鉱山のまち飛騨神岡で探索さんぽ
- 更新日: 2022/11/22
秋晴れの日曜日、スーパーカミオカンデで有名なあの町をお散歩しました
今回、私が歩いたのは飛騨神岡(岐阜県飛騨市神岡町)。富山県との県境に位置し、周囲を山にぐるりと囲まれた小さな町である。
ここはかつては「東洋一の亜鉛の山」として名を馳せた、日本屈指の鉱山の町であった。
ここで少し神岡鉱山の歴史についてご説明したい。
今から約2億5千万年前にできた「飛騨片麻岩」という岩石。神岡鉱山がある一帯は、この岩石によって構成されている。そして、この岩石の中に多くの鉱物が豊富に含まれていたことから、神岡の数奇な歴史が始まる。
奈良時代に、この地で採れた黄金を朝廷に献上したという口承が今に残っているが、本格的に採掘が始まったのは安土桃山時代である。
秀吉の命によって飛騨国を治めた金森家が、この地の鉱山の開発を試みて、鉱脈を発見。金や銀が採掘された。
その後、飛騨国が江戸幕府の天領となると、鉱山は幕府直轄の鉱山(御手山)となり、銅や鉛などが採掘される。
時代は幕末から明治へ。
明治時代に入ると、神岡鉱山は三井財閥によって買い取られる。三井組の進出によって、近代的な西洋式の工法が導入されて、神岡鉱山は日本有数の亜鉛の産地として発展した。また、太平洋戦争後は日本の経済復興を陰で支え続けた。
しかし、時代の流れと共に鉱山はその役目を終えて、2001年に採掘を休止。
現在は、三井金属系の神岡鉱業が鉱山跡を管理し、金属のリサイクル精錬や車の排ガス浄化用触媒の製造などを行っている。
一時期は人口が2万人を超えるほど大いに賑わった神岡も、人が減り、静かな町と変わっていった。
(現在の神岡鉱山。遠くに見える煙突は神岡鉱業もの)
ところが…である。昭和の終わりに、意外なところから新しい道が切り拓かれた。
なんと、1983年、鉱山跡の地下1000mに、東京大学宇宙線研究所の観測施設「カミオカンデ」が建造されたのだ。更に1996年には新たに「スーパーカミオカンデ」が完成し、運営をスタート。
この施設で「素粒子ニュートリノ」の研究が行われるようになり、2002年には小柴昌俊先生が、続いて2015年には梶田隆章先生が、それぞれノーベル物理学賞を受賞した。
(神岡町内の商店のガラス戸に貼ってあったチラシ)
神岡の町は、平成に入り「ノーベル賞の町」として再び脚光を浴びたのである。
たまたま、この地が「飛騨片麻岩」という固い岩盤でできていること、清浄で美しい水が豊富であること、鉱山採掘の高い技術を有している等の理由から、ニュートリノの研究地として白羽の矢が当たったのだけど、今や世界最先端の宇宙線研究施設として世界的にも有名である。
「鉱山の町」から「宇宙物理学の町」へ。そんな飛騨神岡の市街地を歩いてみた。
そこで事前に入手した神岡町の散策マップを開いて、気になるスポットをチェックしてみた。
何か面白そうなものはないかな?
おっ!
ほぉ~水屋!神岡には水屋があるのか。
「水屋」とは、水量が豊富で水が美しいところに設置されている共同の水場である。
同じ岐阜県内だと郡上八幡や大垣市が有名だけど、神岡にも水屋があるとは…。これにはちょっと驚いた。水屋、是非見てみたい。
更に、横を見ると、こんなものを発見。
えっ?マチュピチュ階段?!なんだこれ?
いつか行ってみたい秘境の一つに『南米ペルーのマチュ・ピチュ遺跡』があるんだけど、神岡にもマチュピチュがあるのか!?これは灯台下暗しだったわ。
こんなものを見つけてしまったら最後、実際に現地に行き、自分の目で確かめてみたいと強く思ってしまうではないか。
…ということで、テーマ決定!「水屋」と「マチュピチュ」。この2つを現地調査してみよう。
こうして秋晴れの10月、とある日曜日。
私はこの地図をバッグに忍ばせ、飛騨神岡へと向かったのだった。
そこで、私はマイカーで神岡に向かうことにした。高山市内の自宅を出発して飛騨市に入り、山の中の峠道を越えて、無事に神岡町に到着した。
とりあえず神岡振興事務所(飛騨市役所の支所)へ行き、駐車場に車を停めて、町内をぐるりと歩いてみることにした。
神岡振興事務所の駐車場に到着。
神岡に降り立つと、とってもいいお天気だった。
飛騨地方の秋は、一日の寒暖差が非常に大きい。朝は超寒くて、気温は一桁台。あまりに寒くてヒート系の肌着を着ていたんだけど、そのままうっかり神岡へと出かけてしまった。
この着込み方で日中24℃はちょっとキツイ。汗が出てくる。
出発前に、建物内の自販機で、冷たいお茶を購入した。
振興事務所前の街路樹。紅葉が始まっていた。
さて、ここを起点に、さっそく歩いてみよう。
神岡振興事務所を出て右に曲がって、坂道をまっすぐ下る。
歩道の途中で、手作りの看板を見つける。山菜の缶詰はわかるけど、水菜の缶詰ってどんなものなんだろう?
真っすぐ進んだら高原川に出てきた。高原川は、北アルプスを源流に神岡へと流れ込む清流である。
ここで左折して、高原川の上流へと進んでみる。
誰もいない道。何も通らない道路。歩行者は私だけ。
『焼肉けやき』の看板が目に入った。ひときわ目立つ看板。どうして店名が『けやき』なんだろう?と思ったら、大きなけやきの木の横に店があった。なるほど。
更に歩くと、こんなものを発見。
道案内なんだけど、この標識柱の上部に鉱物が収められている。何だろう?
