知られざるシルクロード、秩父往還の難所を30km歩く

  • 更新日: 2021/02/25

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難所を歩く

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シルクロードは秩父にもあった。シルクロードと聞くと、中国大陸を横断して、ローマへと続く果てしない道を思い浮かべる方が多いだろう。日本にも八王子から横浜へと抜ける絹の輸送ルートがあり、明治時代の殖産興業を支える重要な道だったことも、比較的知られている。

しかし、秩父にシルクロードがあったことを知る人は少ない。江戸時代後期以降、現在の埼玉県から山梨県へと絹を売るために市場へと長旅をした人々がいた。噂によれば、30kgの絹を担いで山道をよじ登り、絹を運んだという。

今では、「秩父往還」またの名を国道140号として道路が整備されているが、相変わらず歩いて渡るには厳しい道だ。こんなに歩きづらい道でありながら、なぜ古くから人の往来があったのか。そして、どれほどの魅力があったのだろうか。これらの疑問を解決すべく、2021年2月12日に武州日野駅に降り立った。ここから山梨県方面に向けて西へ西へと進み、秩父往還の山越えに挑戦する。さて、1日でどれだけ歩けるだろうか。

▼武州日野駅の場所はこちら。地図上の黄色いライン(国道140号)が秩父往還。




秩父鉄道に乗って、武州日野駅に降り立った。天気は曇り。寒さはそれほどなく、とても心地よい。2両の電車から降りる客は自分しかおらず、秘境ともいうべき場所に降り立ったという実感を強くする。切符は駅員に手渡し。ここから、歩き始めた。




冬の空に乾れ木と枯れ草が広がる秩父往還沿いの風景。周りの家々は基本的に昔からの個人商店ばかりで、服屋さん、豆腐屋さんなどが立ち並ぶ。のどかな光景にうっとりする。カメラの輪郭になぜか黒い縁が現れる事態が発生して焦るが、フルサイズ一眼レフにAPS-C用のレンズを取り付けていたからだった。それに気づいたのは後日のこと。これ以降はうまくトリミングした写真を載せていく。




農地は作物を植えているところが少なく、平らになっている。里山は灰色と深緑のまだら模様。葉をつける木とそうでない木が混ざり合っている。ところどころ禿げている山もある。日本の里山によく見る光景だ。秩父往還のど真ん中を通るだけでなく、その周辺の道をうろちょろしながら進んでいくことで気づきは多い。




この土砂をためておく光景をたまに見る。道路脇の広い敷地にどさっと土が積み重ねられており、人間がダイブしても大丈夫なくらいにフカフカで乾いている。




ススキは人間の背丈を越すほどに生い茂り、背比べに勝って意気揚々とする日本男児のように道端から見下ろしてくる。




石垣の上に祀られている薬師尊を発見。お掃除をしている青色のパーカーのおっちゃんに「こんにちは」と挨拶をして階段を登り、3体の薬師尊にご対面した。緑と黄色の美しい衣装に身を包み、とても大事にされていることが窺える。立て札によれば、昭和56年の道路拡張工事により現在地に移転されて以来、シロアリの害により土台がダメになったものを令和2年に修復したらしい。だから、こんなに新しい佇まいなのだ。




そこから約10分くらい歩いたところに、再び薬師尊を発見した。しかし、中身は空っぽで、ボロボロ。先ほどのところに中身だけ移転したのだろうか。でも、道路拡張工事があった跡はないから、また別の薬師尊ということだろう。薬師如来というのは、自らの体を7体に変化させて、人々の病苦を退散すると伝わる。なぜ、この道沿いには薬師尊が多いのだろうか。




秩父というのは中心部を除けば、両側を山に囲まれ川が大地を削り、人が住めるのは長方形で比較的狭いような土地に限られる。歩いていると、耕地も縦長なことに気がつく。縦に面積を確保しようと頑張ったのだろう。




ここら一帯には、「ふるさと伝言板」というものがよく立っている。コロナ予防が決まり文句のように張り紙に書かれていて、こういう人が少ない地方だからこそ、余計にコロナ感染対策に気を使っていることが窺える。




道中、一軒だけ見たのが、この子育地蔵尊。由来は定かではないが、千羽鶴や花などで明るく飾られている。このように何か神仏を祀るということは、公共の場とプライベートな家の敷地内、どちらもに見られる。とにかく、信仰の厚い土地であるという印象を強く受ける。この先の六所橋というところでは、縄文時代に子孫繁栄のために用いられた石棒(男根を模した棒)が祀られているという看板も見かけた。これは、岩手県遠野市で見たことがあるコンセイサマと同じ種の信仰だろう。



それから、梅の木が多い。なぜこんなに梅の木が多いのだろう。枝が途中から急に細くなるのを眺めていると、妙に興味がそそられる。




枯れ草が積まれている。冬は活用されていない耕地というのが本当に多い。お化けのようにモコモコしている枯れ草を眺めるのも楽しい。




秘密基地のような家を発見した。巣箱に入る小鳥のような気分を味わいたくなった。




まだ、登山道のような急坂には至っておらず、やや上りのような道を歩いている。この地域は水の流れが面白い。少しわかりづらいが、小川がUの字に蛇行している。そのUの字の曲がり具合が半端ない。




