TOKYO駅ナカアート散歩
- 更新日: 2022/08/18
多くの人々が足早に行き交う駅。足を止めてみると、アートの世界へ手招きしている者がいる。
田町駅での出会い
田町駅西口のエスカレーターに乗っていた時、壁に色鮮やかな何かがあるような気がした。田町駅西口は、森永やNECなどのオフィスビルが立地し、慶應義塾大学も徒歩圏内だ。老若男女問わず人通りがあるから、広告看板や液晶ディスプレイがあるのだろうか。でも、それとは違う質感の気もする。誘惑に負けて焦点を合わせてみると、それは、タイルや陶器でできた見事な壁画であった。僕にとって、普段あまり利用することのない田町駅。渋谷駅=ハチ公像のように、駅にまつわるオブジェはよくあるが、田町駅にもあるのか。是非とも立ち止まって鑑賞したい。しかし、エスカレーターを囲う壁が死角となり、正面から全体を捉えられない。美術館であれば、まずあり得ないような配置。色鮮やかで見事なのに、不遇に扱われている印象だ。想像ではあるが、先に作品があって、後からエスカレーターが設置されたのかもな。
エスカレーターの降り口と作品との間に、辛うじてひと一人が立てるスペース・・・というよりも足場のようなスペースがある。そこが最も作品に接近できる場所だろう。もしくは、エスカレーターに乗りながら数秒間のアクロバティックな鑑賞方法しかない。狭小な足場からの極端に斜め方向からの鑑賞を試みると、微細なタイルのグラデーションと立体的な陶器の質感を感じとれる。二人の登場人物と、奥には帆船だろうか。
『西郷南洲・勝海舟 会見の図』というのがこの作品名らしい。
・「西郷南洲」とは西郷隆盛のことである
・幕末の江戸城無血開城の会見が、現在の田町駅付近にて行われた
これらのことを初めて知った。どちらかというと歴史への関心があまり高くないので、歴史的事実を知ったことよりも、色鮮やかな作品が、駅の片隅にひっそりあることの方が印象的だった。
浅草線・五反田駅
仕事で、都営地下鉄浅草線をよく利用するが、たしか五反田駅にもタイルで出来た壁画があったような気がする。でも、記憶に自信がない。田町駅のタイル壁画の印象が残る中、記憶の不確かさに、少しモヤッとする。何の予定もない休日に、散歩がてら答え合わせに行ってみた。果たして、改札口の前にそれはあった。記憶よりも幾分地味な色合いだった。改札口というのは、一刻も早く電車に乗ったり、又は、改札を抜けて目的地へ急ぐ多数の人にとって、通過点に過ぎない。足を止めることなんてないだろう。自分もこの壁画を意識したことはあっただろうか。利用客の邪魔にならないよう注意しながら、写真を撮る。近寄って一枚。
一見すると地味な印象の壁画だが、緑や藍色の大きめのタイルが、釉薬で濃淡に着色されていている。また、大きめのタイルの周りを縁取るように、小さなタイルが流動的に配されている。結構繊細な作品であるようだ。
作品名や解説のプレートがあるのだろうかと周囲を見渡してみるが、それらしき物はない。キョロキョロしていると、窓口にいる駅員に怪しまれるかもしれない。最後に引いて、一枚撮影。なかなかレトロな作品に感じる。ウィキペディアで調べると、浅草線・五反田駅は昭和43年に開業している。この当時からあるのだろうか。
インターネットで『駅 パブリックアート』というワードで検索すると、『日本交通文化協会』というサイトにヒットする。ページを見てみると、駅などにあるアート作品が多数紹介されている。聞き馴染みのない団体だが、日本の駅をはじめとする、公共空間へのアート作品・・・すなわちパブリックアートを、1972年から設置している団体らしい。
田町駅の壁画もこの団体が設置したようで、1975年からあることが分かった。このような団体が、パブリックアートの普及の牽引役として存在しているとは知らなかった。パブリックアートというのは、鉄道会社や駅ビルの管理会社が個別に設置しているものかと思っていた。
設置当時の写真かどうかは分からないが、田町駅の壁画の前には、昔はエスカレーターはなく、ハッキリ見通せたことが分かった。
末広町駅
