南米・沖縄タウン鶴見で水やりをする散歩会レポ

  • 更新日: 2025/05/29

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水やりをしたら拍手されたことはあるかい?

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水やりをする時、人はよりミクロで細やかな視線をその場所に対して向けるのではないだろうか。鶴見の町の中で見えなくなっている沖縄や南米の文化や歴史といった記憶を、水やりをしながら辿るツアーを作ってみた。

私の友達のひなちゃんはポルトガル語が話せる。そんな彼女と話していた時にふと話題になったのが「鶴見」だった。当時は2023年の秋で、丁度NHKの朝ドラ『ちむどんどん』(2022)が記憶に新しかった。沖縄の本土復帰50年を記念して作られたこのドラマのストーリーは、主人公の沖縄の少女がシェフになることを夢見て、沖縄タウンのある鶴見へ上京し、修行をするというものだ。鶴見は沖縄タウンと呼ばれ、1920年代半ば川崎・鶴見の埋め立て工事や関東大震災の発生による労働者不足をきっかけに、出稼ぎに来てのちに暮らすようになった人々が多かったという。南米タウンと呼ばれるようになったのは、1990年に入国管理及び難民認定法が改正されてから、日系三世までに日本定住が認められるようになってからのことだった。



これは2023年8月28日、最初にひなちゃんと鶴見を散歩した時に入ったペルー料理レストラン・エル パイサノでの写真。ビニールの袋が上にだけ付いている、ホスピタリティの高いストローに私達は沸いていた。
そして私は、リサーチして二つのことを思いついた。

① 水をあげたいというひらめき

そんな鶴見をリサーチして歩いていると、ふと、とある建物の裏にあるアロエに目が止まった。そこは日本料理の居酒屋が入っている建物だったが、以前そこにはブラジル料理屋があったらしかった。日本料理屋の表には木が植えられた小さな庭があり、それは雰囲気を醸し出すのに一役買っていたのだが、駐車場側の裏の陰になっているスペースには土の乾いた、おそらく手入れのされていないアロエの植木鉢があった。それは私にはまるで前の店のブラジル料理屋の忘れ物のように感じられた。(実際には、今の店主の持ち物かもしれないが)空を見上げてみると、天気が晴れていた。たしか昨日も晴れていた。けれど、その植木鉢の土は誰にもケアされていないから、乾いているような気がした。そして、その植木鉢に、水をあげたいなあ、とただ思った。

②再発見されるべき"今はない"鶴見らしさ

沖縄タウンと呼ばれ、朝ドラのロケ地ともなった鶴見だったが、実際に散歩をしてみると、「沖縄らしさ」「鶴見らしさ」を見つけることができるのは、仲通りだけで(ロケに使われたのもきっと路地のほんの一部だろう)、当時の面影は今やそんなには残っていないような気がするというのが正直な感想だった。けれども、よく目を凝らしたり、リサーチをしてみると、町の至る所にその名残を見つけることができた。

この二点を踏まえて、ツアー内容を以下のようなものにした。

・かつての鶴見を、水やりしたくなる植物に水をあげながら歩く。

・今はもう無い、鶴見らしさがあった場所(以降”今は無い場所”と呼ぶ)についたら、その場を探索する。その後、その場所がかつて何であったかについての資料をAirdropを通じて参加者に送信して答え合わせをする。

SNSで参加者を募ったり、友人に声をかけてみたところ、私とひなちゃんを含めて7人で一緒に歩くことになった。2023年10月14日の13時に鶴見駅の西口で集合。当時の募集文には「散歩をすることで何ができるかを考えるためのドローイングのような企画です。気軽な気持ちで同行して貰えたら嬉しいです」と書かれている。それってすごい、いいね。

*鶴見沖縄県人会の取材協力には大変感謝しています。沖縄の移民二世である副会長の並里さんとお話ししました。彼は当時72歳。並里さんは学生時代にドイツ語を学び、出版に関する仕事を長い間していましたが、それは当時の彼が沖縄と距離を取っていたことの現れだったそうです。お酒をよく呑む沖縄の人々に対して自分は”野蛮”というように思っていたんだ、と彼は話しました。しかし、お父様が県人会を退く際に、沖縄の文化を守りたいという決意が固まったのだそうです。並里さんの協力によって、昔の町の資料を見せてもらったり、労働者として実際に沖縄から来たお爺さんへのインタビューも叶いました。