この石、「魚岩石」というのか。ふむふむ…。
この角度から覗くと、中がよく見えた。石の粒々は確かに魚の目みたいだな。
消防団の車庫のシャッター。葛飾北斎・富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」だ!かっこいい〜。
自然の風景にしっくり溶け込む赤い橋。「藤波橋」に辿り着いた。
通行人も車も野良猫も、何一つ見かけない静かな橋だけど、一応安全のため歩道を歩く。
藤波橋から高原川の下流を眺める。水が澄んで美しい。。
上流側では、紅葉が始まっていた。なんと風光明媚な景色。
…と、ここで自分が迷子になりかかっていることに気づいた。あわててバッグをまさぐる。
地図を手に取り、開いて道を確認。
実は今まで神岡に来ることはあっても、車でスーと通り抜けるだけだったから、神岡の町を実際に散策するのは今回が初めて。そのため土地勘が全然ない。
右も左も東西南北も、サッパリわからないから、この地図が本当に頼りだ。これが無かったら路頭に迷うところだったよ。
目指すスポットの道順をチェックする。
橋を渡り切ったところで「こっちかな?」と左に進んでみた。
またまた鉱物付きの標識柱を発見。
藤棚の下を歩く。シーズンオフの藤棚って、こんな感じなのね。モロッコいんげんみたいなのが、いっぱいぶら下がっていてビックリ。
高原川の方を見ると、川沿いの家の軒下が、新幹線の高架下みたいになっていてビックリ。
どんどん進んでみるけど、あれ?だんだん道が細くなっている。本当にこの道でいいのかしら?
「何か変だぞ」と心配になり、もう一度地図を開いて確認してみたら、どうも、やっぱり道を間違えてしまったみたい。
ここから先は「藤波八丁」という名の遊歩道らしい。渓谷沿いの景勝地みたいだけど、次の散策用にとっておこう。
もう一度、藤波橋に戻って、出直すことにした。
藤波橋の前に立つ。さっきは左に折れたけど、今度は真っすぐ進む。この細い石畳みの坂は神坂(かんざか)。
マンホールの蓋がかわいい。
かなり急な坂道で、早くもバテ気味の私。
道沿いの家々を見ると、年季の入った古い建物が多い。
ご隠居さんがよく座っていそうなベンチ。
小さなお庭。
首にタオルを巻いたオジサンみたい。
ここは、なんだか昭和で時間がピタリと止まってしまったような所だなぁ。
しかし…。
地図を片手にキョロキョロしながら歩いているんだけど、全然見えてこないぞ「マチュピチュ階段」。
そう、実は私、「神岡のマチュピチュ」を探しているのだ。
なのに、それらしき物が全く見当たらなくて、気が付いたら道の突き当りの神社に来てしまった。
またもや道に迷ってしまったようである。恐るべし、魔町・神岡。
怪しく消えてしまった地区名。一体ここはどこ?
仕方がないので、また戻ることにした。
辻に祀られてあった地蔵様に、そっと手を合わせる。「どうかマチュピチュに辿り着けますように…南無」
お地蔵様のご加護を念じつつ、元来た道をとぼとぼ歩いていたら、気になる看板を見つけた。
そういえば、地図に『朝浦公民館横にある通称マチュピチュ階段』と説明書きがあったぞ。もしかして、これだろうか?
ちょっと行ってみよう。
細道を進んでいくと、奥に朝浦公民館の建物があるのを発見した。この公民館、かなりディープな雰囲気を漂わせている。
ドキドキしながら、公民館の玄関前に立つと、その横に見えてきたのは…。
おぉ!これだーーー!マチュピチュ階段!
やっとこさ発見!(お地蔵様ありがとう…泣)
本家本元のマチュ・ピチュ遺跡を発見したアメリカの探検家ハイラム・ビンガムも、今の私と同じ気持ちだったのだろうか。
太陽の光が燦燦と差し込む神聖な階段を、一段ずつ登ってみた。
マチュピチュ階段の最上階から眺めた神岡の町並み。青い空と太陽の光。眺めが良くて明るい所だった。
本家本元のマチュピチュのように、毎日、太陽神を拝められそうだわ。
ちなみに、この階段を上がりきった所にはお墓があり、お墓の前の細い道をさらに進むと、高台の空き地になっていた。
雑草が生い茂るその空き地には、奥に家が一軒だけポツンと建っている。人の気配は全く感じられない。空き家らしい。
もう一度、マチュピチュ階段へと戻る。
公民館からこの階段へと続くこの細い路地一帯は、おそらく飛騨地方で『筋骨(きんこつ)』と呼ばれている道ではないか…と私は推測した。
筋骨とは、世間一般で広く『赤道(あかみち)』と呼ばれる昔の古い通り道のことである。
車なんて無かった遠い昔、市井の人々は、こんな人一人がやっと通れる細い道でも充分に生活が成り立っていたのだ。
神岡が「鉱山の町」として栄えた頃の、古き良き時代の空気に、少しだけ触れた気がした。
さて、階段を下りよう。
しかし、いざ下りようとすると手すりがない。細くて狭くて急な階段なので、ちょっぴり怖かった。へっぴり腰でソロソロと下りた。
周りの木々の緑と相まって、色鮮やかできれいな橋だなぁ…と思う。
橋を渡って、四つ角を直進する。
さて、これから向かうのは「権七水屋」。
地図を見ると、マチュピチュ階段から最も近い場所にあるらしい。まずは、ここから攻めてみることにした。
この道を真っすぐ進むと、左手に見えてくるはずなんだけど…。
あれ?スナックまどか?