日本交通文化協会のサイトを見て、東京の駅ナカには多数のパブリックアートがあることを知った。鉄道は割と好きであるが、混雑が苦手で、駅構内に留まることがあまりないから、駅ナカのパブリックアートをじっくり鑑賞したことがないように思う。利用したことのある駅でも、存在に気付かず、素通りしているかもしれない。これを機に、気になるパブリックアートを巡ってみようと思う。まずは、東京メトロ銀座線に乗り、末広町駅で降りた。末広町駅は、秋葉原と御徒町の中間に位置する駅だ。駅周辺は、秋葉原の電気街の外れといった感じで、アメ横などの繁華街がある御徒町からも離れているし、今ひとつ、特色のない駅という感じがする。この駅にパブリックアートがあるとはちょっと信じがたい気がする。
銀座線は昭和初期に開通し、トンネルも電車も小ぶりに作られている。天井すれすれに、黄色い電車が入ってきて、リベットが特徴的な昭和初期の鉄骨とすれ違う。これこそ銀座線の雰囲気だと思う。お目当てのパブリックアートはどこにあるだろうかと、狭いホームをうろうろしていると、見覚えのあるレトロフューチャーな壁画があった。
記憶からすっかり抜けていたが、数年前まで末広町駅のホームは、これらの壁画で彩られていた。2017年から銀座線の大規模リニューアルが始まり、工事の仮囲いがあったり、天井裏がむき出しになったりと、銀座線のあらゆる箇所が工事されていた気がする。いつの間にか、その工事もひと段落していたのだ。今は電車も新しくなり、ホームドアも付いている。
リニューアルの際に、このトレンディーな壁画が取り払われてもおかしくなかったのだろう。けれども嬉しいことに、部分的ではあるが残されたのだろう。全盛期の電気街を知らないが、クールな製品が揃う、最先端の街だったのかも知れない。
思わぬ発見に、嬉しくなった。これも一種のパブリックアートなのかな。その辺りの境界が分からないが、この駅は小規模ながらも、見どころが多い駅であると思った。
さて、目的としていたパブリックアートを見ていくことにしよう。イルカらしき生物が、青い陶器でできた壁画をバックに、涼しげに泳いでいる。
イルカに目が行きがちであるが、陶器でできた背後の壁画を見てみよう。日本交通文化協会のページで、このような壁画の形態を、陶板レリーフと呼ぶことを予習した。
左側のレリーフは、突起や直線で構成された模様となっている。これはハイテク製品に必需品の、半導体をイメージしたものだろう。先ほど見た、80年代の香り漂う壁画には、エレクトロニクス・ライフをエンジョイする、若者の姿がキャッチーに描かれていた。しかし、2017年に設置された、こちらの陶板レリーフには、電気街の店先にも売られているハイテク製品を、ミクロな観点から象徴的に表現している。
物質的な豊かさを求めた時代を過ぎ、我々は新たな時代のただ中にいるのだろうか。
右側のレリーフには、お神輿が写実的に表現されている。陶器でこれほどまでに細かい表現が出来るのかと驚いてしまう。末広町駅は、秋葉原と御徒町に挟まれた、特色のない場所と書いてしまったが、認識を改めないといけないな。末広町駅は、神田祭や江戸総鎮守として有名な神田明神の最寄り駅の一つであった。江戸の文化と、ハイテクの文化(?)がちょうど交わる駅だったのだ。
新御徒町駅
この日は、末広町駅から上野方面の駅のパブリックアートを見て回った。やはり、このあたりは下町エリアなので、お神輿は題材になりやすいのだろうか。都営大江戸線・新御徒町駅の作品にもお神輿を発見。一見したところ、陶板と金属のパネルを組み合わせた、モダンなパッチワーク調の作品に見える。けれども金属パネルをよく見ると、お神輿が描かれていて、下町の文化を、地下空間にいながらにして、感じることができるようだ。
末広町駅、新御徒町駅の作品に共通する点は、街を象徴するような文化が反映されていることだ。とりわけ、地下鉄という乗り物は、景色が見えないだけに、目的地に着いたという実感が湧きづらい。地上を走る電車だと、降車して駅を出るまでに、ホームから見える景色や、外気の匂いなどで、街へ踏み出すイメージを、無意識に思い描いている気がする。両駅のパブリックアートは、そんな役目を果たしているのかもしれない。
