引っ越しの朝

  • 更新日: 2020/05/19

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7年間住んできた部屋。築50年以上のこの部屋は、何度、出会いと別れがあったのだろう。

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引っ越しの日取りが決まった。
2020年2月28日に引っ越すことになった。

7年に渡って住んできた部屋だ。思い返せばあっという間だった気がする。
引越し業者から、梱包用の白い段ボールが送られてきた。

引っ越しは不慣れだ。
7年前、当時住んでいた社員寮から、この2DKに引っ越してきた時は、身の回り品を段ボールに数箱に詰めて、宅急便で送付する程度だったし、当日はスーツケースという身軽さだった。

それから7年。
引っ越してきた当初は、椅子もテーブルも、家財道具と呼べるものが何一つなく、段ボールをテーブル代わりにしたものだったが、徐々に物が増えた。
まさか、次の住まいが、ワンルームになるとはつゆ知らず、悠々と、この広い2DKに一人で住んできた。

引っ越しまであまり期間がない。しかし、切羽詰まると、何から手を付けていいのか分からなかった。
とりあえず、7年間住んできた部屋を撮ることにした。



昭和41年築。
古い公団住宅の2DKに住んできた。東武線という、首都圏の中でもマイナーな路線沿いにあり、都心まで小一時間は掛かるので、アクセス良好とは言い難く、駅前は閑散としていた。
しかし、昭和41年に出来た当時は、東洋一の規模の団地として、2万人以上の人が住んでいたらしい。
当時は団地というと、コンクリート造りのモダンな住宅として、都市圏に住む人からは憧れの暮らしと見られ、高倍率の抽選となることもしばしばだったようだ。
そんな、輝かしい時代から半世紀が過ぎ、この団地は、人影もまばらだ。
時代遅れの住空間とも言えるが、僕はこの部屋が割と気に入っていた。



この部屋を去ってしまうのは残念だが、なんとしても2月末に引っ越さなければならない。
バタバタと荷造りを始め、引越し先には持っていけない、ダイニングテーブルや本棚を処分するため、粗大ごみの予約、エアコンの回収業者への連絡等、思いつくものから取り掛かり始めた。

引っ越しは実に忙しい。2月半ばに転居先を決めた後、引越し業者との打ち合わせ、荷造り、それと並行して役所への届け、水道やガスの手続きを行い、気が休まらなかった。
そして、追い立てられるように、引っ越しの朝を迎えた。

当日になっても、完全に梱包が終わったとは言い難かった。
段ボールに収まっていない物や、捨てる物が詰まったゴミ袋が散乱していた。
それらの対応に追われている時、予定よりも早く、引っ越し業者のトラックが到着した。
スタッフが室内を見渡し、準備万端でないのを見るや否や、少し呆れ顔になったような気がした。
梱包済みの段ボールが次々と搬出される中、僕は、未梱包の物を慌ただしく段ボールに詰め込んだ。
部屋の隅に溜まった埃が舞い上がり、何度もくしゃみをしながら、目も回るような忙しさで作業し、不用品の入ったゴミ袋を抱え、5階の部屋からゴミ捨て場まで何度も往復した。
昭和41年築の公団住宅には、エレベーターは設置されていない。へとへとになった。

やっとのことで搬出を終え、トラックに最後の荷物が押し込まれた。よくもまあ、一人暮らしで、これほどの物量があるものだ。この荷物が、引越し先のワンルームに収まるのかという不安がよぎった。

トラックを見送り、一人、からっぽになった部屋に戻った。





さっき迄の喧騒が嘘のように、静まり返っていた。
今朝まで、人が暮らしてきたはずなのに、冷ややかでよそよそしい空間だった。
この7年間の暮らしというのは一体何だったのだろう。自分は何かを成し遂げたわけでもなく、その場その場を、何となく生きてきた様な気がする。

静寂の中、虚しい気持ちが沸き上がってきた。
ふと、畳に目をやると、本棚があった場所が、一直線に変色していた。7年も経つとこれだけ変色するのだ。
たしかに、日当たりはいい部屋だった。
冬になり、空気が澄んでくると、富士山がよく見えた。

ここでの7年間の生活を振り返ると、仕事方面では、ぱっとした成果を出せなかった。しかし、職場で知り合った、うだつの上がらなさそうな年配の人と、勝浦まで釣りに行ったこと、近所の蕎麦屋のおばさんと仲良くなり、仕事帰りによく蕎麦を食べたこと、そして、ツイッターで知り合った方々と交流があったことなど思い出した。