人も、文化も変化して、目に簡単に見えるものはいつか消えてしまいそうで、だけれども、そうして取材した全てのことはとても生き生きと力強く語られて、私の心の中にずっと残っています。(当時から一年半も前のことになるが、今日どうにか記憶を書き残してみたい。)



ちなみにこれは当日のログだ。6時間半程歩いている。

この日カメラを持って自宅の階段を降りていたら、当時度々「警察ごっこ」をしていた近所のお爺ちゃんに、「何を撮っているんだ!俺は警察だぞ!」と脅されてとても怖かった。お気に入りのシャツもズボンも黒かったから、不審者に見えたんだろうな。そんなアクシデントでハラハラしながらも、待ち合わせの場所でみんなを待った。

散歩会は基本的に遅刻を許しているのだけど、記念すべき最初の遅刻者が出たのはこの散歩会だった。誰が遅刻したかはあんまり覚えていないんだけど、私の中学高校の同期であり、25歳の時の同窓会で初めて話したご縁で足を運んでくれたミク君は遅れて来た。

参加者が集まったところで、自己紹介をし、沖縄山パイウォーターを手渡した。この水は、リサーチの中で発見したものだった。仲通りのおきなわ物産センターやその近くにある自販機で手に入れることが可能だ。「この水は”花が咲くメカニズム”の研究から生まれた水らしい。」などと言い、軽い説明をする。(※パイウォーターについて… πウォーターは1964年に山下昭治農学博士が提唱した水であり、彼は生体システムの研究を長年続け、「花が咲くメカニズム」に注目をしていた。「季節によって咲く花が違うことや、桜が咲くのは春と決まっているのはなぜなのか」という疑問から研究を進めていくうちにわかったのが、「二価と三価の鉄塩に誘導された水」が植物に含まれているということを発見し、それが花を咲かせるのだと述べた。あくまでπウォーターは自然の中で生まれるもので、今の技術では人工的に作り上げることが不可能な水だと博士は述べているが、そのような研究がきっかけで生み出された水がπウォーターらしい…信じるか信じないかはあなた次第!けれども、沖縄の町の中の至る所にπウォーターの店が発見できることが記された2014年のブログ記事なんかもある。そして沖縄といえば、風土柄水不足になりやすく、又米軍基地からの化学物質PFASによる水汚染の問題を抱えている。)



「まずは、一口ほど飲んでみて下さい。」と言い、みんなはそれを味わう。水を飲むことで、ペットボトルの水が減る。 そこに、針で穴を開けてじょうろにする。この時、持ってきた針が細くて、ほとんど折れてしまったのだが、私は笑った。じょうろは無事に全員作ることができた。そこから東口の冴えない方(と呼んでいる左側の階段)を下りる。鶴見駅ってサルビアホールがあったりと、本当はかなり栄えた印象があるのだけれど最初に裏路地から探索して行く。




最初に到着したのは冒頭に書いたアロエのある居酒屋さん。かつて「ブラジル料理屋」があった場所だ。





アロエはここに。みんなアロエに水をあげたくなるかな、と思ったけれど、そうでも無い感じで、あの気持ちは私だけのものだったかもしれない。さて、”今は無い場所”に着いたら、参加者にはその場所についての資料がAirdropで配布される。この場所で、みんなに送られたのは...




食べログのレビュー。








今はもう無いはずのお店が、まるで今ここに立ち現れるかの様な素晴らしいレビュー。店の内装、そこにいた人たち、料理の味、流れる音楽、身体や心の動きが表現されている。文化や歴史がこのレビューの中に閉じ込められている。


その少し先に、「ズエンハイ」というベトナム食材のお店が。ベトナム国旗が目印。



ここには大きくて冷凍された、ちょっと見慣れないような大ぶりの魚介類、フルーツ、春巻きやフォーを作るための材料が揃っている。ミソはここでMi Lau Thaiとパッケージに書かれたタイの火鍋風ヌードルを、石井君はタマリンドをゲット。このお店の外に小さな植木鉢があって、石井君はそこに水をそっとあげた。

そこから駅前通りの大きな道に一度出て、また路地へ入って行った。そちらはスナック街となっている。みんなは移動中も人それぞれ、思い思いに水やりをした。



二人とも、息が合っている。



その先でも急にミク君が立ち止まって、水やり...




