哲学の道で哲学を考える
- 更新日: 2022/03/31
哲学とはなんなのか。
どうも一流です。
少し前になりますが、京都にある哲学の道を歩く機会がありました。
哲学の道といえば京都で最も人気のある散歩道の一つです。
熊野若王子神社から銀閣寺に通ずるおよそ2kmの哲学の道。
脇を流れるのは琵琶湖疏水(そすい)という琵琶湖から引かれている水路です。
かつては多くの哲学者や文学者がこの道を歩きながら物思いに耽っていたそうです。そんな逸話が「哲学の道」という名前の由来であるとのこと。
水のせせらぎを片耳に、桜並木の表情を眺める。
なるほど、これは確かに考えを巡らせるのにはうってつけの環境かもしれません。
せっかく哲学の道を歩いているので、今回は『哲学』そのものについて歩きながら考えてみようと思います。
まっすぐ続く緑の道。
歩いたのはちょうど初夏に差し掛かった頃で、目に優しい散歩でした。
脇を走る琵琶湖の水路。
琵琶湖の水が県を超えてここまで流れているとは驚きです。
ここで琵琶湖疏水の歴史を一つ。
時は明治時代。当時の京都の街は明治維新により東京へ政府機能が移管したことで衰退の一歩を辿っていました。
そこで白羽の矢が立ったのが琵琶湖疏水。
当時の京都府知事であった北垣国道は、琵琶湖の水を京都へ通し灌漑や水運・水力発電といった新たな産業を生み出すことで京都の街を再興させたと言います。
すごいぞ、琵琶湖疏水。
ちょっと話が逸れました。なんでしたっけ。あ、哲学についてですね。
自分で言い出しておいてなんですが、哲学ってどういう学問なのかあんまり分かっていません。
なんか難しいことを考える学問なんだろうな〜といった程度の理解です。
ねえねえそこの君、哲学って知ってる?
あまり興味がないらしい。
『哲学』という言葉を辞書で引いてみると次のような説明がありました。
う〜ん。やっぱりよくわからない。
よくわからないけど、わかるとおもしろそうな気もする。
この道を歩きながら哲学について考えてみれば、何かわかることがあるかもしれません。
例えば「人間が生きてる意味ってなんだろう?」だとか、「愛ってなんだろう?」みたいな問いを『哲学的な問題』と呼ぶことがありますね。
であるならば、哲学とは答えるのが難しい抽象的な問題を考える学問と言ってよいのでしょうか。
いや、待てよ。なんかそれだけでは無い気がします。
単純に抽象的と言い切るのは少し適切ではないような。
それよりも、もっと...こう...本質的、とでも言いましょうか。
そんな表現の方が的を射ている気がします。
「人間が生きてる意味ってなんだろう?」とはつまり「人間の生きてる意味を突き詰めていくとどこに辿り着くのか?」という問いに繋がります。
「愛ってなんだろう?」とはつまり「愛という気持ちは相手に対して何をどうしたいと感じる気持ちのことなのか?」とも言い換えられます。
「なんでだろう?」「どういうことだろう?」と物事の本質を徹底的に追求する。
そしてその最後の最後に辿り着く答えについて考え抜く。だからこそ一言で答えるのが難しい。
もしかして哲学ってそんな答えを探し求める学問なのではないでしょうか。
どうだろう。核心つけましたかね。
あんまり響かなかったみたいです。
自分の捻り出した答えが相手に響かなくとも散歩は続きます。
これもまた哲学と言えるかもしれません。
哲学とは本質を追求する学問である。
そう考えてみると、私が今まさにしている散歩。
散歩についての本質を追求してみるのはどうでしょうか。
一般的に、人が歩くのは目的地に移動するためです。
目的を果たすべき場所へ移動するため、人は足を動かします。
ご飯を食べるため、仕事をするため、人と会うため...。
歩くことは人間が生活を営む上で欠かせない行為なのです。
例えばこんな分かれ道に出会ったとき。
目的地が決まっていれば進むべき道はどちらなのか明確な答えがあります。
