鬼の正体を探るベく、京都と宮城を2日間歩いた
- 更新日: 2021/09/02
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最近、鬼という存在が気になっている。近年は鬼滅ブームだし、以前から桃太郎の鬼退治の話を読んだり、節分の豆まきをしたりで、今まで鬼という存在を薄々感じる機会はあったように思う。
日本各地の民話を読んでいると、鬼は多くの場合表向きには退治されるべき悪者として語られる一方で、場合によっては正義の味方になる時もある。節分の行事を調べてみると「鬼は外、福は内」が一般的だが、「鬼は内、福は内」があるばかりか「鬼も内、福は外」と言う場合もあるそうだ。これらの場合は大概、昔の城主の名前に鬼という文字が入っていたとか、鬼が人助けをしたとか色々な話を断片的に聞いたことがあるが、どうしても曖昧な印象から抜け出せない。さて、この両義的な鬼という存在をどのように考えれば良いものか。
そこでまずは、昔からたくさんの鬼が住んでいたと言われる鬼のメッカ・京都大江山に行って考えてみることにした。鬼もしくはその子孫に出会えるかな?と妄想を膨らませながら、夜行バスと電車を乗り継いで、大江駅に降り立った。
さすが大江駅、鬼感が前面に出ている。駅名の横には中世に源頼光が酒呑童子(鬼)を退治する場面の絵が描かれているようだ。駅の中には「鬼の金棒(かりんとう)」やら「鬼せんべい(鬼瓦の形)」やらが売っていて、まさに鬼の駅という感じだった。ここから大江山に向けてバスが出ているのだが1時間くらい待ち時間があるので駅周辺を散歩することにした。
駅前には鬼瓦がずらり、駅から出てきた僕を睨みでお出迎えしてくれた。
そのすぐ横の壁には色とりどりの大量の鬼の顔が貼られていた。昼間に眺める分には楽しいが、夜にじっくり眺めると怖いだろう。
よく見ると、鬼の角に帽子が被せられていた。「これは俺のお気に入り」ということで被せたのだろうか。この帽子は多分消防士のものだろう。
このように、鼻から草(鼻毛?)が生えているものもある。
よく見ると、鬼瓦が大量の小石を口に含んでいた。一見謎だが、もしかすると、鬼瓦が倒れないようにするための重しかもしれない。
足元にはなぜか大量の手形。小学生たちが作ってはめたらしい。これも夜に通るとかなり怖そうである。
たまに古代の象形文字みたいな謎の模様が足元のタイルにはめ込まれていることがある。
鬼が示す作業心得、多分作業とは鬼瓦制作の話だろう。
やはり、マンホールも鬼だった。
2051年に開封するタイムカプセルらしい。どんなメッセージが入っているんだろう。
KIWAMIっていうなかなか格好良い名前の店を見つけた。
「ベンチで休憩!」と思ったら、小さな鬼たちが通せんぼ。狛犬的な邪気払い的な感じだろうか。草ぼうぼうの花壇の隙間に鬼が等間隔で並べられているのがなかなかにシュールだ。
携帯で鬼という検索ワードでググっていたら、「げん鬼保育園」という謎の保育園が出てきたので行ってみることにした。
子供の鬼とかいるのかなと思っていたが、想定外に元気で明るい子供達がいそうな雰囲気が漂っていた。これがその保育園の駐車場。トレードマークはウサギだ。
元気な鬼たちの石像。
街灯をよくみると、鬼のイラストがついていた。
大江駅の2階で鬼瓦の展示をしていたので、見に行った。
宇宙人とかUFOみたいなものもあった。鬼瓦の多様性に驚いた。
バスが来たので、これに乗って、大江山の方面に行くことにした。バスといっても乗客は僕一人。ヒッチハイクで車に乗せてもらうような感覚だった。
バスに乗ること20分くらい。たどり着いたバス停を降りると、そこにあったは鬼の城!2つのトンガリコーンは鬼の角を模したということだろう。
(※ 鬼の城とは私がつけたあだ名であり、「日本の鬼の交流博物館」という施設のこと。日本全国や世界各地の鬼に関する展示が行われている。)