次にたどり着いたのはこの空き地。ここも”今は無い場所”である。一体何が”無くなった場所”なのか、探索してみる。




こんな風に、まだ前の店の名残がある...




生えていた木の実を食べてしまって、とっても苦くてきゃーきゃーしている。




謎の土を目の前にして立ち尽くす二人...




お皿が残されている。そこに、なぜか水をやる。

ここには水道が剥き出しのまま残されていて、蛇口を捻ると水が出たりした。

そんなことをしていると、不意に近所のお婆ちゃんが声を掛けてきた!きっと、何をしているのだろうと不安だったに違いない。私はどきどきとした。でも、そんな時ミク君はニッコリと屈託の無い笑顔で、「水やりしています!!!」と言った。そうしたらお婆ちゃんは、「偉いねえ〜〜〜!!!👏」と手を大きく叩いてみんなを褒めてくれた。すぐ側のカラオケバーを経営していて、ここはビルがあったよ、この辺はみんなマンションになっちゃったよ、など教えてくれる。噛み締めたような素敵な笑顔で。



お婆ちゃんの言う通り、駅から近い一帯は、次々とビルが建設予定になっていて、この空き地も一ヶ月後に私が再び訪れた時には白い壁が建てられて建設が始まっていた。そんなこの空き地は「ぐるくん」という名前(沖縄の県魚・タカサゴのこと)の居酒屋だった。けれど不思議なことに、お婆ちゃんは「そんなものはなかった」と私たちに言う。ずっと日本居酒屋だったよ、と。ここで、画像をAirdropする。




画像資料によれば、ぐるくんは移転して「遊びなぁ-」になった、とある。そこで、移転先の「遊びなぁー」へ行ってみる。けれどもそこは、水をあげることも難しいような場所に変わっている。




みんな、隙間に植物が生えていないか、覗き込んだ。

「遊びなぁー」は 2021年の秋まで口コミがあったが、 転身先のこの店もまた閉店となったようだった。 琉球民謡を生演奏で見ながら、まるで沖縄にいるかの様にお酒を楽しむ事が出来、 料理もまた沖縄の味そのものだったという。 沖縄出身のお客さんも多くいて、盛り上がっていて、初めてでも溶け込みやすいという口コミが残されている。石井君は口コミを読んで、そのサイトに載っている番号へ電話をかけた。しかし、電話は繋がらなかった。電話をかけた横顔にかかる秋の日差しがとっても眩しかった。




そこから、Timesの駐車場へ。ここもまた、”今はもう無い場所”の跡地。




やっぱりここにもあんまり植物はいないのだけれど、枯れ草だったりに水をあげる。みんな、駐車場の縁をウロウロとして、なんとか敷地内に草木を探していた。自販機の下には苔が生えていて、ちひろさんは優しくそれを見つけて水やりをした。

答え合わせ。






この、ツンデレレビューっぷりにみんなは笑顔になった。愛が、伝わってくる。






謎の箱が落ちている。中身のほとんどはがらくただけど、不思議と宝物が詰まってるみたいな明るさがあった。




県道の方へ出ると、地域の人々と交差できる地下通路に潜る。

鶴見の語り口三選。










鶴見川橋の方へ。ここはかつての東海道。古い建物や跡地なども見つけられ、この前にも古民家があった。




釣りのおじさんがよくいる川。ミソは川に水をやる。そして自分にも水をやる(水を飲む)。




私たちの他にも歩く人がいる。そして鶴見市場駅エリアへ。1500年の半ば頃にこの辺りには市場があったが、 現在は生麦事件で有名な生麦に移動した。




花に触れながら歩く。




線路脇に可愛らしいタバコ入れ。踏切で待っている間に吸って捨てるのかな。




歴史のある酒屋さんが残っている。とても立派な佇まい。銅板で作られた古い酒看板が掲げられたこの店にはカウンターがあり、かつて角打ちとして使われていたものの名残があるという。ここへ、この先にあった自動車工場の工員たちが足繁く通ったそうだ。つまりバーのような感じなのかな。