しかし散歩ではどうでしょう。
散歩には明確な目的地がありません。
あてもなくふらふらと寄り道をしながら歩き回ることができることが散歩の持つ特性です。
敢えて言うなら歩くことそのものこそが、散歩の目的であると呼ぶことができるかもしれません。
そのため、分かれ道に出会ったのが散歩中である場合、私たちはどちらに進むかを選ぶことができます。
散歩では行き先の決定権は時間的・空間的な要因ではなく、自らの意思のみが持っています。
自分の気持ちによって行きたい場所や見たいものを決めることができる。
散歩の本質って、ここに隠されている気がするんです。
たとえばこの道脇の神社。
おもしろそうかも。行ってみようかな。
いや、それより前に進んでみようかな。
こうした葛藤。あるいは不確実性とでも言いましょうか。
行ってもいいし行かなくてもいい。
見てもいいし見なくてもいい。
してもいいししなくてもいい。
この曖昧さこそが散歩の持つ唯一無二の醍醐味であり、同時に我々が散歩を愛してやまない理由のようにも思えるのです。
たとえばこの看板を見て、
「めちゃくちゃ辛そうな姿勢をしているぞ。膝への負担が半端じゃないな。」
と看板を労る気持ちが芽生えることも、散歩の持つ自由度が生み出している感情の一つです。
せっかく看板が見やすいように斜めになって頑張っているので内容をチェックしてあげましょう。
ふむふむ。なるほど。哲学の道はホタルの名所でもあるらしい。
無機物への同情から新たな知見を得る。
これもまた実に散歩らしい出来事と言えます。
たとえば、ふとした景色から物語を想像する。
たとえば、新緑の背比べを見守る。
たとえば、種族を超えた仲間と並走する。
たとえば、埋もれてしまった真実を探す。
たとえば、歩みを止めて花に見惚れる。
たとえば、近づいてみる。
たとえば、買ってみようか迷う。
たとえば、スタイリッシュな『坊主』という意味の英単語を見つめる。
たとえば、あらかわい〜〜♡と感じる。
たとえば、メリーポピンズってこんな強風だったっけ?と記憶を探る。
たとえば、名前かっこい〜とワクワクする。
たとえば、京都の風情を感じる。
たとえば、話題の切り替えの激しさに戸惑う。
たとえばでっけ〜川の主と出会う。
たとえば、再会する。
これらは全て目的地を持たない散歩だからこそ見つけられた景色です。
ただ行きたい場所へ移動することだけを目的としていたら、これらの景色もきっと見落としてしまっていたことでしょう。
自分の意思で周りの景色に触れることによって、多くのこと想像し、あらゆる感情が揺さぶられる。
散歩の本質って、それらの積み重ねによって生まれる感情のこと...なのかもしれません。
そんなことを考えていたら、銀閣寺荘という建物が見えてきました。
ゴールである銀閣寺が近いということは、この散歩も終わりが近づいてきたようです。
旅先で歩く道には、踊り出したくなるような楽しさと、ひとり俯き震えるような寂しさが同居しています。
初めて見る景色には胸が躍る反面、もしかしたらもう二度とここを歩くことはないかもしれないと考えるとたまらなく寂しいのです。
「自分の気持ちに従って出会えたこの景色たちとまたいつか出逢いたいな。」
そう思えたらそれはきっといい散歩だったということができるでしょう。
もしまたこの哲学の道を歩く機会があれば、今回感じたものとはまた別の感情が芽生えるかもしれません。
散歩で感じる気持ちなんてものは、得てしてその時の気分によるものです。
同じ道を歩いても違うものを見てもいいし、違うことを感じてもいい。
その刹那的な感情を味わうために、私たちは今日も散歩をするのです。
それがきっと散歩の本質であり、哲学でもあると信じて。
あ〜あ、哲学って難しいなぁ。
おわり
少し前になりますが、京都にある哲学の道を歩く機会がありました。