上野御徒町駅
「御徒町」が付く駅は、何駅あるのだろう? その答えは4つらしいが、四御徒町を諳んじることができる人は、余程、御徒町という街に愛着があるか、もしくは地元の人だろう。四御徒町の2つ目は、都営大江戸線・上野御徒町駅。この駅には、4つの球体のオブジェが並んでいる。賢明な読者で勘付いた人がいるかもしれないが、これらの球が、4つの御徒町駅を示しているのでは?と思うだろう。答えは、Noだ。でも、単なる青い球ではないのだ。この球体にそっと寄ってみると、思いがけない発見があった。
1つ目の球体に近づいてみると、うっすらと風景らしきものが描かれており、文字も読める。「アメ横」とあり、これはアメヤ横丁の入り口にあるゲート看板ではないか。
もしや、と思い2つ目の球体に近づいてみる。これはやや難しかったが、上野公園の西郷隆盛の銅像だ。足を止めて近づかなければ、単に青い球体が並んでいるに過ぎない。まさか、こんな遊び心が仕込まれているとは気付かない。知る人ぞ知る秘密を知ったような、嬉しさがある。あえて、残り2つの答えは書かないが、上野にまつわるものだ。
それにしても上野御徒町という駅名ではあるが、パブリックアートに描かれているのは、上野と御徒町が半々ではなく、上野が100%であった。アメ横に関しては、上野〜御徒町にまたがるので、上野と御徒町の両方の要素があるかもしれないが、アメ横=上野というイメージの方が、一般には優勢ではなかろうか。
御徒町らしさとは一体何であろうか。「御徒町」が付く駅が4つもあるにも関わらず、求心力の大きい上野に飲み込まれているようにも感じる。御徒町が御徒町であるためのアイデンティティーは、一体何であろうか? もしかすると、問題提起しているのかもしれない。
京成上野駅
観る人を心地良くさせるものだけが、芸術ではないはずだ。しかし、パブリックアートは、好むと好まざるとに関わらず人々に見られるから、無難なデザインになりがちなのかもしれない・・・という思い込みは、京成上野駅に来れば吹き飛ぶだろう。
人通りの多い中央通りに面した入り口から、京成上野駅への階段を降りていくと、なにやらキモいのがいた。
正直言ってしまうと、この作品は良く分からなかった。
これを見た時に、巨大魚に飲み込まれつつある人間かと思ったのだが、この魚は鯉のぼりを表しているらしい。ますますもって分からない。
僕が子供の頃に話題になった「シーマン」というゲームのキャラクターをふと思い出した。
ちなみに、作者であるルイス・ニシザワ氏は、日系メキシコ人であり、メキシコでは有名な芸術家だそうだ。そういう情報を知ると、作品のバックに使われている瓦も、日本への郷愁なのかもしれない。解説のプレートが横にあり、そこにはこうある。
・制作年:1981年
・信楽の窯で作られた陶板が用いられている
和風の作品名、日本由来の素材にも関わらず、和とも洋とも、いかなるものにもカテゴライズされない、オリジナリティと奇抜さ溢れる作品になっている。一度見たら忘れられないだろう。
京成上野駅は特急スカイライナーで成田空港と結びついているため、海外からの渡航者が初めて降り立つ街が上野ということもあるだろう。そういった点でも、京成がこの作品を展示した勇気はすごいと思う。
先ほどは「キモい」という言葉を使ってしまったが、この作品だって、あと数十年や百年も時が経てば、なんら違和感なく世の中に調和しているかもしれない。優れた芸術作品というのは時代を先取りしている例は結構ある。
ルイ・フランセン氏
日本交通文化協会のページの、作品紹介を見ていると、あることに気付く。「ルイ・フランセンが作った作品、多くないか」と。
ルイ・フランセン氏をご存知だろうか? パブリックアートや陶板レリーフ、ステンドグラスに造詣が深い方ならご存知かもしれない。
冒頭で紹介した、田町駅の『西郷南洲・勝海舟 会見の図』の作者は、ルイ・フランセン氏なのである。また、新御徒町駅のお神輿の描かれた陶板レリーフも、同氏の作品だ。
東京にはルイ・フランセン氏が制作に携わった作品が多数存在する。なかでも、多くの人に観られている作品は、こちらではないだろうか?