この酒屋さんの脇の道を通っていく。とある古いアパートの前で私達は足を止めた。そこは塀の高さも現代の私達には低く感じられ、簡単に乗り越えられてしまいそうな高さだ。そのアパートの塀の側の通路には意味ありげに真白いスニーカーが並べられている。奥のアパートは新築のものだ。そんな風に、つい最近にできた建物と古い建物が混在する住宅地となっている。誰も住んでいないような住居なのだけれど、じっと見つめると、メーターが動くのがわかる。固唾を飲んで私達はそれを見守った。




何やら少し怪しげな占いの家がある。その家を目印に右の道へ進むと、空き地があって、それは象牙の小売・合成蛇皮などを扱う三味線の修理販売屋さんの跡地だ。空き地に生えているのが沖縄の花・テッポウユリの蕾であることが、”今は無い”そのお店の名残だった。




魚魚鮮で昼食。なんでもかんでも大きい。そしてベンチとテーブルがあるのがいい。みんな昼ご飯を食べずに歩きに来ていたので驚きである。もう14時半頃だったかな。トイレも使わせてもらい、休憩ができた。




体力を回復して、歩くことそれ自体を楽しんでいる。この側には大きなマンションがあって、ヤシの木が生えていた。




インパクトがある!




潮田という町のエリアにいるらしい。東海道の道中の休憩所だという。この辺りにあるのは八百屋さん、リサイクルショップ、ゴム通り。日常的な住宅地の方へと進んで行く。がらんとしたレトロな雰囲気が漂っている。









仲良く並べられているのが可愛い。




随分と古いフォントの看板が残っている




味わいのある共同石鹸株式会社の裏にもまた、”今は無い場所”があるのだが、そこはもう新築の家に建て替わっている。家には細い植木が生えていたけれど、ちひろさんはその新築の家の前の小さな雑草に水をやった。ミク君は、何も無いはずの地面を見つめていた。あるいはそこに、小さな草花を見ていたのだろうか?




私達は銀色のバーに寄って集まって、三線の動画の映像を再生した。かつてここには野村流音楽研究所という琉球古典音楽を学ぶ場所があった。琉球古典音楽は14世紀末から15世紀に中国から伝わったとされる三線と密接に関わって発展し、師匠に型を教わる安冨祖流(あふそ)と譜面で独学が可能な野村流が現在に伝統を継承している。野村流は数ある流派の中でも、譜面による自主学習を可能にすることで広く広まったという。






可愛らしい緑色の建物。この辺りはポップな色合いの建物が時折あった。水色の可愛いアパートはミソにきっと似合うな。ツタに覆われた、トタンのアパートも健在。そのツタは青々としていてとっても元気だった。




怖い看板。ミソがここでポーズをとって見せてくれたので、写真を撮った。

水の撒き方色々。


▲乗せる


▲公園で


▲飲む




沖縄の食べ物では無いのに、沖縄の香りのする看板




タクシー会社の営業所のあるこのビルの2階には、パライゾ・ブラジルヨコハマがある。パライゾとはポルトガル語で天国の意。




ママさんは驚きながらも、私達を受け入れてくれた。食材や日用品も販売するレストランだ。店内にはテーブルがあり、この日も馴染みのお客さんが家族連れで来ている。ここで早速、石井君は不思議な食べ物や洗剤をゲット。ミク君は店員さんに香辛料の名前を教えてもらっている。ひなちゃんは、ママさんと会話している。私の知らない言語で。




不思議なお菓子をパクリ。甘かった

ママさんは不意に私達に青い小さな聖書をプレゼントしてくれた。私はそれを部屋の窓辺に今でもずっと置いている。




店の天井に飾られた木の板には日本語で聖書の言葉が書かれている。




業務スーパー(潮田店)へ立ち寄ってみる。この業スーの天井からは万国旗が吊り下げられている。様々な国の珍しい食べ物が売られている店内を一周して、店を出る。ここにも実は"今は無い"ものがある。私達は駐車場の小さな芝生のスペースの上で、業スーに”今は無い”ものは何か、スーパーへの取材音源を再生し、耳をすませた。