えっ?船津尋常高等小学校?
立派な石碑だけど、碑の「ここに船津尋常高等小学校が在った」って文面、ちょっと斬新すぎないか。
…と、そのまま進んでいたら、車(マイカー)を駐車している神岡振興事務所に戻ってしまった。
また、道に迷ってしまったよ。恐るべし飛騨神岡。
再度、地図を開いて確認し、もと来た道をキョロキョロしながら歩く。
ある地点に差し掛かった時、私の直感がピンと働いた。
「あっ!ここ、もしかして…!」
水曜スペシャルの川口浩探検隊のようなテンションで、思わず駆け出す。
路地をまっすぐ進むと、目の前に、水を溜めた水槽のようなものが見えてきた。
これだ!これが水屋だ。辿り着いた!
こちらが「権七水屋」でございます。
かなり古そうだな。歴史を感じる。
ちなみに「水屋」とは、共同の水場である。まだ水道水が無かった時代、水が豊富に湧き出る地域では共同の水屋を作り、町ぐるみで管理して日々の暮らしに利用してきた。
水屋内には、「水舟」と呼ばれる二層または三層の水槽があり、上流の第一層は飲用水として、第二層は野菜や果物を洗ったり冷やすことに、一番下流の第三層は食器を洗うのに使われている。
権七水屋に祀られていた神棚。
さんざん迷ってようやく見つけた権七水屋。無事に辿り着けて良かった。
感慨無量で外に出てみる。
振り返って改めて見てみると、この水屋、暗くて全然目立たない。
こりゃあ簡単に見つけられなくて当然だわ…と思った。
水屋の中を突っ切って、反対側の道へ出てみると、『焼肉けやき』の前に出てきた。
この看板、さっきも見たよ。迷路のような町・飛騨神岡。
次の水屋を目指して、私はまた歩き始めた。
神岡の街中を歩いて、一つ発見したことがある。
それは、路肩の側溝からゴウゴウと大きな音が聞こえてくることだ。
何処を歩いていても必ず聞こえてくる。これは水が流れる音だ。
かなりの水量のようで、足元から勢いのある水音が響き渡っている。神岡ビギナーの私は、その音の大きさと迫力にちょっとビビッてしまう。
神岡は昔から水が豊富だそうだけど、足元から響くこの水音を聴けば大いに納得。
春の雪解け水が、山から滝のように勢いよく流れ落ちる時の、あの轟音に似ている。
タバコ屋の横に立っている外灯が、宇宙っぽくて面白い。
街角に突然現れた根尾くんコーナー。飛騨市は、中日ドラゴンズの根尾昴選手の故郷だ。根尾くんの活躍を神岡の達磨様が見守ってくれている。
公園にあったカッコいい三角コーン。
昔ながらの路地。こうした細道を神岡ではよく見かける。
よし、こっちに行ってみよう。
塀に埋め込まれた消火栓。
ここは大津通りというらしい。でも、全然商店街っぽくない。不思議な大通り。
車庫の奥に、異次元のような不思議な路地が続く。
昔は商店だったのだろうか。二階のガラス窓の枠がレトロな雰囲気で素敵。
さて、そろそろ次の水屋が見えてくる頃なんだけど…。
「確かこの辺りだよね」と、地図を見ながらキョロキョロ探していたら、左手の坂道の先に、それらしき建物を見つけた。
坂道を登り、ベンチに座っているお婆さんに尋ねて確認したところ、ここが目指していた水屋だった。お婆さんにご了承いただき、写真を撮らせていただいた。
こちらが「牛ヶ口水屋」。本日2つ目の水屋だ。
先ほどの権七水屋と違って、きれいに整備されてある。正面中央に祀られた神棚が神々しい。
水屋の名前には「牛」がつくけど、水が出るところは「魚」。これは鯉かな?
昔懐かしいシェードの照明と防火バケツ。
観光客にもわかりやすく、水屋の使い方が説明されてあった。
水屋のベンチに座っていたお婆さん。少し話をしたんだけど、私が写真を撮り始めると、お婆さんは「よっこらしょ」と立ち上がって、静かに坂を下りて行った。
牛ヶ口水屋の裏は、赤ちょうちんの飲み屋と墓地。娑婆の縮図を見るかのよう。
私も坂道を下りて、3つ目の水屋を目指すことにしよう。
昭和チックな看板が目を引く。
看板の左に表示されていた「スナックくろゆり」はここ。
昼間は目立たぬ蕾のような店だけど、夜にはきれいな花を開かせるのだろうか。
大通りから横へとのびる不思議な路地。通路の奥にはマチュピチュ階段のような石段があった。
更に進んでいくと、ちょっと変わった交差点に出てきた。
こちらが、神岡名物『幸せの六叉路』。
実際、地図にそう書いてあり、「えっ?それって一体どうなっているの⁉」と気になったので、ちょっと寄ってみた。
ちなみに上の写真の右側の道は、私が今歩いてきた大津通り。写真を撮っている私の左右背後に、残りの道が4本ある。全部で6本の道が交差する所。
なんとも不思議なスポット。ここに立った私、幸せになれるかしら?
幸せの六叉路を通り抜けて、更に進む。
この橋は千歳橋。
千歳橋を渡った先は、かつて花街だった所だ。
神岡の花街は明治40年頃から始まり、神岡鉱山の繁栄と共に大いに賑わったという。
橋を渡って右に曲がり、山田川沿いの道を歩く。
右手に流れるのは山田川。この先、高原川と合流する。
この建物は「神和荘」といい、神岡鉱山の迎賓館だったところ。
神和荘の辺りから、千歳橋の方を眺める。川沿いに桜並木が続いていた。春になったらここで夜桜を見てみたい。さぞ美しいことだろう。
さて、この辺りで、また地図を取り出した。次の目的地の位置と方向を確認する。
3つ目の水屋は、確かこの辺りだよね。左に曲がってみよう。
この道の先に、次に目指す水屋があるはずなんだけど…。
あっ!あれかな??