僕は、それなりに楽しい日々を、この部屋で送ってきたのかもしれない。
そして、次の街でも、それなりに楽しい日々であって欲しいと願った。






引越し先の街に着いた。
手続きが遅れてしまい、アパートには電気が開通していなかったので、その日は搬入だけ行って、近くのビジネスホテルに一泊することにした。

道路が渋滞していて、到着が遅くなると、引越し業者から連絡が入った。
何もないワンルームで、何をするでもなく、手持ち無沙汰な時間を過ごした。
電気が未開通なので、暖房を入れることもできず、カーテンのない寒々とした室内から、暮れゆく街を眺めていた。

トラックが夜7時近くに到着し、懐中電灯片手に、搬入作業が始まった。
懐中電灯の茶色い明かりの中に、真っ白な段ボールが積み込まれていく。まるで、夜逃げをしてるかのように、やましいことをしている様に感じた。
予想通り、この狭い部屋が、段ボールで一杯になった。居住空間がまるで無い。この空間で、明日からどうやって生活していくのだろうかと、暗澹たる気持ちになるが、この日はどうしようもないので、予約していたホテルに向かった。
引っ越しというと、新たな環境への期待で、もっとルンルンとしているイメージであったが、実際はこれほどまでに、労力のいるものだったとは。

今回の引っ越しは、転職によるものだ。
紆余曲折あり、前職を半年前に退職し、数ヶ月間、求職活動をした。
ようやく一社、内定を得て、職場は都内に決まり、これを機に、引っ越しをしようと思った。

仕事と住まい、この2つをがらっと変えるという個人的大事業だ。
この街は、職場に比較的通いやすいという理由で選んだ。別に、知り合いがいるとか、親戚がいるとかではなく、縁もゆかりもない街だ。
ただ、この街は、なんとなく面白そうな感じがして、悪くないのではないかと感じた。

ビジネスホテルの一室で、コンビニ弁当を食べ終えると、特にやることもないので、スマホに入っている、Google photoを開いた。

就職が決まった直後、1月末に、久しぶりに帰省をした。
帰省中、万博記念公園にある、太陽の塔の内部を見学したのだ。





塔内部は、まるで体内のように赤い空間だった。そして、一本の木が貫かれていて、周囲をアメーバやアンモナイトや恐竜が、浮遊していた。

塔の中で、生き物たちは太陽の光を目指しながら、楽しそうに、自由に、踊っているかのようだった。

新たな生活や、仕事のことを考えると不安になるが、この写真を見て、なんだか勇気づけられたように感じた。




大田区蒲田。この街は面白い。
引っ越しの翌日、疲れを取ろうと、近くの銭湯に行った。
湯船を見ると、真っ黒なお湯がぶくぶくと湧いており、仰天した。

黒湯と呼ばれるお湯らしく、この辺りは温泉が湧く土地のようだ。
世の中には、知らない街がいっぱいあるものだ。





地図を見ると、東は羽田空港、南は多摩川に接している。
空を見上げると、飛行機が間近に飛んでいるし、第一京浜や環八が交わり、どこにでも行けそうな、気もそぞろな街である。

この街を知ろうと、休日ごとに散策をし始めた矢先、コロナウィルスの流行で、世の中が自粛ムードになってしまった。辛い時期ではあるが、いつかはきっと収束するだろう。
そうなったら、この街、そして、横浜方面に向かう赤い電車に乗って、色々な街を散策したいものだ。

この街には、まだ知り合いもいないし、そして、どこかお店に行きたくても、自粛中だったりして入れない。でもそのうち、発見に満ちた、楽しい日々が訪れるだろう。

今は、僕自身も仕事に不慣れで、ヘトヘトな日々であるが、慣れる日が来るはずだ。
前職もそうだったが、僕の中では仕事はそこそこでいい、平均点でいい(でも、そこに至るのも結構大変だ。世の中は大変なのだ)。






以前住んでいた埼玉からは遠ざかってしまったが、今も時折思い出す。
一ヶ所、行きたいと思いながら、行けず仕舞いの場所があった。
それは、大宮公園にある、昭和な雰囲気の売店である。
大宮公園自体は何度となく訪れていて、この売店の前も通り過ぎていた。
公園内には、このような売店が点在していて、店内でラーメンやおでん、甘酒などが食べられるようになっていて、渋い空間だった。

気にはなってたものの、小心者の僕は、何故か入る勇気が出ず、今度こそ、今度こそと先延ばししてしまい、ついに入ることがなかった。

いつか、埼玉に行った際は、訪れてみようと思う。
そして、7年間過ごした団地にも、行ってみたいものだ。
















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好きなもの:猫、古い建物、渋い店先、変わった看板、味わい深い駅舎、煤けた高架下、路地裏、休日のオフィス街のカフェ、年末年始の都心の静けさ

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