いつか生まれる海について

  • 更新日: 2020/11/10

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曇天の由比ヶ浜は少しだけ寂しい

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海はおよそ四十三億年前に発生し、地球上の全ての生命の源はそこから生まれた。
人類の祖先も海から生まれ、その証拠に人間の身体を構成する主な元素は海水と非常に似ているそうだ。胎内の羊水に至ってはほとんど海水と同じであるという。
それを本かなにかで知った時、体の中に海があるのかと不思議な気持ちになった。三年前のことを思い出した。



よく晴れた青空の広がる美しい冬の日にその報せはあった。

数ヶ月前に入籍した姉が子供を産むという。
予定日は翌年の六月で、生まれるのは女の子だそうだ。突然の報告だったのでひどく驚いた。あの姉が母になる。それに伴い自動的に私も叔母になる。青天の霹靂だった。



義兄が送ってくれる写真に映る姉のお腹は徐々に大きくなり、日を追うごとにまとう空気が母親たるものになっていくように見えた。我が家のアウトローだったお姉ちゃん。
姉は里帰り出産を希望していて、姪は私が生まれたのと同じ産院で生まれるという。

当時の私は子供という生き物が嫌いで、正直なところ生まれてくる姪のことを愛せる自信はなかった。
可愛いと思えなかったらどうすればいいか、愛せなかったらどうすればいいか、どう誤魔化すか…。ずっとそういうことばかり考えていた。

迎えた六月。初めて会った姪はとても小さくて首も座っていなくて、おそるおそる抱っこさせてもらうと甘い匂いがして温かかった。

ベビーベッドに寝ている姪のてのひらをそっとつつくと思いのほか強い力で握られてびっくりした。いまここにあるはずのない海の匂いがした。





先月末にもふらりとひとりで由比ヶ浜へ行った。
その日はとても暗くて悲しい気持ちだった。暗くて悲しいというよりは絶望という表現がいちばん近いかもしれない。

死んでしまいたいとまでは言わないが存在ごと消滅したいと思った。私なんか最初からいなかったことになればどれほどいいだろうと思いながら砂を踏み締めていた。





曇天の由比ヶ浜は思ったよりも肌寒く風が強い。規則的な波の音を聴きながらひたすら歩く。

姉は結婚して子供を産んで育て、母になることで自分自身も成長しているように見える。
周りの人たちもそうだ。みんな結婚したりお母さんになったり仕事を頑張ったり、それぞれがそれぞれのやり方でしっかりと自分の道を歩いていっている。
そして横に並んでいたはずの人たちはあっという間に遠ざかっていく。私はいつも誰かの背中を見ている。

何をどうしたってこの劣等感は消えないことを知っていて、そんなものを抱えて最果てまで歩かなければいけないということにうんざりしていた。

考えるのを放棄するため足元を見ながら面白い漂着物を探すことにする。これはひとりで由比ヶ浜にきた時によくやる遊びで、意外と楽しい。鮮やかな海藻や七色に輝く貝殻、きれいな緑のシーグラス。思ったよりもいろいろなものが落ちている。

立ち止まって海のほうを眺める。風が吹いてスカートの裾がゆれる。









嘘か本当かはわからないが、干潮時には亡くなる人が多く、満潮時には赤んぼうが生まれることが多いという話をきいたことがある。

何に悩んでいたって当たり前に人は生まれるし当たり前に人は死んでいく。生きていれば心も潮の満ち引きのように満たされたり干上がったりするだろう。そう考えるとなんとなく安らかな気持ちになる。
それに、生まれてきてしまったからには前に進む以外の選択肢はないのだ。私たちは誰一人としてもう海には戻れない。



今年で三歳になった姪にはコロナの影響でなかなか会えていないが、時々ビデオ通話をしたり動画が送られてきたりする。

彼女も大人になって人生や自分自身に絶望したりするときがくるのだろうか。
叔母としては、絶望などひとかけらも存在しない明るい道を歩いていってほしいと切に願う。
そしていつか大きくなったとき、この海を一緒に見ることができたらいいなと思う。

大きく深呼吸をして、私はまた波打ち際を歩き出す。




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望月柚花

93年生まれのライター兼フォトグラファー。読書と音楽と甘いものと日本酒が好き。よく眠る人間です。

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