見つけた!これが「柳川水屋」。
水屋の入口には「岐阜県名水五十選」の碑が立っていた。
碑に記されてある『船津大洞湧水群』とは何だろう?
気になったので、ちょっと調べてみたところ、神岡町内の大洞山から湧水を誘導し町内の各地へと導水したものの総称だとわかった。「船津」とは、私が今回お散歩したこの地域の地名。
今まで回ってきた水屋はもちろん、各家庭に引かれた湧水も町中にはたくさんあるらしい。それらを全てひっくるめて『船津大洞湧水群』と呼んでいるそうな。
中に入ると、こんな感じ。この水屋の水舟は二層式だった。水が滔々と流れ出ている。
この地域の湧水の水道は『大洞水道』と呼ばれているらしい。一般的な上水道とは別のもの。
ちなみに、この看板に名が記されている「神岡町名誉町民 荒垣秀雄」さん。はて、どういう御方なのだろう?と調べてみたら、とても有名な方だった。
飛騨市神岡町出身のジャーナリスト・評論家で、昭和時代に朝日新聞の天声人語を長く担当し、1956年には第4回菊池寛賞を受賞されている。
神岡の偉人である荒垣さんは、生まれ故郷のこの美しい湧水を、終生愛していらっしゃったようである。
水屋に祀られてある神棚。
時代を越えて、世代を超えて、多くの人々に愛されてきた水屋と湧水。
この地の豊富な清水は、神岡の人々の暮らしと心をいつも潤わせてきたのだ。枯れることなく今も湧き出る水は、まさに愛そのものだなぁ…と思った。
昭和の雰囲気が残る町並みを歩く。
この辺りは、花街時代の面影を残す建物が、今もあちこちに残っている。
旧深山邸。待合茶屋だった建物。
昔、この通りを、着物姿の町衆がたくさん往来したのだろうか。
美しい格子窓。
建物の2階。粋な造りの窓手摺。
和風の家が続くのかと思うと、洋風のハイカラな建物もあった。
こちらは昭和8年に建てられたという写真館。東京のオリエンタルスタジオをモデルにしているのだそう。今も記念撮影ができるらしい。
古い醤油屋さんを発見。看板が華やかで美しい。
月見橋から、山田川の下流を眺める。
この町を歩いていると、ここに住む人々の息づかいを感じる。
丁寧に暮らしてきた人々の佇まいが、この町の雰囲気を作り上げているんだなぁ…と、しみじみ思う。
三叉路に建てられた米穀のお店。
この店舗の屋根についている道案内は、初めて神岡を訪れる者にはとてもありがたい存在だ。
神岡米穀の建物の横に設置されてある消火ホース。この手作り感が、何ともいい味を醸し出している。
歩いていたら、各家庭にも引かれているという湧水を見つけた。清水が勢いよく溢れ出ていた。
こちらは商店の前にある湧水。
水が美味しい所は、和菓子が美味しい。こちらは地元で有名な老舗の和菓子屋・金木戸屋さん。名物は「笹巻羊羹」。高山にもファンが多い。
せっかく金木戸屋さんの前を通りかかったのだから、もちろん入店。
今回の神岡散歩のお土産に、「笹巻羊羹」と「栗よせ」を購入した。栗よせは、今の季節(秋)にしか食べられない飛騨地方の銘菓。
和菓子が入った紙袋を手にぶら下げ、テクテク歩く。
バス停のベンチの横にあったポンプ。一押しで水がたくさん出そう。
西里橋に到着。この橋の下を流れるのは高原川。
この橋を渡れば、私は神岡の市街地をぐるり一周してきたことになる。
西里橋から川上を眺めると、赤い橋が見えてきた。あれは、マチュピチュ階段を探す時に渡った橋・藤波橋だ。
更に川下を眺めると、遠くに神岡鉱山と神岡鉱業の建物が見える。
ん?橋の欄干にあるのは、ウクライナの国旗?