人通りが絶えない、渋谷駅・ハチ公口にある壁画である。ハチ公像は待ち合わせスポットとしてあまりにメジャーなので、人々に取り囲まれているが、ハチ公像の目線の先には、この壁画があるという位置関係になっている。
ハチ公にも当然、両親がおり、兄弟もいた。それどころか、娘と息子までいたという伝承があり、この作品のモチーフとなっている。
ハチ公ファミリーたちは、信楽焼の陶板で作られているらしい
制作者の書かれたプレートを見ると、原画と造形とで作家が異なることが分かる。
こういった壁画は、原画家と造形家とがコラボして生まれることが多いようだ。キャンバスに描かれた二次元である原画を、ルイ・フランセン氏をはじめとるす造形家が、陶板やタイル、ガラスといった素材で置き換え、パブリックアートとしての息吹を吹き込む。
ルイ・フランセン氏は、残念ながら2010年に逝去されたようだが、調べてみるとなかなか面白い経歴を持った方だった。
ルイ・フランセン氏は、ベルギー生まれであり、カトリックの宣教師として来日したのが日本との縁である。
宣教師から芸術家への転身というキャリアが面白い。
宣教師として日本に赴任したものの、芸術の才能があったようで、教会の室内装飾の仕事も関わったらしい。
30代半ばで一旦帰国し、母国でステンドグラス・焼き物・壁画を本格的に学んだ。一方で、宣教師の活動も継続しており、39歳で二度目の来日を果たす。
二度目の来日では、東京の教会に赴任すると共に、東京芸大に聴講生として学び、後にステンドグラスを教える非常勤講師になるほど、芸術の才能を開花させている。
そんな中、日本交通文化協会の理事長との出会いがあり、日本のパブリックアートの普及という目標で意気投合したようだ。駅などの公共の場に、生涯で400以上の作品の制作に携わり、また、日本交通文化協会が立ち上げた工房の所長になったりと、アーティスト兼、日本のパブリックアートの指導的な立場として、活躍されたそうだ。
新橋駅にある横須賀線ホームへ降りる階段に、孔雀が描かれた巨大なステンドグラスがあるが、これもルイ・フランセン氏が関わった作品らしい。
監修とあることから、どこまで制作に関わったかは分からないが、ステンドグラスを学んだ知識が生かされているのだろう。階段の途中にあるので、立ち止まることが難しいが、孔雀の羽根が惚れ惚れする色彩だ。また、新橋は日本の鉄道の発祥の地であるから機関車と、明治の貴婦人らしき人たちが描かれている。
駅にあるパブリックアートは、じっくりと足を止めて鑑賞することが難しい場所にあることも多い。これは実に勿体無いことだと思いそうになるが、そうではないだろう。駅という通過点にすぎないところに、思いがけず作品が設置されているから、強く印象に残るという効果があるだろう。また、通勤通学で、毎日ここを通る人にとっては、何千、何万回も、それぞれの一回は数秒かもしれないし、あるいは視点を合わせていないかもしれないけれども、その積み重ねで多くの時間をこの作品との時間を共有している。生活の一部となることが、パブリックアートの本望なのかもしれない。
埼玉・大宮駅の、新幹線の待合室にある作品もとても良かった。
これは埼玉の秩父を流れる、長瀞川をモチーフとしている。作品解説のプレートには『原画の色分析をコンピュータでおこない、陶板は信楽で焼成された。』とある。制作は1983年であり、当時の最先端と、古来からある焼き物との融合が試みられている。
