東京-石川500kmを歩いて、由来オタクになった

  • 更新日: 2020/01/14

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東京-石川500kmを歩いた。

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なぜ、東京から石川まで500km歩いたのか。

遡ること4年前。僕が大学3年生だった時、石川県加賀市というところで、大学生がまちづくりに参加するPLUS KAGAというワークショップに参加した。

何をするかの話し合いが持たれ、その中で「僕は都内で定期券範囲内は全部歩いている」という話をした。大学時代はお金がなかったので節約するために歩き始めたのだが、徐々に歩きながら考え事をするのが好きになり、とにかく歩くことが習慣化していたのである。

そのようなことを話してみたところ、「それなら今度加賀に来るときに歩いてみれば?」と返された。

そういうわけである。

急すぎる展開ではあるが、陸上競技を8年間やっていたり、山登りを1ヶ月に1回やっていたりした経験もあり、足腰には自信があったので、実際にやってみることにした。

▼到着先の石川県加賀市の風景


実際に歩いた日程は、以下のようであった。15日間で、560kmを歩くというルートだった。平均すると1日37.33kmを歩いたことになる。15日目のゴール日の7kmを除けば、1日平均は39.50kmという結果だった。

江戸時代の文献によれば、加賀前田藩は東京から金沢までの約480kmを13日間で歩き、平均36.92kmだったらしい。それよりも早くたくさん歩かないと「なに得意になってるんだ」と昔の人にバカにされてしまいそうなので、より早く、より多く歩くことを意識した。加えて、「新幹線で2時間の道のりを2週間で歩きました」とただ言いたかったのもあって、とりあえず2週間で歩いてみた。

8月31日(土) 1日目 41km 59802歩 東京都文京区~埼玉県川越市
9月1日(日) 2日目 39km 61872歩 埼玉県川越市~埼玉県寄居町
9月2日(月) 3日目 38km 53335歩 埼玉県寄居町~群馬県富岡市
9月3日(火) 4日目 40km 63163歩 群馬県富岡市~長野県軽井沢町
9月4日(水) 5日目 44km 65363歩 長野県軽井沢町~長野県上田市
9月5日(木) 6日目 33km 55929歩 長野県上田市~長野県長野市
9月6日(金) 7日目 26km 30634歩 長野県長野市~長野県中野市
9月7日(土) 8日目 42km 64191歩 長野県中野市~新潟県上越市板倉区
9月8日(日) 9日目 34km 50226歩 新潟県上越市板倉区~新潟県上越市名立区
9月9日(月) 10日目 32km 49968歩 新潟県上越市名立区~新潟県糸魚川市
9月10日(火) 11日目 48km 68122歩 新潟県糸魚川市~富山県魚津市
9月11日(水) 12日目 52km 81597歩 富山県魚津市~富山県砺波市
9月12日(木) 13日目 39km 62212歩 富山県砺波市~石川県金沢市袋板屋町
9月13日(金) 14日目 45km 70617歩 石川県金沢市袋板屋町~石川県加賀市桑原町
9月14日(土) 15日目 7km 18193歩 石川県加賀市桑原町~石川県加賀市大聖寺
合計 560km 855,224歩

▼足がきつくなってきた埼玉県寄居町の道中


2週間で560kmを歩くというのは、思っていた以上にきつかった。歩くという行為は、ただ2本の足を一歩一歩前に出すだけであるため、動作は非常に単純であり、頭の中で想像する分にはこれほど簡単なことはないと思われる。

しかし、実際に歩いてみると、2週間という制約に縛られてこの時間内に歩くには今日はここからここまで歩かねば!という焦りが生まれる。歩くという行為をA地点からB地点への移動だと考えるならば、それはなかなかたどり着かないという苦痛以外の何物でもないのだ。

時計を気にして、地図とにらめっこして、「はあまだこれしか進んでいないのか」と嘆くのである。
今日歩く距離が少なすぎると、明日がもっときつくなるという風になり、毎日デッドレースを繰り広げているような妙な感覚に陥る。次第に、足はボロボロになる。

