野良庭散歩2
- 更新日: 2021/07/06
野良庭の切なさ
関東が梅雨入りしてしばらく経った。雨が続くわけではないものの、今朝も空気はしっとりとして空は薄曇りである。私は散歩に出ることにした。
オレンジ色に完熟した梅があちこちに落ちてつぶれて、青梅の季節が終わったことを知らせている。青梅は香りは良いが毒があり、塩や砂糖や酒に漬けることで食べられるようになるそうだ。先月仕込んだ梅酒と梅シロップが色付き始めたことを思い出す。
落ち葉の中から勢力を伸ばそうとしている小さな葉たち。赤い葉といえば成熟した葉をイメージするが若葉が赤いというパターンもあるようだ。きっとこれから緑色になっていく。
風が吹いてくれれば涼しいのに今は無風で歩いていると汗ばんでくる。紫陽花の水色や薄紫が涼やかだが、すでに盛りを過ぎて茶色く変色している箇所もある。
茂みの中にハンゲショウの白が目立っている。ハンゲショウの花は穂状で花びらがない。夏至を過ぎたこの時期だけ葉の表面を白くして、花びらの代わりにするそうだ。
住宅地に入ってすぐ見つけたのは、近くのプランターから逃げ出したはぐれベゴニア。寄せ植えの印象が強いからかこじんまりした一株はより可愛らしく見える。
アサガオに似た小ぶりな花とその蔓と葉があふれ出している。葉の形からして、セイヨウヒルガオだろうか。
住宅地の奥へ奥へと進んでいきたいのに、この辺りはすぐに行き止まる。少し進んでは大通りに戻ってまた別の小道を入りを繰り返す。何度目かの行き止まりに空き家を見つけた。草木で鬱蒼としているだけで、最初はそうとわからなかった。しかし、閉ざされたカーテンの内側に大きな甲虫がとまっているのを見て違和感を覚え、その後サンルームが観葉植物と枯葉に覆われているのを見て確信した。家主がいなくなって久しいのだろう。家の中で、管理されないまま茂ったり枯れたりする植物のことを考える。植物を愛する心を持っていた人がいなくなったということを考える。
以前も別の場所で、手入れされなくなった庭を見た。その庭を埋め尽くす植物は雑草ではなく、様々な園芸種だった。そう気づいたとき、その庭を大切にしていた人の姿が思い浮かんで少し胸が苦しくなった。私は離れ小島のような野良庭を愛す。だけど庭自体が野良化してしまうのは、切ないものだ。
心をざわざわさせたまま別のブロックに移動する。滑らかな葉と凛とした花が美しい白百合に出会う。だんだん暑くなってきた。麦茶を飲み、塩入りの飴玉を口に含んでまた歩く。
これは今日一番の収穫。ドクダミの鉢植え。おそらく、最初は別の植物を植えたはずだ。そうに決まっている。それがいつの間にかドクダミの棲家になった。ドクダミのタフさと人間の諦め両方を感じられて味わい深い。
塀の下から盛大にはみ出す菊の葉たち。冬になったら花がたくさん咲くのだろうか。その頃また見にきたい。
住宅地を抜け、人通りの多い場所に出た。小さな公園を見つけて入ってみる。
入った途端、ここは私好みの「風化しつつある公園」だとわかる。要するに手入れが行き届いていないのだ。入り口から入ってすぐ、草がたくさん生えている。砂地に生える草はいかにも健気で、砂漠に生える植物のような趣がある。
ベンチの隙間から顔を出すシダが、いかにも利用されていない公園という風情でたまらない。他2つのベンチもそれぞれの植物たちで個性的に彩られていた。この公園の斜向かいに同じくらいの規模のキレイな公園があることにも物語を感じてぐっとくる。
公園を出て少し行くと、白い花をつけたツタバウンランが歩道に広がっていた。錆びた金属と蔦植物の組み合わせはいつ見ても素晴らしい。野良庭は「文明と野生の揺らぎを感じる場所」と定義しても良いかもしれない。
アルミ塀からはみ出してくる蔓。梅雨が明けたら、雑草と呼ばれる植物たちは爆発的に増えていくだろう。人間にとっても本格的な草刈りシーズンの到来だ。毎年毎年飽きもせず、私たちは領土を争う。
帰り道、ノウゼンカズラが鮮やかな朱色の花をたくさん咲かせているのを見た。今は雲に隠れているが、実際はもう初夏なのだ。