哲学の道といえば京都で最も人気のある散歩道の一つです。
熊野若王子神社から銀閣寺に通ずるおよそ2kmの哲学の道。
脇を流れるのは琵琶湖疏水(そすい)という琵琶湖から引かれている水路です。
かつては多くの哲学者や文学者がこの道を歩きながら物思いに耽っていたそうです。そんな逸話が「哲学の道」という名前の由来であるとのこと。
水のせせらぎを片耳に、桜並木の表情を眺める。
なるほど、これは確かに考えを巡らせるのにはうってつけの環境かもしれません。
せっかく哲学の道を歩いているので、今回は『哲学』そのものについて歩きながら考えてみようと思います。
まっすぐ続く緑の道。
歩いたのはちょうど初夏に差し掛かった頃で、目に優しい散歩でした。
脇を走る琵琶湖の水路。
琵琶湖の水が県を超えてここまで流れているとは驚きです。
ここで琵琶湖疏水の歴史を一つ。
時は明治時代。当時の京都の街は明治維新により東京へ政府機能が移管したことで衰退の一歩を辿っていました。
そこで白羽の矢が立ったのが琵琶湖疏水。
当時の京都府知事であった北垣国道は、琵琶湖の水を京都へ通し灌漑や水運・水力発電といった新たな産業を生み出すことで京都の街を再興させたと言います。
すごいぞ、琵琶湖疏水。
ちょっと話が逸れました。なんでしたっけ。あ、哲学についてですね。
自分で言い出しておいてなんですが、哲学ってどういう学問なのかあんまり分かっていません。
なんか難しいことを考える学問なんだろうな〜といった程度の理解です。
ねえねえそこの君、哲学って知ってる?
あまり興味がないらしい。
『哲学』という言葉を辞書で引いてみると次のような説明がありました。
古代ギリシアでは学問一般を意味し、近代における諸科学の分化・独立によって、新カント派・論理実証主義・現象学など諸科学の基礎づけを目ざす学問、生の哲学、実存主義など世界・人生の根本原理を追求する学問となる。
--「広辞苑」第五版より
う〜ん。やっぱりよくわからない。
よくわからないけど、わかるとおもしろそうな気もする。
この道を歩きながら哲学について考えてみれば、何かわかることがあるかもしれません。
例えば「人間が生きてる意味ってなんだろう?」だとか、「愛ってなんだろう?」みたいな問いを『哲学的な問題』と呼ぶことがありますね。
であるならば、哲学とは答えるのが難しい抽象的な問題を考える学問と言ってよいのでしょうか。
いや、待てよ。なんかそれだけでは無い気がします。
単純に抽象的と言い切るのは少し適切ではないような。
それよりも、もっと...こう...本質的、とでも言いましょうか。
そんな表現の方が的を射ている気がします。
「人間が生きてる意味ってなんだろう?」とはつまり「人間の生きてる意味を突き詰めていくとどこに辿り着くのか?」という問いに繋がります。
「愛ってなんだろう?」とはつまり「愛という気持ちは相手に対して何をどうしたいと感じる気持ちのことなのか?」とも言い換えられます。
「なんでだろう?」「どういうことだろう?」と物事の本質を徹底的に追求する。
そしてその最後の最後に辿り着く答えについて考え抜く。だからこそ一言で答えるのが難しい。
もしかして哲学ってそんな答えを探し求める学問なのではないでしょうか。
どうだろう。核心つけましたかね。
あんまり響かなかったみたいです。
自分の捻り出した答えが相手に響かなくとも散歩は続きます。
これもまた哲学と言えるかもしれません。
哲学とは本質を追求する学問である。
そう考えてみると、私が今まさにしている散歩。
散歩についての本質を追求してみるのはどうでしょうか。
一般的に、人が歩くのは目的地に移動するためです。
目的を果たすべき場所へ移動するため、人は足を動かします。
ご飯を食べるため、仕事をするため、人と会うため...。
歩くことは人間が生活を営む上で欠かせない行為なのです。