「あ、そうですね、大体あの直輸入が多いですもんね、はい」

「はい。業務用スーパーさん自体がそうなのかなとも思ったんですけれども」

「ええそうですよ。大体あの業務用スーパー自体が世界からの色々なものを輸入している感じですよね」

「で、南米・沖縄タウンとか呼ばれているじゃないですか。その辺りで意識していることとか、あるのかなっていうのを知りたかった」

「関東大震災以来から、沖縄、それから南米、すごく人が増えてきて、まだ二世三世で、ますます、ですね。大分、外国人の方とか、小学校でもそうですけど増えましたよね。うちの方でもオリジナリティを出していたんですが、業務スーパー自体は店舗を統一したい(フランチャイズ化)ということで、うんあの、大分最近はどこも扱っているものが大体同じ商品が店頭にあって、という感じになりましたね。残念ながら。」

(音源終わり)

このスーパーには、南米ルーツの住民なども多く訪れるようで、恐らく店内の商品は料理などには役に立つようなのだが、現地のことを考えて商品を選んでるわけではないから地域性は実はここにはない。会社の利益追求の結果が、現代的な共存イメージを示しているような気がする。かつてこの業務スーパーでは、ブラジル人のアルバイトの子にポルトガル語のポップを手作りしてもらい、オリジナリティのあるコーナーを作って商品を販売するなどしていた。しかし、三、四年前(現在からであれば四、五年前)に会社の方針で全て統一することになり、他店舗と変わらないラインナップになったという。

仲通りの方へ。




シーサー






これは隣接するコインランドリーの作業用の倉庫の前。南米からの移民は当時、都市部に移り住むとクリーニング店で働いた後、自立するというのが相場だったという。

その先には「サエキ」と「マハロー」、二つのスーパーが道路を挟んで真向かいに並んでいる。サエキは関東で主に展開するスーパーマーケットだ。マハローはハワイ語で「ありがとう」という意味で、海外輸入系のスーパーマーケットだ。ここには日本のスーパーと、海外のスーパーが並んでいるのだが、サエキはすごく寒くて、マハローはそれに比べてあたたかい。それを体感するためにサエキの店内を一周してみた。ミク君が寒そうに身を縮めている。サエキは天井付近に扇風機、肉と魚売り場は剥き出しで蓋のない冷凍ボックスに並んでおり、結露と霜が見られる。夏のリサーチで来店した時でも長袖を着ている店員さんが多かった。私達はここでトイレに入らせて貰った。優しい。




雪みたい

石井君はここでヨーグルトを購入。彼はこの一日、生活に必要なものを着々と買い集めている。




マハローへ




日本では見慣れないけれど、海外のあの感じで一杯の品揃え。香りがして色とりどりの化粧品に始まって、可愛らしい雑貨コーナー。その隣にはアジアからヨーロッパ、南米など様々な国のジュースが並ぶ。日本のグミも沢山揃えられたお菓子コーナー。肉のコーナーへ行けば、「リングイッサ」というブラジルのソーセージのポップも。ここで働く店員さんも、来るお客さんも様々なルーツのようだ。ズエンハイで見たように、鮮魚コーナーも大きな珍しい魚がいっぱい。




ミク君が、猫みたいなポーズでポンデケージョをゲットした。マハローの店内にはパン屋さんやハンバーガーショップがあり、観葉植物の置かれた飲食スペースがある。私達はここで手に入れたプリングルスを分け合って食べた。ここで売られているプリングルスは高確率でパッケージが凹んでいる。でもそんなところが可愛くて気に入ったので買ったのだ。私達は他に、ペルー産のインカコーラや人参ケーキなどを食べた。その辺りで、ちひろさんは次の予定があるので帰って行った。去り際の笑顔がとっても素敵だった。




おきなわ物産センターに立ち寄った。まるで沖縄旅行へ行って、現地で買い物をしたような気持ちになれる。伝統的な人形からキャンベル缶まで。何人かがオリオンビールを買って、ほろ酔いになる。