▼新潟県糸魚川市にて「まだ10km以上残っている!」と焦る夕暮れ


1日目は超元気だった足も、2日目には右足の膝下が痛み出した。3日目には両足が痺れ出し、4日目には初めてマメができた。7日目にはマメの中にマメができるという現象が起こり、立っているのが辛くなった。そして、結果的に、マメが11個できた末に、11日目にして両足が覚醒して、どこまででも歩ける!!!というランナーズハイのような感覚になって、調子に乗ってその日は52km歩いた。52kmなんてへっちゃらだった。寝る以外は歩いた。そして、またマメができてぶっ倒れた。自分は右足がやや外股なので、左足と比べて力が外側に逃げがちである。だから、右足をかばうようにして左足が作用して、左足も疲れてぶっ倒れるというわけだ。

しかし、これほどまでにメチャクチャな旅なのにも関わらず、僕はこの「徒歩の旅」をやめることができない(実は、今回、東京から石川を歩くのは「2回目」である)。なぜなら、偶然の面白い発見や出会いがあるからだ。今回の旅では、石川県加賀市を地域の外側から眺めてみたいという思いもあり、道中、石川県加賀市を連想するモノを発見したり、その地域の出身者を探したりすることを念頭に入れて歩いた。

▼23:00に東京大学赤門付近を歩く


例えば、出発の日に東京都文京区では、石川県加賀市から移住しました!という人に出会った。「私、この2つの土地の繋がりを知っています」と知る人ぞ知る実話を教えてくれた。

昔、源平合戦の時に木曾義仲が斎藤実盛を討ち取った時に、昔の恩人を討ち取ってしまったことを知って嘆き悲しみ、首を洗った池を首洗い池と名付けた。その言い伝えを文京区に広めた人がいたらしく、首洗いの井戸や実盛坂なるものができたようだ。石川にあるはずのものが、なんで東京にもあるの!?と突っ込みたくなった。

文京区の東京大学赤門も実は、江戸時代の加賀藩の藩邸跡だったようで、石川県ともゆかりのある場所だ。自分が何気なく東京から石川まで歩く際のスタート地点を東京都文京区に定めたのには、実は歴史的背景と人の縁が後押ししていたのかもしれないと思うと、胸が熱くなった。

▼「加賀」のTシャツを着た中学生と遭遇


また、東京都板橋区では、「加賀」という文字の書かれたTシャツを着た中学生と出会った。「え!なんでこんなところに加賀?」と突っ込みたくなった。うっかり声がかけられなかったのだが、なぜ、「加賀」のTシャツを着ていたのだろうか。

あとで調べてみると、東京都板橋区には、加賀中学校という名前の中学校があり、そこには江戸時代に加賀藩の下屋敷跡があったらしい。校門や校庭に江戸時代の下屋敷らしい面影を残しているようだ。

加賀中学校について気になったので、もっと踏み込んで調べてみると、同じ名前の中学校が全国に4校あるらしく、板橋区の他には、東京都足立区、島根県松江市、岡山県吉備中央町に存在するとのこと。他の中学校との関連性はよくわからないが、島根県松江市に関してはピンとくる話がある。

昔、石川県加賀市の地域の物知りおじさんに加賀の由来について尋ねた。「加賀」は「輝く」から来ているようで、島根県の人が命名したらしい。古事記を読んだ時に、そういえば島根の神様であるイザナギ・イザナミの仲立ちをしたのが石川県の神様であるククリヒメだと記されていたことを思い出し、これはもしかすると全て大きな歴史の中での人の縁が積み重なって今があるっていうことかも知れないと拡大解釈をしてみた。

▼長野県飯山市で「大聖寺」を発見


また、長野県飯山市では、道端に「大聖寺」というお寺を発見した。僕は石川県加賀市大聖寺という所に1週間後にゴールする予定だったのだが、1週間も早く「大聖寺」にたどり着いてしまったと思って、これは何かあるに違いないと感じ、お寺の中に入って話を聞こうと決意したのである。