心臓がバクバクするが、鬼の城にお邪魔するとしよう。
入り口の門をくぐると、でた!恐ろしい鬼!人間の背丈を遥かに超える鬼の頭が地面から突き出している。
(この鬼瓦、日本全国の瓦職人に発注して貼り合わせたものらしい。少しガタガタなところがとても良い。)
鬼の城を取り囲む大量の鬼、鬼瓦たち。敵の侵入を防いでいるのかもしれない。忍び足で進もう。
***
鬼の城にお邪魔してわかったこと。
日本や世界には様々な鬼伝説があって、その中でもこの大江山の地域に伝えられているのは3つの鬼伝説。その中でもとりわけ有名なのが酒呑童子という鬼を源頼光が退治したというお話だ。酒呑童子は京都で人さらいなどをしていたことから、勅命により源頼光と武勇の高い四天王が退治に向かうことになった。山伏に変装し、酒呑童子の住処である大江山に潜り込んだ。そして、最後は鬼が飲むと毒になるお酒を飲ませて酔わせ、退治したというのだ。
さて、この酒呑童子の正体は一体、何者だったのだろうか?鬼伝説でよく言われるのは、朝廷に従わなかった地方の有力豪族との争いを物語化したということ。今回に関しては、酒呑童子をはじめとする鬼が鉱山師であり、地下資源を生かして鉄を作っていたのではという説もある。製鉄によって焼けただれた表情はまさに鬼のようであり、また河川の汚染の関係で下流との対立もあったのではないかとのこと。ただ、様々な説があり、真相は定かではない。
***
それから僕は鬼の城を後にして、山を奥へ奥へと上がっていった。道の視界が開け、青々とした木々の狭間に見えたのは、昔の鉱山の跡地だった。今は広々とした平らな敷地となっており、木が一つも生えていない。険しい山々に囲まれた中で、そこだけが異様な空気を帯び、現代を生きる僕に何かを語りかけてくるようだった。この近くにはなぜか野球場が作られ、「イカヅチ」という名前の野球チームが試合をしていた。異次元の土地利用には目を見張るものがある。大江山が鉱山の跡地であったことを知る人はそう多くはないだろう。
少し下流にいってみると、子供達が川遊びをしていた。川底には鬼たちが生きてきた歴史が堆積している。大昔は鉱山の排水によって濁っていたかもしれない。もしくは、製鉄に必要不可欠である貴重な水源であった可能性もある。鉱山なき今、遊びの場として生まれ変わったこの川は、歴史の流れをただひたすら受け入れるように、何事もなかったかのごとく絶えず下流へと水を送り続けていた。
***
新たな物語、転換点。
そういえば、鬼の城で知ったもう一つのこと。それは、酒呑童子を退治した源頼光に従った四天王の一人、渡辺綱のお話である。この人物は、京都の内裏などで警護を行う「滝口の武士」だった。ある日、京都で悪さをする鬼の右腕を奪ったが、逃げられてしまったという。その鬼を追ったがなかなか見つからず、とうとう宮城県村田町まできた。
鬼は渡辺綱が追ってきたことを知り、おばあさんに変身。民家の中で渡辺綱に会い「世間で有名な鬼の腕を見せてください」と迫って、油断した隙に右腕を取り返し、囲炉裏の自在鉤を登って煙出しから逃げ去った。その後、川を渡る時に滑って石に手形をつけてたが、そのまま逃げていった。渡辺綱は大変悔しがった。鬼と渡辺綱のその後はよくわかっていない。
***
京都大江山の鬼の城を訪れた3週間後、僕は宮城県にいた。
8時間電車に乗ってたどり着いたとある駅からバスに乗ろうと思っていたら、次のバスは3時間後とのこと。これでは夜になってしまうと思って、2時間(10km)の道のりを歩いて村田町というところへ向かった。渡辺綱と鬼のその後が知りたかった。
さくらっきーという名の河童だか鳥だかよくわからないハッピーそうな生き物に送り出され、長い道のりを歩いて行く勇気がもりもりと湧いてきた。
昼間から営業している縁起の良さそうな焼き鳥屋を横目に、若干の空腹を感じながら、歩いていく。
