野良庭散歩7
- 更新日: 2022/02/10
真冬の路上植木鉢
大寒を過ぎたばかりの、東京は真冬である。夜中に雪が降るかもしれないと言われていたが、目覚めてみれば霜さえ降りず雨に濡れた土やアスファルトや自動車があるだけだった。思いのほか冷え込みが厳しくなかったことに気を良くして、私は散歩に出ることにした。
空には灰色の重たい雲が垂れこめ、時折冷たい風が吹く。私は歩道と民家の塀の継ぎ目ばかり気にしながら歩いていく。
逞しい雑草たちもさすがにこの時期は堪えるようで、生き生きとした野良庭はなかなか見つからない。瑞々しいのは生垣の低木ばかりで、それらですらこの寒さを耐え忍ぶため葉を赤く変色させている。
いつの間にかこぢんまりとした商店街に入っていた。通りの雰囲気を明るくするためだろう、鉢植えがあちこちの店先に置かれているがほとんど何も植えられていない。鉢に残された土と養分を目ざとく見つけた草たちが住みつくばかりだ。
ビールグラスからあふれ出す泡のように鉢植えからはみ出しているのはマルバマンネングサだろうか。最初はきっと花と寄せ植えされていい子にしていたのだろうけど、環境に順応した多肉植物の繁殖力は恐ろしい。
壁と塀の隙間に設置された鉢植え。そばに菜箸が刺してあるのは何故だろう。この辺りから、通常の野良庭(土の無いような場所に生える植物たち)ではなく真冬の植木鉢を見ていこうと意識を切り替えることにした。
店舗の入り口横に置かれた大量のサボテンたち。おそらくみんな同じ種類だ。増えるたびに株分けしていったのだろうか。同じ植物ばかり鉢植えにしているのを見ると、情に厚い人が育てているのだろうなと思う。きっと自分で育てたものは、手元から離せないのだろうと。私なら、増えてしまっていらない分は誰かに譲るか破棄してしまう。でも、見当違いだろうか。実際はこの種が好きで、ひとつひとつの個性を楽しんでいるのかもしれない。
建物の隙間の奥でひっそりと生き延びるシダを見つけた。風が直接当たらない分過ごしやすいのかもしれない。どこかから飛んできたであろう室外機カバーのアルミは、土も保温してくれるのだろうか。
商店街を抜けた先の植え込みでやっと花に出会えた。とはいえすでに枯れかけている。菊は冬の花だと思っていたが限度があるようだ。仲間が色を失ってゆくなかで、最後の灯という風情で咲いている様に美しさを感じる。
水仙は春のさきがけ。ここから梅が咲きチューリップが咲き桜が咲き、季節をバトンタッチしてゆく。
幼いころ住んでいた家の周りの雪の中から一番に芽を出すのはクロッカスで、その次が水仙だった。なんの手入れもしないのに土の中で球根は力を蓄え、どんなに寒くても日が長くなってくれば緑の固い芽を出した。それも律儀に毎年。北海道の長い冬には、菊も椿も蝋梅もない。街路樹のナナカマドの赤い実ばかりが鮮やかだった。真っ白でふかふかな雪のことは大好きだったが、それでも春の気配を感じることは格別に嬉しかった。自宅の軒下から芽が出ると、私はきまって散歩に出かけた。町内をぐるりと回って花の芽を探す。見つけた時の幸せな気持ちは未だに記憶に残っている。私の散歩の原点はきっとそこにある。東京でクロッカスはほとんど見かけないけれど、水仙を見ると思い出す。黄色くて鮮やかな小さなラッパはきっと、春を呼び込むファンファーレを吹いている。
水仙の色や形はさまざま。30年前の地元には黄色いラッパスイセンしかなかった気がする。こんな風に白くて小さい花が集まっているのを見ると、ことさら可憐に感じる。
建築事務所の外階段と駐車場の間にカタバミが群生していた。日差しがないため花は閉じている。普通のカタバミよりだいぶ葉が大きく、密集していると迫力がある。ハナカタバミだろうか。道路を挟んだ向かい側にも同じような群生地があった。
スーパーの裏手を通る。トラックヤードの段差に元花壇であろうスペースを見つけたが、今はマンネングサで埋めつくされている。コンペイトウのような葉が紅葉していて可愛らしいが、生き様は逞しい。
やっと見つけた野良庭らしきもの。かなり弱々しく、かろうじて立っているという雰囲気だ。茎が長いからタチチチコグサだろうか。いや、ただ葉が枯れただけかもしれない。雨上がりの苔は元気いっぱいだ。
この地域には造園業者が多い。庭木畑もよく見かけるし駐車場の端にこんなに大きなリュウゼツランが置かれていることだってある。シュロやアロエなども並んでいた。