しかし、勇気が出ずに、横のおやき屋さんでまずは腹ごしらえでもするかと入ってみたところ、おやき屋の店主とおばあさんが会話していた。おばあさんは、法事で人にあげるからと大量におやきを買いたいと言い、店主の人はせっせと袋に詰めていた。おや?これは隣の大聖寺の住職の奥さんかもしれないと縁を感じて、声をかけてみた。

「これから僕、石川県加賀市大聖寺まで歩いていくんです」、という風に話しかけてみたところ、「そうなんですか!?」とかなりびっくりされた。何しろ、石川まで歩いていくという事実と、自分のところと同じ名前のお寺がゴールであるという事実が合わさって、激しい驚きと深い縁を感じてもらえたようだ。

▼長野県飯山市付近で見られる一向宗の旗と田園風景


そのおばあさんが言うには、昔、佐久間氏というお殿様の家系があって、兄が石川県加賀地方を治めており、また、弟が長野県飯山市のあたりを治めていて、両地域は一向宗の僧侶の交流などがあったらしい。大聖寺というお寺が両地域に存在するのも、偶然ではなかったのである。いろいろ調べたところ、埼玉や東京にも「大聖寺」が存在しており、加賀との関連性はよくわからないが、その近くをどうやら数日前に歩いていたことがわかった。

また、後からわかったことだが、石川と長野の大聖寺周辺を治めていたこの佐久間氏という一族、実は5人兄弟で、5つのゆかりの城があるらしい。長男の盛政は初代の金沢城主になり、弟の安政は長野県飯山市の初代飯山城主になり、末の弟の勝之は佐々成政の養子になり富山県の増山城や富山城に住んだりした後に、長野県の長沼城主になったとのこと。今回の徒歩の旅では、これら全ての城の近くを歩いていたようで、佐久間氏と今回の徒歩の旅との縁に激しく驚いた。

▼東京と埼玉の境付近で見た、織田信長の落書き


もはや、ルーツ症候群だ。石川県加賀市をテーマに歩くならば、その地域の歴史と目の前のヒトモノコトを関連づけようと躍起になる。堤防のところに織田信長の落書きがあれば、信長といえば手取川の戦いの時に加賀国にやってきて、上杉謙信と戦って負けたと言われているが実はそこに信長はいなかったという話が思い浮かんだ。余計なことまで付け加えて、語りたくなってしまう。もはや、若気の至りであり、おじさん化の進行とも受け取れるよくわからない状況である。

▼石川県で発見したパチンコ屋「TIGER」と食事処「寅亭」、兄弟のごとく佇む


また、それに関連して、石川県に入ってから妙に「虎」の文字を冠するお店が増えたことに気が付いた。5軒以上、互いに関連のなさそうなお店が「虎」の文字を名乗っていたのである。なんで虎なんだろうと疑問が湧いてきて、そういえば戦国時代に北陸を治めていたこの地域の英雄・上杉謙信の昔の名前は景虎だったなあと適当なことを考えていた。景虎の虎にあやかって「虎」という字を店の名前として名付けたのだろうか、それともたまたま「虎」という文字が被ってしまったのか。もしくは、虎同盟や虎グループなるものが石川県内に存在していてこの地域を牛耳っているのか、疑問は尽きない。

▼石川県で発見した意味のない雑草ケース


もはや、道端の草でさえも石川県加賀市から種が飛んできて、ここに草が生えたんじゃないかなどと非現実的なことを考える有様である。てかこの雑草、「なんで植木鉢的なケースに入っているの?周りに同じ草ボーボーだし意味ないじゃん」と突っ込みたくなった。たぶん通行人が観賞用に草を引っこ抜いて植木鉢的なケースに植えたという可能性はゼロではないが、植木鉢的なケースが始めに捨てられて、そこら一帯に石川県加賀市から雑草の種が大量に飛んできて生えまくったという可能性の方が高いのではないかと勝手に想像してみた。