結界が張られているかのように、棒が乱立しているファミマの前を通過。何気ないもの一つ一つが、異界に繋がる入り口のように思えてくる。
錆びて歪んだ歩道柵を横目に、物の怪の気配を感じ、少し早足になる。やはりこの土地には何かが生きている。
広い草ぼうぼうの大地に、楕円を描くように何かが通り過ぎた跡が残されている。
妙に直立した木々は空の方向を指していた。
2枚も貼ってある。より注意喚起を促したいということだろう。
マンションの一室が封鎖。
さて、曇り空のどんよりとした空気の中、雨が降らないかと空の様子を伺いながらも、村田町にたどり着いた。まずは、「鬼のミイラ」が展示されているという村田町歴史みらい館という場所を訪れた。入館無料を推しているらしい。
鬼のミイラは木箱に入っており、首と腕だけが保管されていた。作り物なのか、本物なのか、学芸員の方にもよくわからないらしい。江戸時代ごろのもので、地域の商家の倉庫から突如掘り出し物として出てきたとのこと。この話と渡辺綱と鬼の物語との関連性はよくわかならいが、ひとまず時代が少しずれるようである。
村田歴史みらい館を後にした僕は、小高い山を道路に沿って登り始めた。村田町の中心部から徒歩50分ほどの場所に、鬼伝説で有名な村があるという。
後ろを振り返ると、村田町の全容が少しずつ姿を現し始めた。ここら辺は山に囲まれた盆地らしい。山を境界として古い文化圏がこの地に真空パックされているようにも思う。今回は鬼がメインなのであまりきちんと見て回れなかったが、古い蔵がたくさん残る地区もあるほか、民俗芸能もかなりの数が伝承されていると聞く。
ネギの山があった。近くには、トウモロコシの食べかけもあり和んだ。こういう何気ないものが道祖神のような石造物の祖形に思えてこないこともない。
ここがおとぎ苑という場所。この周辺一帯を姥ヶ懐と言い、渡辺綱が京都から鬼を追いかけてきたという伝説が伝わっている。おとぎ苑の敷地内にある民家では、渡辺綱と鬼が決闘をしたシーンの再現が人形を使って行われていた。京都で腕を奪われた鬼がそれを取り返したいと思い、おばあさんに変身。民家で渡辺綱と会って、油断した隙に腕を取り返し、囲炉裏の自在鉤を登って、煙出しから外へ逃げていくという流れだ。
最後に囲炉裏の自在鉤を登っていく時の鬼の激しい形相は圧巻であった。この地域では、渡辺綱が京都から宮城まで鬼を追ってきたのに、逆に腕を取り返されてしまった悔しさを思い、囲炉裏の自在鉤と煙出しをつけなくなったらしい。そして、なぜかこの地域には「渡辺」という姓を名乗る人が多いという。
おとぎ苑の民家の話の続きで、煙出しから逃げ出した鬼は、近くの川を渡ろうとした。その時、石に手をついたらそこに穴が空いたという。相当な巨体の持ち主だったのだろうか、その時の石も見せてもらった。しかし、その川を渡ったのち、渡辺綱と鬼はどうなってしまったのかよく分からないようだ。話は途切れておりその先の真相は定かではない。
近くに蕎麦屋があり、そこの方が鬼について詳しいらしいので、蕎麦を注文がてら聞いてみようと訪ねてみた。そしたら営業時間外だった。掃除しているスタッフがいたが、オーナーの方は不在のようだ。この鬼の話の続きはまた次の機会にじっくりと伺いたい。
それからまた50分歩き、村田町の中心部に戻ってきた。雨も少しずつ降ってきて、濡れながら歩いた。もっと時間を確保しておけば、鬼についてより詳しいことがわかったかもしれない。そう思いつつ、わからないということも醍醐味なのではないかと思えた。
姥ヶ懐という地域では節分の際に、「鬼は内、福は内」と言うそうだ。これは渡辺綱が民家の中で鬼を退治できれば良かったという話なのか、実は鬼は善者だったという話なのか、これもよくわからない。地域の方もこの由来を知らないらしい。ここに、善悪つけがたい鬼の両義性が潜んでいるように思えた。