橋に取り付けられた案内標識にある『宙(スカイ)ドーム・神岡』とは、「道の駅」のこと。
この道の駅には、東京大学が監修した科学館「カミオカラボ」が併設されており、スーパーカミオカンデやノーベル物理学賞を受賞した研究内容について、詳しく学ぶことができる。
今回の散歩では行かなかったけど、宇宙物理学に関心がある人におススメのスポットだ。
さて、この橋を渡って真っすぐ進めば、出発地点の神岡振興事務所に到着する。
この散歩も、いよいよ終わりに近づいてきた。
坂道を登り、神岡振興事務所に辿り着いた。山の頂に見えるのは神岡城。
何度も道に迷ったけど、楽しい散歩だった。
次にまた神岡を訪れる時は、あのお城に登ってみよう。今度は、天守閣から神岡の町を見下ろしてみたいなぁ。どんな風景が見えるのだろうか。
飛騨神岡といえば「鉱山」と「宇宙」の印象が強くて、どちらかといえば理系のイメージだったんだけど、今回実際に歩いてみて、実は意外と、情緒豊かで旅情あふれる文化的な町でもあったんだなぁ…と思った。
そう、どこか懐かしくて温かい。
あの清らかな水の流れのように、とうとうと豊かに、ゆったりと。
ここはかつては「東洋一の亜鉛の山」として名を馳せた、日本屈指の鉱山の町であった。
ここで少し神岡鉱山の歴史についてご説明したい。
今から約2億5千万年前にできた「飛騨片麻岩」という岩石。神岡鉱山がある一帯は、この岩石によって構成されている。そして、この岩石の中に多くの鉱物が豊富に含まれていたことから、神岡の数奇な歴史が始まる。
奈良時代に、この地で採れた黄金を朝廷に献上したという口承が今に残っているが、本格的に採掘が始まったのは安土桃山時代である。
秀吉の命によって飛騨国を治めた金森家が、この地の鉱山の開発を試みて、鉱脈を発見。金や銀が採掘された。
その後、飛騨国が江戸幕府の天領となると、鉱山は幕府直轄の鉱山(御手山)となり、銅や鉛などが採掘される。
時代は幕末から明治へ。
明治時代に入ると、神岡鉱山は三井財閥によって買い取られる。三井組の進出によって、近代的な西洋式の工法が導入されて、神岡鉱山は日本有数の亜鉛の産地として発展した。また、太平洋戦争後は日本の経済復興を陰で支え続けた。
しかし、時代の流れと共に鉱山はその役目を終えて、2001年に採掘を休止。
現在は、三井金属系の神岡鉱業が鉱山跡を管理し、金属のリサイクル精錬や車の排ガス浄化用触媒の製造などを行っている。
一時期は人口が2万人を超えるほど大いに賑わった神岡も、人が減り、静かな町と変わっていった。
(現在の神岡鉱山。遠くに見える煙突は神岡鉱業もの)
ところが…である。昭和の終わりに、意外なところから新しい道が切り拓かれた。
なんと、1983年、鉱山跡の地下1000mに、東京大学宇宙線研究所の観測施設「カミオカンデ」が建造されたのだ。更に1996年には新たに「スーパーカミオカンデ」が完成し、運営をスタート。
この施設で「素粒子ニュートリノ」の研究が行われるようになり、2002年には小柴昌俊先生が、続いて2015年には梶田隆章先生が、それぞれノーベル物理学賞を受賞した。
(神岡町内の商店のガラス戸に貼ってあったチラシ)
神岡の町は、平成に入り「ノーベル賞の町」として再び脚光を浴びたのである。
たまたま、この地が「飛騨片麻岩」という固い岩盤でできていること、清浄で美しい水が豊富であること、鉱山採掘の高い技術を有している等の理由から、ニュートリノの研究地として白羽の矢が当たったのだけど、今や世界最先端の宇宙線研究施設として世界的にも有名である。
「鉱山の町」から「宇宙物理学の町」へ。そんな飛騨神岡の市街地を歩いてみた。
神岡の気になるもの2つが、今回の散歩のテーマ
今回はノーベル賞の町を歩くので、テーマを決めて町を探索してみようと思いついた。そこで事前に入手した神岡町の散策マップを開いて、気になるスポットをチェックしてみた。
何か面白そうなものはないかな?
おっ!
ほぉ~水屋!神岡には水屋があるのか。
「水屋」とは、水量が豊富で水が美しいところに設置されている共同の水場である。
同じ岐阜県内だと郡上八幡や大垣市が有名だけど、神岡にも水屋があるとは…。これにはちょっと驚いた。水屋、是非見てみたい。
更に、横を見ると、こんなものを発見。
えっ?マチュピチュ階段?!なんだこれ?
いつか行ってみたい秘境の一つに『南米ペルーのマチュ・ピチュ遺跡』があるんだけど、神岡にもマチュピチュがあるのか!?これは灯台下暗しだったわ。
こんなものを見つけてしまったら最後、実際に現地に行き、自分の目で確かめてみたいと強く思ってしまうではないか。
…ということで、テーマ決定!「水屋」と「マチュピチュ」。この2つを現地調査してみよう。
こうして秋晴れの10月、とある日曜日。
私はこの地図をバッグに忍ばせ、飛騨神岡へと向かったのだった。
神岡の町を歩く
神岡町には昔、神岡鉄道が走っていたが、廃線となったため、現在は神岡へ行くには自家用車もしくは公共バスを使うしかない。そこで、私はマイカーで神岡に向かうことにした。高山市内の自宅を出発して飛騨市に入り、山の中の峠道を越えて、無事に神岡町に到着した。
とりあえず神岡振興事務所(飛騨市役所の支所)へ行き、駐車場に車を停めて、町内をぐるりと歩いてみることにした。
神岡振興事務所の駐車場に到着。
神岡に降り立つと、とってもいいお天気だった。
飛騨地方の秋は、一日の寒暖差が非常に大きい。朝は超寒くて、気温は一桁台。あまりに寒くてヒート系の肌着を着ていたんだけど、そのままうっかり神岡へと出かけてしまった。
この着込み方で日中24℃はちょっとキツイ。汗が出てくる。
出発前に、建物内の自販機で、冷たいお茶を購入した。
振興事務所前の街路樹。紅葉が始まっていた。
さて、ここを起点に、さっそく歩いてみよう。
神岡振興事務所を出て右に曲がって、坂道をまっすぐ下る。
歩道の途中で、手作りの看板を見つける。山菜の缶詰はわかるけど、水菜の缶詰ってどんなものなんだろう?
真っすぐ進んだら高原川に出てきた。高原川は、北アルプスを源流に神岡へと流れ込む清流である。
ここで左折して、高原川の上流へと進んでみる。
誰もいない道。何も通らない道路。歩行者は私だけ。
『焼肉けやき』の看板が目に入った。ひときわ目立つ看板。どうして店名が『けやき』なんだろう?と思ったら、大きなけやきの木の横に店があった。なるほど。
更に歩くと、こんなものを発見。
道案内なんだけど、この標識柱の上部に鉱物が収められている。何だろう?