最後までご覧下さりありがとうございました。まだ体が暑さに慣れない時候です。散歩の際は水分補給にご留意下さい。
オレンジ色に完熟した梅があちこちに落ちてつぶれて、青梅の季節が終わったことを知らせている。青梅は香りは良いが毒があり、塩や砂糖や酒に漬けることで食べられるようになるそうだ。先月仕込んだ梅酒と梅シロップが色付き始めたことを思い出す。
落ち葉の中から勢力を伸ばそうとしている小さな葉たち。赤い葉といえば成熟した葉をイメージするが若葉が赤いというパターンもあるようだ。きっとこれから緑色になっていく。
風が吹いてくれれば涼しいのに今は無風で歩いていると汗ばんでくる。紫陽花の水色や薄紫が涼やかだが、すでに盛りを過ぎて茶色く変色している箇所もある。
茂みの中にハンゲショウの白が目立っている。ハンゲショウの花は穂状で花びらがない。夏至を過ぎたこの時期だけ葉の表面を白くして、花びらの代わりにするそうだ。
住宅地に入ってすぐ見つけたのは、近くのプランターから逃げ出したはぐれベゴニア。寄せ植えの印象が強いからかこじんまりした一株はより可愛らしく見える。
アサガオに似た小ぶりな花とその蔓と葉があふれ出している。葉の形からして、セイヨウヒルガオだろうか。
住宅地の奥へ奥へと進んでいきたいのに、この辺りはすぐに行き止まる。少し進んでは大通りに戻ってまた別の小道を入りを繰り返す。何度目かの行き止まりに空き家を見つけた。草木で鬱蒼としているだけで、最初はそうとわからなかった。しかし、閉ざされたカーテンの内側に大きな甲虫がとまっているのを見て違和感を覚え、その後サンルームが観葉植物と枯葉に覆われているのを見て確信した。家主がいなくなって久しいのだろう。家の中で、管理されないまま茂ったり枯れたりする植物のことを考える。植物を愛する心を持っていた人がいなくなったということを考える。
以前も別の場所で、手入れされなくなった庭を見た。その庭を埋め尽くす植物は雑草ではなく、様々な園芸種だった。そう気づいたとき、その庭を大切にしていた人の姿が思い浮かんで少し胸が苦しくなった。私は離れ小島のような野良庭を愛す。だけど庭自体が野良化してしまうのは、切ないものだ。
心をざわざわさせたまま別のブロックに移動する。滑らかな葉と凛とした花が美しい白百合に出会う。だんだん暑くなってきた。麦茶を飲み、塩入りの飴玉を口に含んでまた歩く。
これは今日一番の収穫。ドクダミの鉢植え。おそらく、最初は別の植物を植えたはずだ。そうに決まっている。それがいつの間にかドクダミの棲家になった。ドクダミのタフさと人間の諦め両方を感じられて味わい深い。
塀の下から盛大にはみ出す菊の葉たち。冬になったら花がたくさん咲くのだろうか。その頃また見にきたい。
住宅地を抜け、人通りの多い場所に出た。小さな公園を見つけて入ってみる。
入った途端、ここは私好みの「風化しつつある公園」だとわかる。要するに手入れが行き届いていないのだ。入り口から入ってすぐ、草がたくさん生えている。砂地に生える草はいかにも健気で、砂漠に生える植物のような趣がある。
ベンチの隙間から顔を出すシダが、いかにも利用されていない公園という風情でたまらない。他2つのベンチもそれぞれの植物たちで個性的に彩られていた。この公園の斜向かいに同じくらいの規模のキレイな公園があることにも物語を感じてぐっとくる。
公園を出て少し行くと、白い花をつけたツタバウンランが歩道に広がっていた。錆びた金属と蔦植物の組み合わせはいつ見ても素晴らしい。野良庭は「文明と野生の揺らぎを感じる場所」と定義しても良いかもしれない。
アルミ塀からはみ出してくる蔓。梅雨が明けたら、雑草と呼ばれる植物たちは爆発的に増えていくだろう。人間にとっても本格的な草刈りシーズンの到来だ。毎年毎年飽きもせず、私たちは領土を争う。
帰り道、ノウゼンカズラが鮮やかな朱色の花をたくさん咲かせているのを見た。今は雲に隠れているが、実際はもう初夏なのだ。
最後までご覧下さりありがとうございました。まだ体が暑さに慣れない時候です。散歩の際は水分補給にご留意下さい。