空は分厚い雲に覆われ、辺りは暗闇に化けた。鬼という奥深い世界を前に、模索していく楽しさや恐ろしさを噛み締めながら、一面的に物事を判断することの危うさを感じた。鬼は善なのか悪なのか。似ているようで違う両極端な考えを反芻しながら、バスに乗って仙台駅へと帰路に着いた。
日本各地の民話を読んでいると、鬼は多くの場合表向きには退治されるべき悪者として語られる一方で、場合によっては正義の味方になる時もある。節分の行事を調べてみると「鬼は外、福は内」が一般的だが、「鬼は内、福は内」があるばかりか「鬼も内、福は外」と言う場合もあるそうだ。これらの場合は大概、昔の城主の名前に鬼という文字が入っていたとか、鬼が人助けをしたとか色々な話を断片的に聞いたことがあるが、どうしても曖昧な印象から抜け出せない。さて、この両義的な鬼という存在をどのように考えれば良いものか。
そこでまずは、昔からたくさんの鬼が住んでいたと言われる鬼のメッカ・京都大江山に行って考えてみることにした。鬼もしくはその子孫に出会えるかな?と妄想を膨らませながら、夜行バスと電車を乗り継いで、大江駅に降り立った。
さすが大江駅、鬼感が前面に出ている。駅名の横には中世に源頼光が酒呑童子(鬼)を退治する場面の絵が描かれているようだ。駅の中には「鬼の金棒(かりんとう)」やら「鬼せんべい(鬼瓦の形)」やらが売っていて、まさに鬼の駅という感じだった。ここから大江山に向けてバスが出ているのだが1時間くらい待ち時間があるので駅周辺を散歩することにした。
駅前には鬼瓦がずらり、駅から出てきた僕を睨みでお出迎えしてくれた。
そのすぐ横の壁には色とりどりの大量の鬼の顔が貼られていた。昼間に眺める分には楽しいが、夜にじっくり眺めると怖いだろう。
よく見ると、鬼の角に帽子が被せられていた。「これは俺のお気に入り」ということで被せたのだろうか。この帽子は多分消防士のものだろう。
このように、鼻から草(鼻毛?)が生えているものもある。
よく見ると、鬼瓦が大量の小石を口に含んでいた。一見謎だが、もしかすると、鬼瓦が倒れないようにするための重しかもしれない。
足元にはなぜか大量の手形。小学生たちが作ってはめたらしい。これも夜に通るとかなり怖そうである。
たまに古代の象形文字みたいな謎の模様が足元のタイルにはめ込まれていることがある。
鬼が示す作業心得、多分作業とは鬼瓦制作の話だろう。
やはり、マンホールも鬼だった。
2051年に開封するタイムカプセルらしい。どんなメッセージが入っているんだろう。
KIWAMIっていうなかなか格好良い名前の店を見つけた。
「ベンチで休憩!」と思ったら、小さな鬼たちが通せんぼ。狛犬的な邪気払い的な感じだろうか。草ぼうぼうの花壇の隙間に鬼が等間隔で並べられているのがなかなかにシュールだ。
携帯で鬼という検索ワードでググっていたら、「げん鬼保育園」という謎の保育園が出てきたので行ってみることにした。
子供の鬼とかいるのかなと思っていたが、想定外に元気で明るい子供達がいそうな雰囲気が漂っていた。これがその保育園の駐車場。トレードマークはウサギだ。
元気な鬼たちの石像。
街灯をよくみると、鬼のイラストがついていた。
大江駅の2階で鬼瓦の展示をしていたので、見に行った。
宇宙人とかUFOみたいなものもあった。鬼瓦の多様性に驚いた。
バスが来たので、これに乗って、大江山の方面に行くことにした。バスといっても乗客は僕一人。ヒッチハイクで車に乗せてもらうような感覚だった。
バスに乗ること20分くらい。たどり着いたバス停を降りると、そこにあったは鬼の城!2つのトンガリコーンは鬼の角を模したということだろう。
(※ 鬼の城とは私がつけたあだ名であり、「日本の鬼の交流博物館」という施設のこと。日本全国や世界各地の鬼に関する展示が行われている。)
心臓がバクバクするが、鬼の城にお邪魔するとしよう。
入り口の門をくぐると、でた!恐ろしい鬼!人間の背丈を遥かに超える鬼の頭が地面から突き出している。