この石、「魚岩石」というのか。ふむふむ…。
この角度から覗くと、中がよく見えた。石の粒々は確かに魚の目みたいだな。
消防団の車庫のシャッター。葛飾北斎・富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」だ!かっこいい〜。
自然の風景にしっくり溶け込む赤い橋。「藤波橋」に辿り着いた。
通行人も車も野良猫も、何一つ見かけない静かな橋だけど、一応安全のため歩道を歩く。
藤波橋から高原川の下流を眺める。水が澄んで美しい。。
上流側では、紅葉が始まっていた。なんと風光明媚な景色。
…と、ここで自分が迷子になりかかっていることに気づいた。あわててバッグをまさぐる。
地図を手に取り、開いて道を確認。
実は今まで神岡に来ることはあっても、車でスーと通り抜けるだけだったから、神岡の町を実際に散策するのは今回が初めて。そのため土地勘が全然ない。
右も左も東西南北も、サッパリわからないから、この地図が本当に頼りだ。これが無かったら路頭に迷うところだったよ。
目指すスポットの道順をチェックする。
橋を渡り切ったところで「こっちかな?」と左に進んでみた。
またまた鉱物付きの標識柱を発見。
藤棚の下を歩く。シーズンオフの藤棚って、こんな感じなのね。モロッコいんげんみたいなのが、いっぱいぶら下がっていてビックリ。
高原川の方を見ると、川沿いの家の軒下が、新幹線の高架下みたいになっていてビックリ。
どんどん進んでみるけど、あれ?だんだん道が細くなっている。本当にこの道でいいのかしら?
「何か変だぞ」と心配になり、もう一度地図を開いて確認してみたら、どうも、やっぱり道を間違えてしまったみたい。
ここから先は「藤波八丁」という名の遊歩道らしい。渓谷沿いの景勝地みたいだけど、次の散策用にとっておこう。
もう一度、藤波橋に戻って、出直すことにした。
藤波橋の前に立つ。さっきは左に折れたけど、今度は真っすぐ進む。この細い石畳みの坂は神坂(かんざか)。
マンホールの蓋がかわいい。
かなり急な坂道で、早くもバテ気味の私。
道沿いの家々を見ると、年季の入った古い建物が多い。
ご隠居さんがよく座っていそうなベンチ。
小さなお庭。
首にタオルを巻いたオジサンみたい。
ここは、なんだか昭和で時間がピタリと止まってしまったような所だなぁ。
しかし…。
地図を片手にキョロキョロしながら歩いているんだけど、全然見えてこないぞ「マチュピチュ階段」。
そう、実は私、「神岡のマチュピチュ」を探しているのだ。
なのに、それらしき物が全く見当たらなくて、気が付いたら道の突き当りの神社に来てしまった。
またもや道に迷ってしまったようである。恐るべし、魔町・神岡。
怪しく消えてしまった地区名。一体ここはどこ?
仕方がないので、また戻ることにした。
辻に祀られてあった地蔵様に、そっと手を合わせる。「どうかマチュピチュに辿り着けますように…南無」
お地蔵様のご加護を念じつつ、元来た道をとぼとぼ歩いていたら、気になる看板を見つけた。
そういえば、地図に『朝浦公民館横にある通称マチュピチュ階段』と説明書きがあったぞ。もしかして、これだろうか?
ちょっと行ってみよう。
細道を進んでいくと、奥に朝浦公民館の建物があるのを発見した。この公民館、かなりディープな雰囲気を漂わせている。
ドキドキしながら、公民館の玄関前に立つと、その横に見えてきたのは…。
おぉ!これだーーー!マチュピチュ階段!
やっとこさ発見!(お地蔵様ありがとう…泣)
本家本元のマチュ・ピチュ遺跡を発見したアメリカの探検家ハイラム・ビンガムも、今の私と同じ気持ちだったのだろうか。
太陽の光が燦燦と差し込む神聖な階段を、一段ずつ登ってみた。
マチュピチュ階段の最上階から眺めた神岡の町並み。青い空と太陽の光。眺めが良くて明るい所だった。
本家本元のマチュピチュのように、毎日、太陽神を拝められそうだわ。
ちなみに、この階段を上がりきった所にはお墓があり、お墓の前の細い道をさらに進むと、高台の空き地になっていた。
雑草が生い茂るその空き地には、奥に家が一軒だけポツンと建っている。人の気配は全く感じられない。空き家らしい。
もう一度、マチュピチュ階段へと戻る。
公民館からこの階段へと続くこの細い路地一帯は、おそらく飛騨地方で『筋骨(きんこつ)』と呼ばれている道ではないか…と私は推測した。
筋骨とは、世間一般で広く『赤道(あかみち)』と呼ばれる昔の古い通り道のことである。
車なんて無かった遠い昔、市井の人々は、こんな人一人がやっと通れる細い道でも充分に生活が成り立っていたのだ。
神岡が「鉱山の町」として栄えた頃の、古き良き時代の空気に、少しだけ触れた気がした。
さて、階段を下りよう。
しかし、いざ下りようとすると手すりがない。細くて狭くて急な階段なので、ちょっぴり怖かった。へっぴり腰でソロソロと下りた。
水屋を巡る
神坂をまっすぐ下り、また藤波橋に出てきた。周りの木々の緑と相まって、色鮮やかできれいな橋だなぁ…と思う。
橋を渡って、四つ角を直進する。
さて、これから向かうのは「権七水屋」。
地図を見ると、マチュピチュ階段から最も近い場所にあるらしい。まずは、ここから攻めてみることにした。
この道を真っすぐ進むと、左手に見えてくるはずなんだけど…。
あれ?スナックまどか?