それから、この地域に特有なのが、石積みの存在。なぜか、かなり多くの家の土台が石積みで固められている。地盤が緩いためか、川の水かさが多くなった時に浸水を防ぐためか、あるいは、傾斜地で家を水平に建てるためか。様々な理由が考えられる。




農家の目の前に置かれていた農機具たち。どのように使うのか、全く見当がつかない。




さて、鉄道の終着駅である、三峰口駅まで歩いた。コカコーラの主張が激しい。武州日野駅からここまで、白久、三峰口と2駅分歩いたわけだ。ここからは、急に鉄道も通らないような山道に移行していく。秩父往還の名物、山越えに向けて気を引き締めねばならない。


▼三峰口駅の場所はこちら。地図上の黄色いライン(国道140号)が秩父往還。




ものすごく白い塊が工場の前に積まれている。雪よりも白い気がする。秩父といえば、鉱物資源が豊富な印象が強い。山肌が大胆に削り取られた武甲山のような山がシンボリックに存在するからかもしれない。




てっぺんが少し刈り上げされた山が見える。道端の風景がいよいよ山の中に突入したという印象を受ける。




「熊出没注意」の看板をよく見かける。




今年初めての雪に遭遇。儚くも溶け去りそうなそのフォルムと、道路のヒビに染み渡っていく水がなんとも言えない美しさを体現している。いとあはれなり。




秩父往還沿いに少し外れた道を歩いているので、誰一人として通らない。今まで歩いた方角は少し下方に見える。道端にある枯れ葉が、山に近づくにつれて徐々に大きくなっている気がする。大きくなっていく枯れ葉を見つめていると、生き物のように思えてくる。




発砲注意の張り紙。この辺は猟師さんが狩りをするらしい。周囲でガサゴソという音が聞こえるが、大概は小鳥がうろちょろしている音だろう。こういう道を歩くと、やけに耳が敏感になる。




道路脇の家。よくこんなところに建てたものだ。そして、玄関も入り口もない。なぜだろう。ガードレールに十分な切れ目はなく、窓も閉めている。




側を流れる川が、徐々に細くなりつつある。この川こそ、東京へと流れる荒川の源流だ。想像もつかないくらい青く澄んでいて、細くて美しい。秩父往還を西へ西へと進むことは、シルクロードの山越えを意味するだけではなく、荒川の源流を遡る旅でもあることに気づかされる。自分は知らず知らずのうちに荒川を遡っていた。そのことに気がついた時、どことなくすっと頭が冴え脳が広がるような感覚を覚えた。




この川に沿って、ダムや発電施設がある。ここは鉱物資源に加えて、水資源も豊富な土地なのだ。巨大な設備を目の当たりにして、その迫力に圧倒される。




この辺はバスが走っている。バス停を見るたびに、紳士的なおじさんが持ってそうなU字型のステッキを思い浮かべる。




秩父往還の目の前に大きな山が見えてきた。今の国道沿いだと、山の中腹を巻いていくルートがあるのだが、大昔は登山道のような道を歩いて山越えもしたのだろう。




荒川の横幅はさらに狭くなってきた。岩が突き出し、それを川が少しえぐっているような感じだ。水量も少ない。




大血川ドライブインというのがあったが、店は閉まっている。近くに、大血川という荒川の支流があるらしい。それにしても大血川というのは恐ろしい名前だ。詳しく調べてみると、平将門かまたはその親戚が死んだ血で川が染まったという伝説があるとのこと。そういえば、スタート地点近くで将門橋という橋があったのを思い出した。




岩を貫くトンネル。歩道が狭すぎる。歩くことはあまり想定されていないようだ。




木材を運ぶトラックが横を通り過ぎた。いろんな車がオーバー気味に自分を避けてくれる感じが申し訳ないと同時に、今では人が歩かなくなった道そのものに寂しさも感じた。




道中、トイレの看板をたくさん見た。三峯神社の参拝客で車が渋滞する時があるからだろう。「早めにトイレを」「トイレすぐそこ」などという看板が乱立する。道端にある名もなき祠には目を向けられることなく、トイレの標識がその目の前に立ちはだかっている光景というのも少し寂しい。




川沿いでは、ダムの工事をしているようだ。人がアリのように小さく見える。壁の側面を削る作業をしているのか、または、安全性の点検でもやっているのだろうか。何をしているのか全く想像ができないことを眺めていると楽しい。




道端に巨大なトラックが停まっていて、タイヤが脇にごそっと置いてある。このような光景も、鉱物資源が豊富な場所ならではだろう。




馬頭観音だ。これだけの馬頭観音があるということは、人が往来する街道があった証とも考えられる。昔の人は馬を荷運びに使っていて、その馬が亡くなったら馬頭観音の石碑を立てるということがよくあったそうだ。