川に来た。一向に雲が晴れず、手袋をしない手の冷たさが限界に近づいていた。私は自動販売機で温かいお茶を買い、川べりで休憩することにした。この寒さでも鴨たちは勢力的に活動している。短いしっぽをぷりぷりと震わせながら次々と川へ入り、機敏に泳ぎ回っている。背後のコンクリート壁では苔がふっくらと盛り上がり存在を主張していた。
水浴びするカラスを眺め、川沿いに植えられたソメイヨシノのまだ固いつぼみを確認すると、私は川を後にした。コートの左ポケットに温かいお茶の残ったペットボトルを、右ポケットに偶然持っていたカイロを入れて手を温めながら住宅地へ入っていく。さっそくブロック塀からあふれ出すアイビーに出会えた。
この繊細な葉の植物はなんだろう?見た目ほど柔らかくはなく、どちらかといえば少し張りがある。四角いプランターに植えられているのだが、それが見えなくなるほど茂っている。
飲食店の脇に植木鉢が並べられていて、その中身はどれもこんな感じだった。人間が意図しない、雑草の寄せ植えだって味わい深い。もしかして、白く変色している葉だけは園芸種だろうか。
植えたものが枯れたのに勝手に生えてきたり、手入れが行き届かないうちに上がりこんできたり、なんなら土がないところでも隙があれば芽を出し、わずかでも養分があれば茂る。雑草と呼ばれるものたちの生命力には毎度のことながら驚かされる。
路上に設置された園芸棚が好きだ。ゼラニウムは寒さにあてられて変色しているがサボテンは平然としている。さすが多肉植物の仲間と言うべきか、やはり適応すると強い。サボテンとゼラニウムはものすごく流行った時代があるのだろうなと古い住宅地や商店街を歩くたびに思う。園芸の流行り廃りの歴史を学んでみたくなってくる。
どこにでもあるワイヤープランツ。植木鉢や小さな庭にきちんと収まっているうちは可愛いらしいが、民家の敷地からはみ出してこんもりと生い茂っているのもよく見かける。ワイヤープランツは流通名で本当の名前はミューレンベッキアというらしい。
人工物の間から存在感を放つ植物。それを見つけた時の畏怖というか、ゾクッとする感じがたまらない。できるだけ大きくなってできるだけ明るい方へ伸びていこうという強い意志を感じる。「生きている」と思う。こういう風景に出会えるから散歩はやめられない。
今回の散歩で、さすがの野良庭も真冬には姿を隠していることがわかった。でもきっと今も種や胞子の形で眠りながら芽吹く時を待っているのだろう。
まだまだ辛抱が続きそうな世の中ですが、諦めずに粘り強くいきたいですね。やっと差してきた日光を浴びるこぼれ落ちそうな椿たちをご覧ください。ありがとうございました。
空には灰色の重たい雲が垂れこめ、時折冷たい風が吹く。私は歩道と民家の塀の継ぎ目ばかり気にしながら歩いていく。
逞しい雑草たちもさすがにこの時期は堪えるようで、生き生きとした野良庭はなかなか見つからない。瑞々しいのは生垣の低木ばかりで、それらですらこの寒さを耐え忍ぶため葉を赤く変色させている。
いつの間にかこぢんまりとした商店街に入っていた。通りの雰囲気を明るくするためだろう、鉢植えがあちこちの店先に置かれているがほとんど何も植えられていない。鉢に残された土と養分を目ざとく見つけた草たちが住みつくばかりだ。
ビールグラスからあふれ出す泡のように鉢植えからはみ出しているのはマルバマンネングサだろうか。最初はきっと花と寄せ植えされていい子にしていたのだろうけど、環境に順応した多肉植物の繁殖力は恐ろしい。
壁と塀の隙間に設置された鉢植え。そばに菜箸が刺してあるのは何故だろう。この辺りから、通常の野良庭(土の無いような場所に生える植物たち)ではなく真冬の植木鉢を見ていこうと意識を切り替えることにした。
店舗の入り口横に置かれた大量のサボテンたち。おそらくみんな同じ種類だ。増えるたびに株分けしていったのだろうか。同じ植物ばかり鉢植えにしているのを見ると、情に厚い人が育てているのだろうなと思う。きっと自分で育てたものは、手元から離せないのだろうと。私なら、増えてしまっていらない分は誰かに譲るか破棄してしまう。でも、見当違いだろうか。実際はこの種が好きで、ひとつひとつの個性を楽しんでいるのかもしれない。
建物の隙間の奥でひっそりと生き延びるシダを見つけた。風が直接当たらない分過ごしやすいのかもしれない。どこかから飛んできたであろう室外機カバーのアルミは、土も保温してくれるのだろうか。
商店街を抜けた先の植え込みでやっと花に出会えた。とはいえすでに枯れかけている。菊は冬の花だと思っていたが限度があるようだ。仲間が色を失ってゆくなかで、最後の灯という風情で咲いている様に美しさを感じる。
水仙は春のさきがけ。ここから梅が咲きチューリップが咲き桜が咲き、季節をバトンタッチしてゆく。