例えばこんな分かれ道に出会ったとき。
目的地が決まっていれば進むべき道はどちらなのか明確な答えがあります。
しかし散歩ではどうでしょう。
散歩には明確な目的地がありません。
あてもなくふらふらと寄り道をしながら歩き回ることができることが散歩の持つ特性です。
敢えて言うなら歩くことそのものこそが、散歩の目的であると呼ぶことができるかもしれません。
そのため、分かれ道に出会ったのが散歩中である場合、私たちはどちらに進むかを選ぶことができます。
散歩では行き先の決定権は時間的・空間的な要因ではなく、自らの意思のみが持っています。
自分の気持ちによって行きたい場所や見たいものを決めることができる。
散歩の本質って、ここに隠されている気がするんです。
たとえばこの道脇の神社。
おもしろそうかも。行ってみようかな。
いや、それより前に進んでみようかな。
こうした葛藤。あるいは不確実性とでも言いましょうか。
行ってもいいし行かなくてもいい。
見てもいいし見なくてもいい。
してもいいししなくてもいい。
この曖昧さこそが散歩の持つ唯一無二の醍醐味であり、同時に我々が散歩を愛してやまない理由のようにも思えるのです。
たとえばこの看板を見て、
「めちゃくちゃ辛そうな姿勢をしているぞ。膝への負担が半端じゃないな。」
と看板を労る気持ちが芽生えることも、散歩の持つ自由度が生み出している感情の一つです。
せっかく看板が見やすいように斜めになって頑張っているので内容をチェックしてあげましょう。
ふむふむ。なるほど。哲学の道はホタルの名所でもあるらしい。
無機物への同情から新たな知見を得る。
これもまた実に散歩らしい出来事と言えます。
たとえば、ふとした景色から物語を想像する。
たとえば、新緑の背比べを見守る。
たとえば、種族を超えた仲間と並走する。
たとえば、埋もれてしまった真実を探す。
たとえば、歩みを止めて花に見惚れる。
たとえば、近づいてみる。
たとえば、買ってみようか迷う。
たとえば、スタイリッシュな『坊主』という意味の英単語を見つめる。
たとえば、あらかわい〜〜♡と感じる。
たとえば、メリーポピンズってこんな強風だったっけ?と記憶を探る。
たとえば、名前かっこい〜とワクワクする。
たとえば、京都の風情を感じる。
たとえば、話題の切り替えの激しさに戸惑う。
たとえばでっけ〜川の主と出会う。
たとえば、再会する。
これらは全て目的地を持たない散歩だからこそ見つけられた景色です。
ただ行きたい場所へ移動することだけを目的としていたら、これらの景色もきっと見落としてしまっていたことでしょう。
自分の意思で周りの景色に触れることによって、多くのこと想像し、あらゆる感情が揺さぶられる。
散歩の本質って、それらの積み重ねによって生まれる感情のこと...なのかもしれません。
そんなことを考えていたら、銀閣寺荘という建物が見えてきました。
ゴールである銀閣寺が近いということは、この散歩も終わりが近づいてきたようです。
旅先で歩く道には、踊り出したくなるような楽しさと、ひとり俯き震えるような寂しさが同居しています。
初めて見る景色には胸が躍る反面、もしかしたらもう二度とここを歩くことはないかもしれないと考えるとたまらなく寂しいのです。
「自分の気持ちに従って出会えたこの景色たちとまたいつか出逢いたいな。」
そう思えたらそれはきっといい散歩だったということができるでしょう。
もしまたこの哲学の道を歩く機会があれば、今回感じたものとはまた別の感情が芽生えるかもしれません。
散歩で感じる気持ちなんてものは、得てしてその時の気分によるものです。
同じ道を歩いても違うものを見てもいいし、違うことを感じてもいい。
その刹那的な感情を味わうために、私たちは今日も散歩をするのです。
それがきっと散歩の本質であり、哲学でもあると信じて。
あ〜あ、哲学って難しいなぁ。
おわり