(この鬼瓦、日本全国の瓦職人に発注して貼り合わせたものらしい。少しガタガタなところがとても良い。)
鬼の城を取り囲む大量の鬼、鬼瓦たち。敵の侵入を防いでいるのかもしれない。忍び足で進もう。
鬼の城にお邪魔してわかったこと。
日本や世界には様々な鬼伝説があって、その中でもこの大江山の地域に伝えられているのは3つの鬼伝説。その中でもとりわけ有名なのが酒呑童子という鬼を源頼光が退治したというお話だ。酒呑童子は京都で人さらいなどをしていたことから、勅命により源頼光と武勇の高い四天王が退治に向かうことになった。山伏に変装し、酒呑童子の住処である大江山に潜り込んだ。そして、最後は鬼が飲むと毒になるお酒を飲ませて酔わせ、退治したというのだ。
さて、この酒呑童子の正体は一体、何者だったのだろうか?鬼伝説でよく言われるのは、朝廷に従わなかった地方の有力豪族との争いを物語化したということ。今回に関しては、酒呑童子をはじめとする鬼が鉱山師であり、地下資源を生かして鉄を作っていたのではという説もある。製鉄によって焼けただれた表情はまさに鬼のようであり、また河川の汚染の関係で下流との対立もあったのではないかとのこと。ただ、様々な説があり、真相は定かではない。
それから僕は鬼の城を後にして、山を奥へ奥へと上がっていった。道の視界が開け、青々とした木々の狭間に見えたのは、昔の鉱山の跡地だった。今は広々とした平らな敷地となっており、木が一つも生えていない。険しい山々に囲まれた中で、そこだけが異様な空気を帯び、現代を生きる僕に何かを語りかけてくるようだった。この近くにはなぜか野球場が作られ、「イカヅチ」という名前の野球チームが試合をしていた。異次元の土地利用には目を見張るものがある。大江山が鉱山の跡地であったことを知る人はそう多くはないだろう。
少し下流にいってみると、子供達が川遊びをしていた。川底には鬼たちが生きてきた歴史が堆積している。大昔は鉱山の排水によって濁っていたかもしれない。もしくは、製鉄に必要不可欠である貴重な水源であった可能性もある。鉱山なき今、遊びの場として生まれ変わったこの川は、歴史の流れをただひたすら受け入れるように、何事もなかったかのごとく絶えず下流へと水を送り続けていた。
新たな物語、転換点。
そういえば、鬼の城で知ったもう一つのこと。それは、酒呑童子を退治した源頼光に従った四天王の一人、渡辺綱のお話である。この人物は、京都の内裏などで警護を行う「滝口の武士」だった。ある日、京都で悪さをする鬼の右腕を奪ったが、逃げられてしまったという。その鬼を追ったがなかなか見つからず、とうとう宮城県村田町まできた。
鬼は渡辺綱が追ってきたことを知り、おばあさんに変身。民家の中で渡辺綱に会い「世間で有名な鬼の腕を見せてください」と迫って、油断した隙に右腕を取り返し、囲炉裏の自在鉤を登って煙出しから逃げ去った。その後、川を渡る時に滑って石に手形をつけてたが、そのまま逃げていった。渡辺綱は大変悔しがった。鬼と渡辺綱のその後はよくわかっていない。
京都大江山の鬼の城を訪れた3週間後、僕は宮城県にいた。
8時間電車に乗ってたどり着いたとある駅からバスに乗ろうと思っていたら、次のバスは3時間後とのこと。これでは夜になってしまうと思って、2時間(10km)の道のりを歩いて村田町というところへ向かった。渡辺綱と鬼のその後が知りたかった。
さくらっきーという名の河童だか鳥だかよくわからないハッピーそうな生き物に送り出され、長い道のりを歩いて行く勇気がもりもりと湧いてきた。
昼間から営業している縁起の良さそうな焼き鳥屋を横目に、若干の空腹を感じながら、歩いていく。
結界が張られているかのように、棒が乱立しているファミマの前を通過。何気ないもの一つ一つが、異界に繋がる入り口のように思えてくる。
錆びて歪んだ歩道柵を横目に、物の怪の気配を感じ、少し早足になる。やはりこの土地には何かが生きている。