幼いころ住んでいた家の周りの雪の中から一番に芽を出すのはクロッカスで、その次が水仙だった。なんの手入れもしないのに土の中で球根は力を蓄え、どんなに寒くても日が長くなってくれば緑の固い芽を出した。それも律儀に毎年。北海道の長い冬には、菊も椿も蝋梅もない。街路樹のナナカマドの赤い実ばかりが鮮やかだった。真っ白でふかふかな雪のことは大好きだったが、それでも春の気配を感じることは格別に嬉しかった。自宅の軒下から芽が出ると、私はきまって散歩に出かけた。町内をぐるりと回って花の芽を探す。見つけた時の幸せな気持ちは未だに記憶に残っている。私の散歩の原点はきっとそこにある。東京でクロッカスはほとんど見かけないけれど、水仙を見ると思い出す。黄色くて鮮やかな小さなラッパはきっと、春を呼び込むファンファーレを吹いている。
水仙の色や形はさまざま。30年前の地元には黄色いラッパスイセンしかなかった気がする。こんな風に白くて小さい花が集まっているのを見ると、ことさら可憐に感じる。
建築事務所の外階段と駐車場の間にカタバミが群生していた。日差しがないため花は閉じている。普通のカタバミよりだいぶ葉が大きく、密集していると迫力がある。ハナカタバミだろうか。道路を挟んだ向かい側にも同じような群生地があった。
スーパーの裏手を通る。トラックヤードの段差に元花壇であろうスペースを見つけたが、今はマンネングサで埋めつくされている。コンペイトウのような葉が紅葉していて可愛らしいが、生き様は逞しい。
やっと見つけた野良庭らしきもの。かなり弱々しく、かろうじて立っているという雰囲気だ。茎が長いからタチチチコグサだろうか。いや、ただ葉が枯れただけかもしれない。雨上がりの苔は元気いっぱいだ。
この地域には造園業者が多い。庭木畑もよく見かけるし駐車場の端にこんなに大きなリュウゼツランが置かれていることだってある。シュロやアロエなども並んでいた。
川に来た。一向に雲が晴れず、手袋をしない手の冷たさが限界に近づいていた。私は自動販売機で温かいお茶を買い、川べりで休憩することにした。この寒さでも鴨たちは勢力的に活動している。短いしっぽをぷりぷりと震わせながら次々と川へ入り、機敏に泳ぎ回っている。背後のコンクリート壁では苔がふっくらと盛り上がり存在を主張していた。
水浴びするカラスを眺め、川沿いに植えられたソメイヨシノのまだ固いつぼみを確認すると、私は川を後にした。コートの左ポケットに温かいお茶の残ったペットボトルを、右ポケットに偶然持っていたカイロを入れて手を温めながら住宅地へ入っていく。さっそくブロック塀からあふれ出すアイビーに出会えた。
この繊細な葉の植物はなんだろう?見た目ほど柔らかくはなく、どちらかといえば少し張りがある。四角いプランターに植えられているのだが、それが見えなくなるほど茂っている。
飲食店の脇に植木鉢が並べられていて、その中身はどれもこんな感じだった。人間が意図しない、雑草の寄せ植えだって味わい深い。もしかして、白く変色している葉だけは園芸種だろうか。
植えたものが枯れたのに勝手に生えてきたり、手入れが行き届かないうちに上がりこんできたり、なんなら土がないところでも隙があれば芽を出し、わずかでも養分があれば茂る。雑草と呼ばれるものたちの生命力には毎度のことながら驚かされる。
路上に設置された園芸棚が好きだ。ゼラニウムは寒さにあてられて変色しているがサボテンは平然としている。さすが多肉植物の仲間と言うべきか、やはり適応すると強い。サボテンとゼラニウムはものすごく流行った時代があるのだろうなと古い住宅地や商店街を歩くたびに思う。園芸の流行り廃りの歴史を学んでみたくなってくる。
どこにでもあるワイヤープランツ。植木鉢や小さな庭にきちんと収まっているうちは可愛いらしいが、民家の敷地からはみ出してこんもりと生い茂っているのもよく見かける。ワイヤープランツは流通名で本当の名前はミューレンベッキアというらしい。
人工物の間から存在感を放つ植物。それを見つけた時の畏怖というか、ゾクッとする感じがたまらない。できるだけ大きくなってできるだけ明るい方へ伸びていこうという強い意志を感じる。「生きている」と思う。こういう風景に出会えるから散歩はやめられない。
今回の散歩で、さすがの野良庭も真冬には姿を隠していることがわかった。でもきっと今も種や胞子の形で眠りながら芽吹く時を待っているのだろう。
まだまだ辛抱が続きそうな世の中ですが、諦めずに粘り強くいきたいですね。やっと差してきた日光を浴びるこぼれ落ちそうな椿たちをご覧ください。ありがとうございました。