それにしても、石やら木やらを「積む」という光景をよく見かける。



石積みは大概丸っこい石ではなくて、ラグビーボールのような楕円形のような石が積まれているという点も興味深い。



石積みがカーポートと合体している場合もある。




さて、ここからは三峯神社の参道へと突入する。おそらく、江戸時代から秩父往還を歩いていた人は、この三峯神社という信仰の地に少なからず立ち寄っただろう。というわけで、三峯神社まで登って降りるまで、いろいろな道を約10kmは歩いた。高低差も約700mとかなりハードな道のりだった。全て書こうとすると、もはや長編ノンフィクションになってしまうので、この記事ではあえて触れないでおく。

今まで書いたことと絡めて書くならば、道中、薬師堂があった。この薬師堂、実は病人看護という役割を担っていたようで、1772年には供養塔も建立された。道中歩く人々にとって、医薬の神である薬師様の存在は非常に貴重な存在だったわけだ。最初の方で述べた薬師尊もこの秩父往還を歩く人々を看護するような役割を担っていた可能性はあるだろう。

・・・・・



さて、三峯神社へと登り始めたのが11時ごろで、下山できたのが16時半ごろ。もうあたりは薄暗くなってきて、ここからあと10km、武州日野駅まで戻るというのは、非常に長く感じられる。先ほど書いたトンネルあたりも、こんなに暗くなった。




土の参道から、国道のコンクリートに変わった瞬間に思ったのは、土を歩いている時の抱擁されるような柔らかさと足裏の繊細な感覚は失われたと思った。一方で、夜道を歩く怖さは街灯が少しでも付いている方が安心だとも感じた。




道路沿いの柵や標識に、たまにピンクのリボンが付いているのを見かける。山道ではよくあることなのだが、なぜ道路にもつけるのかずっと疑問だった。道路は道の境界がはっきりしているので、車が脇に突っ込んだり、道の存在自体を見失ったりすることはないはずだ。登山道の入口ならまだわかるが、なんでもないような道路脇にもピンクのリボンがついている場合がある。道路整備がまだしっかりと行われていなかった時の名残かもしれない。




かすかに、郵便局の看板を発見した時の安堵感は大きかった。コンビニもガソリンスタンドもなく、家もまばら。そんな場所にも、郵便局はあるのだ。




あえて、行きとは違う場所を歩いてみようということで、少し道をそれると、「かかしの里」という場所に行き着いた。昔、江戸時代に贄川(にえかわ)宿という宿場町として賑わっていたらしい。人口が少なくなって寂しくなったから、かかしを置いてまちおこしを始めたという事例は、日本全国に存在するが、ここもその1つかもしれない。徳島県三好市で昔、かかしの村に出くわしたのを思い出した。




夜道を歩きながら、かかしを探した。



何気ない風景の中で、突如、にゅっと現れる感じが面白い。確かに、道端にかかしがいると和むし、とても明るい気持ちになる。



かかしには色々なタイプがあって、これは自転車を練習している光景のようだ。かつてこの街には、本当に様々な人が住んでいたのだろうなと思う。




そこからまた歩いていくと、「石器焼料理」のお店。石器焼ってなんだろうと思って、調べてみたら、荒川の砂岩の固まりを使用した石で、ジビエを焼いて食べられるらしい。次来るときには、ぜひお店を予約して食べに行きたい。


さて、長い長い道のりもあともう少し。途中の駅で電車に乗ろうか迷ったが、武州日野駅から歩き始めたのだから、そこまで戻らないと気が済まなくなった。時間を気にしながら闇の中を歩いていく。夜になると、周りの視覚的な情報が少なくなるので、やや退屈する。そして、歩いている時間が長く感じられ、携帯の時計を見る回数がどんどん増えていく。明かりの雰囲気に錯覚して、ここが武州日野駅だろうかと思って行ってみたら、意外と違っていることもある。疲労も溜まっていて苦労も多い。そうして、やっとのこと、武州日野駅までたどり着いた。



駅に到着したのが、19時すぎ。駅員もお客さんもいない駅で、45分間電車を待った。今日は改めて、たくさん歩いた。30kmは少なくとも歩いただろう。そして、秩父往還の一端を知ることができて本当に良かった。秩父往還は、高低差がかなりある難所でありながら、薬師如来をはじめとする信仰の道だった。そして、平将門をはじめ、多くの歴史上の人物が通った道であり、水資源や鉱物資源が豊かなエリアでもあった。また、限られた土地をうまく使う人々の暮らしの知恵が詰まっていて、石積みや耕作地の区画に散りばめられた工夫には学ぶべきことが多かった。秩父往還は、絹を運ぶシルクロードの道でありながら、荒川の源流を遡る道であり、信仰の道でもあった。様々な要素が詰まって、秩父往還という道が存在していることを実感した1日だったと言えるだろう。






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稲村行真

文章を書きながらも写真のアート作品を製作中。好奇心旺盛でとにかく歩くことが好き。かつてはご飯を毎食3合食べてエネルギーを注入していた。

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