もしかしたら、陶板を一枚一枚を組み合わせる陶板レリーフは、ドットで絵や文字を表現するコンピューターと親和性が高いかもしれないな。
陶板の一枚一枚は、はっきりとした単色ではなく釉薬で不均一な色合いで、デジタルにはない味わいだ。この作品はデジタルとアナログの両方の良さが共存している。また、陶板の凹凸が印象的で、陰影のある川面を表現しているように感じる。
最新の駅ナカパブリックアート
いくつかの駅ナカパブリックアートを鑑賞してきたが、その多くは1970年代〜1980年代に作られたものが多いように思う。実際、ビルや建築物などへの、壁画をはじめとしたパブリックアートは、1950年代から1970年代に設置例が多いようだ。高度経済成長時代は、村野藤吾や丹下健三といった建築家が、自身の建築にモザイクタイルを設置することを好んだこと、また岡本太郎や北川民次といった、パブリックアートや壁画を得意とする芸術家もいたことなど、制作されやすい土壌があった。また、戦後になり、大理石などの壁画の素材となる物の流通が増えたことと、窯業の盛んな愛知県で、タイルが多く作られたことも追い風となった。
しかし、建築物への壁画ブームは、そう長くは続かなかったようだ。まず、建築の潮流に「メタボリズム」という考えが起こり、中銀カプセルタワービルのように、自由に膨張や更新が可能であるというコンセプトの建築が現れる。時代に呼応するように建築のユニットが更新されていくコンセプトであれば、壁画のような半永久的な設置を前提とするものとは、相性が悪い。また、オイルショックなども重なり、徐々にビルへの壁画の設置は減少していく。
一方で、駅のパブリックアートへ目を転じると、21世紀以降も制作されている。もちろん、バブル崩壊後は公共工事の削減もあり、設置例は昭和時代よりは減っているのかもしれないが。
2019年に完成した、小田急下北沢駅の陶板レリーフ作品を見に行った。
構図といい、昔のロマンスカーといい、登場人物の佇まいといい、半世紀以上前からやってきた世界観だ。
原画を手がけられた宮永岳彦氏は、宣伝用のポスターや、ロマンスカーのカラーリングを手がけられるなど、現在まで受け継がれる小田急のイメージを作った作家のようだ。
この陶板レリーフが制作された「クレアーレ」という工房は、前述のルイ・フランセン氏が所長を勤められた工房である。ルイ・フランセン氏のパブリックアートの精神が脈々と受け継がれて、これからも多数の作品が生まれていくのだろう。
普段利用している駅やビルなど、雑踏に流されそうになるが、たまには足を止めてみよう。駅という空間を、単なる日常の通過点として足早に去ってしまうのは勿体無い。もしかすると、思いがけないアートの世界が我々を呼んでいるかもしれない。
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参考:
石黒知子・服部文孝, 「壮観! ナゴヤ・モザイク壁画時代」,『陶説』, 2021年11月号, p.60-65, 公益社団法人 日本陶磁協会
喜井豊治, 「講演会 「パブリックアートとしてのモザイク壁画」」, 『タイルの本』, 92号(2015年8月), p.34-39, タイルの本編集室
「造形作家 ルイ・フランセンさんを偲んで」, 『タイルの本』, 34号(2010年10月), p.4-9, タイルの本編集室