えっ?船津尋常高等小学校?
立派な石碑だけど、碑の「ここに船津尋常高等小学校が在った」って文面、ちょっと斬新すぎないか。
…と、そのまま進んでいたら、車(マイカー)を駐車している神岡振興事務所に戻ってしまった。
また、道に迷ってしまったよ。恐るべし飛騨神岡。
再度、地図を開いて確認し、もと来た道をキョロキョロしながら歩く。
ある地点に差し掛かった時、私の直感がピンと働いた。
「あっ!ここ、もしかして…!」
水曜スペシャルの川口浩探検隊のようなテンションで、思わず駆け出す。
路地をまっすぐ進むと、目の前に、水を溜めた水槽のようなものが見えてきた。
これだ!これが水屋だ。辿り着いた!
こちらが「権七水屋」でございます。
かなり古そうだな。歴史を感じる。
ちなみに「水屋」とは、共同の水場である。まだ水道水が無かった時代、水が豊富に湧き出る地域では共同の水屋を作り、町ぐるみで管理して日々の暮らしに利用してきた。
水屋内には、「水舟」と呼ばれる二層または三層の水槽があり、上流の第一層は飲用水として、第二層は野菜や果物を洗ったり冷やすことに、一番下流の第三層は食器を洗うのに使われている。
権七水屋に祀られていた神棚。
さんざん迷ってようやく見つけた権七水屋。無事に辿り着けて良かった。
感慨無量で外に出てみる。
振り返って改めて見てみると、この水屋、暗くて全然目立たない。
こりゃあ簡単に見つけられなくて当然だわ…と思った。
水屋の中を突っ切って、反対側の道へ出てみると、『焼肉けやき』の前に出てきた。
この看板、さっきも見たよ。迷路のような町・飛騨神岡。
次の水屋を目指して、私はまた歩き始めた。
神岡の街中を歩いて、一つ発見したことがある。
それは、路肩の側溝からゴウゴウと大きな音が聞こえてくることだ。
何処を歩いていても必ず聞こえてくる。これは水が流れる音だ。
かなりの水量のようで、足元から勢いのある水音が響き渡っている。神岡ビギナーの私は、その音の大きさと迫力にちょっとビビッてしまう。
神岡は昔から水が豊富だそうだけど、足元から響くこの水音を聴けば大いに納得。
春の雪解け水が、山から滝のように勢いよく流れ落ちる時の、あの轟音に似ている。
タバコ屋の横に立っている外灯が、宇宙っぽくて面白い。
街角に突然現れた根尾くんコーナー。飛騨市は、中日ドラゴンズの根尾昴選手の故郷だ。根尾くんの活躍を神岡の達磨様が見守ってくれている。
公園にあったカッコいい三角コーン。
昔ながらの路地。こうした細道を神岡ではよく見かける。
よし、こっちに行ってみよう。
塀に埋め込まれた消火栓。
ここは大津通りというらしい。でも、全然商店街っぽくない。不思議な大通り。
車庫の奥に、異次元のような不思議な路地が続く。
昔は商店だったのだろうか。二階のガラス窓の枠がレトロな雰囲気で素敵。
さて、そろそろ次の水屋が見えてくる頃なんだけど…。
「確かこの辺りだよね」と、地図を見ながらキョロキョロ探していたら、左手の坂道の先に、それらしき建物を見つけた。
坂道を登り、ベンチに座っているお婆さんに尋ねて確認したところ、ここが目指していた水屋だった。お婆さんにご了承いただき、写真を撮らせていただいた。
こちらが「牛ヶ口水屋」。本日2つ目の水屋だ。
先ほどの権七水屋と違って、きれいに整備されてある。正面中央に祀られた神棚が神々しい。
水屋の名前には「牛」がつくけど、水が出るところは「魚」。これは鯉かな?
昔懐かしいシェードの照明と防火バケツ。
観光客にもわかりやすく、水屋の使い方が説明されてあった。
水屋のベンチに座っていたお婆さん。少し話をしたんだけど、私が写真を撮り始めると、お婆さんは「よっこらしょ」と立ち上がって、静かに坂を下りて行った。
牛ヶ口水屋の裏は、赤ちょうちんの飲み屋と墓地。娑婆の縮図を見るかのよう。
私も坂道を下りて、3つ目の水屋を目指すことにしよう。
昭和チックな看板が目を引く。
看板の左に表示されていた「スナックくろゆり」はここ。
昼間は目立たぬ蕾のような店だけど、夜にはきれいな花を開かせるのだろうか。
大通りから横へとのびる不思議な路地。通路の奥にはマチュピチュ階段のような石段があった。
更に進んでいくと、ちょっと変わった交差点に出てきた。
こちらが、神岡名物『幸せの六叉路』。
実際、地図にそう書いてあり、「えっ?それって一体どうなっているの⁉」と気になったので、ちょっと寄ってみた。
ちなみに上の写真の右側の道は、私が今歩いてきた大津通り。写真を撮っている私の左右背後に、残りの道が4本ある。全部で6本の道が交差する所。
なんとも不思議なスポット。ここに立った私、幸せになれるかしら?
幸せの六叉路を通り抜けて、更に進む。
この橋は千歳橋。
千歳橋を渡った先は、かつて花街だった所だ。
神岡の花街は明治40年頃から始まり、神岡鉱山の繁栄と共に大いに賑わったという。
橋を渡って右に曲がり、山田川沿いの道を歩く。
右手に流れるのは山田川。この先、高原川と合流する。
この建物は「神和荘」といい、神岡鉱山の迎賓館だったところ。
神和荘の辺りから、千歳橋の方を眺める。川沿いに桜並木が続いていた。春になったらここで夜桜を見てみたい。さぞ美しいことだろう。
さて、この辺りで、また地図を取り出した。次の目的地の位置と方向を確認する。
3つ目の水屋は、確かこの辺りだよね。左に曲がってみよう。
この道の先に、次に目指す水屋があるはずなんだけど…。
あっ!あれかな??