広い草ぼうぼうの大地に、楕円を描くように何かが通り過ぎた跡が残されている。
妙に直立した木々は空の方向を指していた。
2枚も貼ってある。より注意喚起を促したいということだろう。
マンションの一室が封鎖。
さて、曇り空のどんよりとした空気の中、雨が降らないかと空の様子を伺いながらも、村田町にたどり着いた。まずは、「鬼のミイラ」が展示されているという村田町歴史みらい館という場所を訪れた。入館無料を推しているらしい。
鬼のミイラは木箱に入っており、首と腕だけが保管されていた。作り物なのか、本物なのか、学芸員の方にもよくわからないらしい。江戸時代ごろのもので、地域の商家の倉庫から突如掘り出し物として出てきたとのこと。この話と渡辺綱と鬼の物語との関連性はよくわかならいが、ひとまず時代が少しずれるようである。
村田歴史みらい館を後にした僕は、小高い山を道路に沿って登り始めた。村田町の中心部から徒歩50分ほどの場所に、鬼伝説で有名な村があるという。
後ろを振り返ると、村田町の全容が少しずつ姿を現し始めた。ここら辺は山に囲まれた盆地らしい。山を境界として古い文化圏がこの地に真空パックされているようにも思う。今回は鬼がメインなのであまりきちんと見て回れなかったが、古い蔵がたくさん残る地区もあるほか、民俗芸能もかなりの数が伝承されていると聞く。
ネギの山があった。近くには、トウモロコシの食べかけもあり和んだ。こういう何気ないものが道祖神のような石造物の祖形に思えてこないこともない。
ここがおとぎ苑という場所。この周辺一帯を姥ヶ懐と言い、渡辺綱が京都から鬼を追いかけてきたという伝説が伝わっている。おとぎ苑の敷地内にある民家では、渡辺綱と鬼が決闘をしたシーンの再現が人形を使って行われていた。京都で腕を奪われた鬼がそれを取り返したいと思い、おばあさんに変身。民家で渡辺綱と会って、油断した隙に腕を取り返し、囲炉裏の自在鉤を登って、煙出しから外へ逃げていくという流れだ。
最後に囲炉裏の自在鉤を登っていく時の鬼の激しい形相は圧巻であった。この地域では、渡辺綱が京都から宮城まで鬼を追ってきたのに、逆に腕を取り返されてしまった悔しさを思い、囲炉裏の自在鉤と煙出しをつけなくなったらしい。そして、なぜかこの地域には「渡辺」という姓を名乗る人が多いという。
おとぎ苑の民家の話の続きで、煙出しから逃げ出した鬼は、近くの川を渡ろうとした。その時、石に手をついたらそこに穴が空いたという。相当な巨体の持ち主だったのだろうか、その時の石も見せてもらった。しかし、その川を渡ったのち、渡辺綱と鬼はどうなってしまったのかよく分からないようだ。話は途切れておりその先の真相は定かではない。
近くに蕎麦屋があり、そこの方が鬼について詳しいらしいので、蕎麦を注文がてら聞いてみようと訪ねてみた。そしたら営業時間外だった。掃除しているスタッフがいたが、オーナーの方は不在のようだ。この鬼の話の続きはまた次の機会にじっくりと伺いたい。
それからまた50分歩き、村田町の中心部に戻ってきた。雨も少しずつ降ってきて、濡れながら歩いた。もっと時間を確保しておけば、鬼についてより詳しいことがわかったかもしれない。そう思いつつ、わからないということも醍醐味なのではないかと思えた。
姥ヶ懐という地域では節分の際に、「鬼は内、福は内」と言うそうだ。これは渡辺綱が民家の中で鬼を退治できれば良かったという話なのか、実は鬼は善者だったという話なのか、これもよくわからない。地域の方もこの由来を知らないらしい。ここに、善悪つけがたい鬼の両義性が潜んでいるように思えた。
空は分厚い雲に覆われ、辺りは暗闇に化けた。鬼という奥深い世界を前に、模索していく楽しさや恐ろしさを噛み締めながら、一面的に物事を判断することの危うさを感じた。鬼は善なのか悪なのか。似ているようで違う両極端な考えを反芻しながら、バスに乗って仙台駅へと帰路に着いた。