実際のところはどうなのかわからない。しかし、そこに何か繋がりがあれば面白い。歴史学には空白がたくさんあるし、ましてや民俗学にはもっと空白が存在する。人間が人生で理解できることは現実世界の数%くらいしかなくて、後の90%以上は未知なのだから、予想もしなかった驚きや発見が道端から生まれるというのも納得できる。

▼石川県でイチジク農家と交流する著者


このように、徒歩の旅をやっていると、偶然の発見がたくさん存在する。人と土地との関係性や繋がりについて、歴史という大きな時間軸の中に自分を位置づけて考えることによって、歩く楽しみが増すのだ。

あっと驚く事実を知って、自分が様々な人に生かされていることも知ることができる。僕はきっと自分の存在をどこかに見出したいのかもしれない。アイデンティティに向き合いたいということでもある。だから、今回はいつもお世話になっている石川県加賀市という場所に向けて歩くという行為を通して、それに向き合ったということなのだと解釈している。その地域を歩いていないのに、その地域をどんどん発掘しているというかなり不思議な感覚だ。

その地域を知るためには、外側からの方がより新しい視点で面白く見えるのかもしれない。今回は、偶然の発見をしてそれを掘り下げていくことによって、加賀について明らかにして新しい視点を得たのである。

道端にある「見えるもの」に対して綺麗、可愛い、面白いと、表面的な良さを感じるよりは、見えるものから「見えないもの」に対して思いを馳せる方が深くて底なし沼のようで面白い。表面的な疑問を掘り下げた先に、点と点が繋がり、新しい世界が開けることが楽しい。だから、とにかくカメラをぶら下げて、たくさんとりとめもなく歩いて、この広い世界を感じていたいのだ。

▼石川県加賀市大聖寺にゴール


9月14日にゴールした。いつの間にかゴールしちゃったなという感じで、感慨深さは驚くほどなかった。徒歩の旅はもはや日常の延長で、ある意味散歩のような感覚なのかもしれない。

地域の新聞社がたくさん記事を書いてくれて、「小泉進次郎より顔がでかく載っとるよ!」と教えてくれた。最後は地域の子供達が一緒に歩いてくれて、ゴールには30名くらいの地域の方が駆けつけてくれて、ゴールテープを貼ってくれていた。ゴール予定時刻に、1時間も遅刻したのにも関わらずである。

僕が道中、頭の中で展開した加賀市由来のウンチクに、もはや意味はない。それを話したところで、地域の人が誰も喜ぶわけでも助かるわけではない。ただ、東京から石川まで歩いたということに意味があるのであって、それ以上でもそれ以下でもない。

▼今回の徒歩の旅に関する様々なグッズ


ところで、今回の徒歩の旅には30名ほどの仲間が関わってくれていた。かつて美術館のミュージアムショップのアルバイトで一緒だった方々だ。道中、数日間一緒に歩いて動画撮影、足のケア、写真撮影をしてくれるなど関わり方は人それぞれである。また、上の写真のように、道中持ち歩いたり、イベントに出展したりするためのグッズを作ってくれた人もいた。

グッズのデザインに使われている犬のキャラクターは「犬村くん」だ。僕の名前が稲村で、犬っぽいとよく言われることから、このキャラが誕生した。犬村くんのグッズを持って歩いていると、道中、たくさんの人に声をかけてもらえて、偶然の出会いも多かったし、徒歩の旅を知ってもらうきっかけにもなったのである。

これらのグッズは、秋葉原のアーツ千代田3331で行われた「マニアフェスタvol.3」というイベントにも出展し、徒歩の旅の報告という形で、多くの方にお披露目することができた。改めて、今回の徒歩の旅に関わってくれた皆さんへの感謝の気持ちを持って、この徒歩の旅の紹介を締めくくりたい。本当にありがとうございました。








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稲村行真

文章を書きながらも写真のアート作品を製作中。好奇心旺盛でとにかく歩くことが好き。かつてはご飯を毎食3合食べてエネルギーを注入していた。

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