すぐ隣は取材先の鶴見沖縄県人会会館。ここにはかつて劇場があり、その後は映画館があった。

青い服の二人の作業員が、私達の横を通り過ぎていく。

横の路地に入ると、琉球新聞などの新聞紙やイベントポスターが沢山貼ってあった。突き当たりに可愛らしい黄色いカーテンがかかっていてそれ以上は進めないようになっている。






ここのπウォーターはちょっと高い。




パライゾの移転前の店舗のロゴが残されている。かつてはこの通りにあった。




雰囲気のある煙草屋




ここはこの町では言わずと知れたブラジル食材店。




ボリビアの入植地から戻って来た日系人夫婦の営むレストラン。二人とも沖縄ルーツだ。


大きな通りを渡ると、明正寺が見えてくる。ここでは水やりではなく、寺の前で手水をする。このお寺の境内にも、”今は無い”ものがあるのだ。




ここで私達が目にしたのはこんな写真だ。



これはかつて、この場所で稽古をしていた空手道場である前徳道場の仲間たちの写真。写真にはサングラスにリーゼント姿の前徳さん(師匠)、そしてその弟子たちが映っている。みんなリーゼントにしてちょっとだけ睨みをきかせている。写真の中で反抗的に?俯いている青年は、86才のお爺さんで、この方がこの写真を取材の中で見せてくださった。彼は若い頃に労働者として沖縄から鶴見へ来たのだ。

沖縄の空手は薩摩藩によって武器を取り上げられた琉球人が素手で生み出した「反抗の武術」であり、大きな権力を前に苦しめられた沖縄の人を象徴するような武道だった。今は後継者がいなくなり、道場跡地には新築の家が建った。数年前までは、鶴見で他の道場の電信柱の広告なども見かけることができたようだが、今は見つけることができない。

私はある日お爺さんの家に直々に電話をかけて取材をさせて欲しいと頼んだ。その日は強い急な雨が降っていたが、「今日!」と言われたので、急いで雨の中お爺さんの家を訪ねた。お爺さんは沢山の資料を用意して待っていてくれて、その内の一つがあの集合写真だった。真ん中には勉強熱心な坊主頭の男の子の姿が映っている。当時の在日朝鮮人の帰還事業によって、彼は北朝鮮へ帰って行ったという。「こっちで空手やってさ、で、向こう行って、やってるんじゃないかな、北朝鮮で。」坊主がもし、故郷でも空手をしたら、北朝鮮にも琉球空手が存在するかもしれない。お爺さんはそう信じていた。

そして、彼のインタビューの声をiPhoneから再生した。空手の型をはきはきと大きな声で教えてくれる様子や、75歳で空手をリタイアした後に始めた三線を披露してくれた時の音色、そしてお爺さんが大切にしているカセットテープの曲がこの場所で流れる。それは「黄金の花」という曲だった。

黄金の花が咲くという
噂で夢を描いたの
家族を故郷、故郷に
置いて泣き泣き 出てきたの

素朴で純情な人達よ
きれいな目をした人たちよ
黄金でその目を汚さないで
黄金の花はいつか散る・・・

お爺さんが曲の途中で、テープを止め、カチリと音がする。

「今もうね、令和の時代になったからもう空手をね、やる人もだんだん少なくなったね。」

「うん。うん。」

「うん。だんだんもう、そうな、昭和だな。昭和の時代が一番良かったんじゃないかな。昭和。うん。もう、平成も三十年続いたけど、平成の頃なんてね、いくらかね、空手道もうっすら遠くなった。」

お爺さんは鶴見区でタクシー運転手として働き、空手は職業柄、自分の身を自分で守ろうと考えたために習っていたと話した。86歳のお爺さんは私よりも小さいけれど、声も立ち姿もとても力強かった。インタビューは彼の自宅の和室で行ったのだが、話し終えて初めて私は壁にかけられた職場での無事故を評する賞状や、彼の運転した車の写真が部屋の高いところに飾られていることに気がついた。その人と話して、知って初めて見えてくるものがあり、それに気づいた時のことが忘れられない。