見つけた!これが「柳川水屋」。
水屋の入口には「岐阜県名水五十選」の碑が立っていた。
碑に記されてある『船津大洞湧水群』とは何だろう?
気になったので、ちょっと調べてみたところ、神岡町内の大洞山から湧水を誘導し町内の各地へと導水したものの総称だとわかった。「船津」とは、私が今回お散歩したこの地域の地名。
今まで回ってきた水屋はもちろん、各家庭に引かれた湧水も町中にはたくさんあるらしい。それらを全てひっくるめて『船津大洞湧水群』と呼んでいるそうな。
中に入ると、こんな感じ。この水屋の水舟は二層式だった。水が滔々と流れ出ている。
この地域の湧水の水道は『大洞水道』と呼ばれているらしい。一般的な上水道とは別のもの。
ちなみに、この看板に名が記されている「神岡町名誉町民 荒垣秀雄」さん。はて、どういう御方なのだろう?と調べてみたら、とても有名な方だった。
飛騨市神岡町出身のジャーナリスト・評論家で、昭和時代に朝日新聞の天声人語を長く担当し、1956年には第4回菊池寛賞を受賞されている。
神岡の偉人である荒垣さんは、生まれ故郷のこの美しい湧水を、終生愛していらっしゃったようである。
水屋に祀られてある神棚。
時代を越えて、世代を超えて、多くの人々に愛されてきた水屋と湧水。
この地の豊富な清水は、神岡の人々の暮らしと心をいつも潤わせてきたのだ。枯れることなく今も湧き出る水は、まさに愛そのものだなぁ…と思った。
神岡のまちなみ
さて、今回の散歩のテーマを全て探索できたので、そろそろ帰ろうかな。昭和の雰囲気が残る町並みを歩く。
この辺りは、花街時代の面影を残す建物が、今もあちこちに残っている。
旧深山邸。待合茶屋だった建物。
昔、この通りを、着物姿の町衆がたくさん往来したのだろうか。
美しい格子窓。
建物の2階。粋な造りの窓手摺。
和風の家が続くのかと思うと、洋風のハイカラな建物もあった。
こちらは昭和8年に建てられたという写真館。東京のオリエンタルスタジオをモデルにしているのだそう。今も記念撮影ができるらしい。
古い醤油屋さんを発見。看板が華やかで美しい。
月見橋から、山田川の下流を眺める。
この町を歩いていると、ここに住む人々の息づかいを感じる。
丁寧に暮らしてきた人々の佇まいが、この町の雰囲気を作り上げているんだなぁ…と、しみじみ思う。
三叉路に建てられた米穀のお店。
この店舗の屋根についている道案内は、初めて神岡を訪れる者にはとてもありがたい存在だ。
神岡米穀の建物の横に設置されてある消火ホース。この手作り感が、何ともいい味を醸し出している。
歩いていたら、各家庭にも引かれているという湧水を見つけた。清水が勢いよく溢れ出ていた。
こちらは商店の前にある湧水。
水が美味しい所は、和菓子が美味しい。こちらは地元で有名な老舗の和菓子屋・金木戸屋さん。名物は「笹巻羊羹」。高山にもファンが多い。
せっかく金木戸屋さんの前を通りかかったのだから、もちろん入店。
今回の神岡散歩のお土産に、「笹巻羊羹」と「栗よせ」を購入した。栗よせは、今の季節(秋)にしか食べられない飛騨地方の銘菓。
和菓子が入った紙袋を手にぶら下げ、テクテク歩く。
バス停のベンチの横にあったポンプ。一押しで水がたくさん出そう。
西里橋に到着。この橋の下を流れるのは高原川。
この橋を渡れば、私は神岡の市街地をぐるり一周してきたことになる。
西里橋から川上を眺めると、赤い橋が見えてきた。あれは、マチュピチュ階段を探す時に渡った橋・藤波橋だ。
更に川下を眺めると、遠くに神岡鉱山と神岡鉱業の建物が見える。
ん?橋の欄干にあるのは、ウクライナの国旗?
橋に取り付けられた案内標識にある『宙(スカイ)ドーム・神岡』とは、「道の駅」のこと。
この道の駅には、東京大学が監修した科学館「カミオカラボ」が併設されており、スーパーカミオカンデやノーベル物理学賞を受賞した研究内容について、詳しく学ぶことができる。
今回の散歩では行かなかったけど、宇宙物理学に関心がある人におススメのスポットだ。
さて、この橋を渡って真っすぐ進めば、出発地点の神岡振興事務所に到着する。
この散歩も、いよいよ終わりに近づいてきた。
坂道を登り、神岡振興事務所に辿り着いた。山の頂に見えるのは神岡城。
何度も道に迷ったけど、楽しい散歩だった。
次にまた神岡を訪れる時は、あのお城に登ってみよう。今度は、天守閣から神岡の町を見下ろしてみたいなぁ。どんな風景が見えるのだろうか。
飛騨神岡といえば「鉱山」と「宇宙」の印象が強くて、どちらかといえば理系のイメージだったんだけど、今回実際に歩いてみて、実は意外と、情緒豊かで旅情あふれる文化的な町でもあったんだなぁ…と思った。
そう、どこか懐かしくて温かい。
あの清らかな水の流れのように、とうとうと豊かに、ゆったりと。