、伊勢街道へと逃げ切った。
これがあの有名な「島津の退き口」である。

島津義弘入道率いる島津軍は、ホント最後まで大胆かつ勇敢な漢だと思う。
家康も、敵ながら惚れ惚れしたことであろう。


こうして島津撤退の後、東軍は大勝利に沸き立つのである。
それが此の地、徳川家康最後陣地。
天下分け目の関ケ原合戦は、ここで幕を閉じた。




そして、私たちの壮大な歴史散歩も、これにて完了したのだった。




最後陣地のすぐ横が、岐阜関ケ原古戦場記念館。そのまま施設へと向かう。


エピローグは関ケ原スイーツ

約2時間・歩行距離9㎞の散歩を無事に終えた私たち。
ずっと歩き通しだったので、クタクタに疲れてしまった。甘いものが食べたい!
…ということで、関ケ原古戦場記念館(別館)のイートインスペースでおやつタイム!とすることにした。



私は、三成の抹茶&家康の八丁味噌のパウダーがかかっている「武将よくばりソフト」をチョイス。
おじさん達はパフェを選んだ。



Kのおやつは、三成をイメージして作られたという「石田三成もこもこ抹茶パフェ」。




オットは、贅沢にプリンが丸ごと一個入っている「岐阜関ケ原古戦場記念館プリンパフェ」
Kもオットも、お互いにスイーツ男子であることを初めて知り、妙に意気投合していた。



「Kくん、一緒にスイーツを食べてくれるかなぁ…」と心配していたオット。Kも自分と同じく甘いものが大好きだと知り、すごく喜んでいた。
甘くて美味しいものを食べて、心も体も満たされたね。

そろそろ帰りますか…。




記念館を出て、ふと振り返る。柔らかな夕陽が私たちを温かく包み込む。

あの日も、こんな夕焼け空だったのだろうか。
勝ち残った者、生き残った者、それぞれの瞳にこの関ケ原の夕陽はどう映ったのであろう。

つわものどもの夢のあと…。

砕けた夢、消えた夢、託した夢、託された夢、乱世平定の夢。

厭離穢土欣求浄土

それらが交錯するこの町を、私たちは歩いたのだ。


あぁ、心に残る散歩だったなぁ。

ありがとう関ケ原。
また歩きに行くね!










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シモハタエミコ

飛騨高山在住の飛騨弁ネイティブ。散歩と帽子とかわいいものが好き。

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