明るいけれど、シャッターの降りた商店街。ここで、ミク君は飲み会の用事のためにバイバイ。




住宅地を再び歩く。

たどり着いたのは、とあるアパート。ここが本日最後の「今はない場所」だ。




もうほとんど水をあげられる草が見当たらない。(でも実は、アパートの裏の隙間に庭のように草が覆い茂っている)




ここはかつてラテン・フラメンコギター教室のスタジオアスールがあった場所。私達は当時の動画を再生した。近隣の老人ホームでフラメンコを披露している記録映像だ。「フラメンコの旋律と日本の演歌の旋律には同じ部分がある」と動画内では説明される。情熱的で激しく、同時に哀愁の漂うギター演奏の後には、ホームのお爺ちゃん・お婆ちゃん達が演歌を皆で朗らかに合唱する。もちろん伴奏はフラメンコギターだ。先生は砂辺光男さんで、地域のイベントや老人ホームでのコンサートなどのボランティアで演奏活動をしていた。砂辺さんは51歳のとき家業の水道工事関係の会社をたたみ、若い頃に弾いていたギターを数十年ぶりに引っ張り出して再びギター演奏をスタート。砂辺さんのご家族の営む光設備工業株式会社もここにあった。この町で電気工事士を生業にする移民の方は多かった。




このバーからはママさんとお客さんのカラオケの歌声が聞こえてくる。

この辺りのスーパーで、また誰かがトイレへ行ったかな。




もう一度、川を渡る。渡ったら、左の方へ。潮の匂いが強い。船も泊められている。つり具屋さんが見えたところから高架下の世界が始まる。




独特な空気感





戦後の人々の生活が刻まれている。懐かしい雰囲気の門の内側にはまだ住民もいるそうだ。ここは臨港デパートと呼ばれ、商店街のような場所だった。 近年まで国道下という焼き鳥屋があり、16時半に開店し、20時に閉店していたという。

ここは、国道駅。




私達が見上げているのは第二次世界大戦敗戦間際の銃痕が残る壁だ。敗戦の年の昭和20年になると、日本近海に迫ったアメリカ海軍機動部隊の艦載機や陥落した硫黄島から飛び立つ陸軍戦闘機によって、日本本土は各地で低空からの機銃掃射にさらされた。アメリカ軍は逃げ惑う銃後の人々を、まるで兎狩りのごとく一方的に狙い撃ちしていったという。国道駅に残る機銃掃射の弾痕は昭和初期の面影を残す駅舎とともに、今日に残った、暗いトンネルのようだったひとつの時代を伝える貴重な史跡と言える・・・と何かで調べた言葉なのか、私の言葉なのか...もうわからないのだけれど、これを調べた時のメモが残っている。




さほさんはそっと壁に手を触れた。




壊れた窓を遮るためなのか唐突に木が一本植えられている。緑のネットの下に銃痕が。皆は高い場所に水がやれないのでジャンプしたりしてなんとか水をやれないだろうかと苦戦していた。壁の前には沢山の水滴が落ちた。




色んな国の言葉で。




私達は無人の改札を通って、電車を待った。




そうそう。そうだったね。




電車に乗ったら、人がいっぱい乗っていて、車内も明るくてさっきまで私達だけだったのが嘘みたいだった。電車が走り出した時から町の明かりも見えていて、たった一駅で鶴見駅に着いた。そして、表玄関のような、サルビアホールのある東口を初めて目にする。沢山のバス乗り場とタクシー乗り場。人々の往来。その先に続いて行くチェーン店。きっと今この町で暮らす多くの人が知っているのはこの鶴見。私達が見てきたのは”今はもう無い鶴見”

解散して、ご飯へ行こうかな、と思った私とひなちゃんと石井君は、沖縄料理美ら海食堂Mimiでご飯を食べた。お通しはアルゼンチン料理で、厨房にいて最後にお話しすることができたのは沖縄とアルゼンチンにルーツをもつ店長さんだった。お店で働いている女の子も沖縄がルーツであり、三味線だったか琉球の舞踊だったかを習っていた。








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ゆれる木

散歩会をあちらこちらで開催しています。ケアとアートを散歩で結んだり解いたりすることが目標。

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