20数年ぶりに生まれた街を訪ねてみた

  • 更新日: 2019/08/27

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世田谷線はとっくに玉電ではなかったのだ。

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生れた街にはもう20年くらい行ってないのではないか。

先日地元の商店街を歩いていると、とある洋品店から祖母の家の匂いがふわっと漂ってきた。その時に、なんだか懐かしいような悲しいような泣きたくなるような、妙な気持ちが沸き上がってきて、生れた街、そして祖母がいた街のことを思い出したのだった。

場所は世田谷区桜。駅でいえば世田谷線の上町駅だ。いや、個人的には世田谷線でなく「玉電」と呼びたい。私が子供のころ(1980年代)は、家族や友達は皆玉電、玉電と言っていた。調べてみたところ、玉電(玉川電気鉄道)が東京横浜電鉄(現在の東横線)と合併し、玉川線と名称が変わったのは1938年であるから、それから50年余り「玉電」の愛称は随分としぶとく残っていたことになる。さらに1969年には渋谷ー二子玉川間が廃止され現在の「世田谷線」となる。子供のころはあれは玉電だと信じて疑いもしなかったが、とっくに「世田谷線」だったのだ。

まずは渋谷で田園都市線に乗り換え。



渋谷駅ハチ公像のすぐ向かいには、東急線の旧車体が展示されている。まるっこいフォルムとその色から「アオガエル」と呼ばれていたらしい。

渋谷ー櫻木町とあるので玉電ではないが、同じ東急線で近い時代のものなので、記憶にある玉電に近い。しかし自分が利用していた電車が歴史上のもの的に展示されているのはなんとも不思議な気分。

そして三軒茶屋駅。
現在はここから下高井戸まで運航している。現在はというか1969年からずっと。(実際は多少の位置は移動しているらしい)



しかし三軒茶屋もこぎれいになった。



にんじん色のキャロットタワー。自分の中の三軒茶屋のイメージとは程遠い。

とはいえ、三軒茶屋の再開発が進みキャロットタワーが完成したのは1996年だそうで。
「三軒茶屋も変わったなぁ」という感想は多分20年以上前から15年くらい前にかけてに散々出てきたに違いない。完全に今更だ。



改札が自動。
いや、まぁそれはさすがにそうか。



始発だがなかなか乗客が多く、2両編成で座席数が少ないこともあり、座れなかった。
当時を思わせる緑色が基調の車体でテンションが上がる。





上町駅到着。
こぎれいにはなっているが、雰囲気は当時とそこまで変わらないように思う。



世田谷線はヨーロッパの路面電車のようにおしゃれになったと聞いていたが、そうでもなくてちょっとホッとする。



後から知ったが、これは「幸運の招き猫電車」というらしい。ラッキーだ。
しかも今年5月に復活したばかりとのこと。私が世田谷線に乗ったのはおそらく20年以上ぶりなのに、「幸運の招き猫電車」に出会えるとは。重ね重ねラッキーだ。
いやまてよ、復活ということは以前も走ってたいうことなのか。知らない間に世田谷線には色々あったらしい。なんだか愛おしい。(全然顔見せなかったくせに)

さて、玉電(世田谷線)談義はこれくらいにして、当時の家や私が生まれた病院のあたりに向かいたい。

まずは駅前にある、好きだった中華飯店を探してみることに。



駅を出たところに銀行…当時もあった!

三菱UFJ銀行。もちろん当時はその名前ではなかったが(三和銀行だった気がするが定かではない)、この角に銀行があったのは確かだ。母親と何度か来たことがある。



こういう提灯が上町っぽい。

駅からさほど遠くない場所にあったはずの中華飯店は見当たらない。さすがになくなったか。



冷やし担々麺を全面に出した中華店があったがここではない。
こういう感じじゃなくて本当に普通の中華屋だった。ラーメン、チャーハン、天津丼みたいな。大体なんなんだ冷やし担々麺って。絶対本場中国にはないでしょう。(天津丼もないが)



絶対にこの通りだと思ったのだが…



炎天下歩いていたせいかこれが「中華料理店」に見えてしまう。

1軒の歴史ありそうな美容室で聞いてみることに。
店の名前も覚えてなかったのだが、店主はすぐにわかってくれた。

「あ~あそこね。確か……生駒軒」

そうだ!生駒軒だ!出前もとったことがあり、家で食べたラーメンのどんぶりに書かれた「生駒軒」という文字のフォントが頭の中に鮮明に浮かんできた。奈良の生駒山や、元乃木坂46の生駒里奈の名前を聞くたびに、不思議とセンチメンタルな気持ちになった理由はこれだったのか。

しかし…

「あそこはもうとっくの昔になくなっちゃったよ。うちがこの場所に越してきたのが20年前で、その頃にはもうなかったから」
どうやらこの美容室は、今の場所に越してくる前も上町界隈で営んでいたそうで、そのころは生駒軒にもよく行ったという。

「この辺りも変わっちゃってね。しゃれたカフェとかさ、本場の人がやってるとかいうカレー屋とかさ」

店を出ると本場の人っぽいカレー屋の店主がちらっと顔を出した。何かあるのかもしれない。いや、ないと思うけど。
残念だが、時代の波には逆らえない。もう一軒、生駒軒ほどではないが何度か行った蕎麦屋があることを思い出した。



あっさり発見。



ちょうど昼時なのでざるそばをいただく。更科そばは間違いなくおいしい。

ただ、店は随分と小ぎれいだし、なんか違う感。どうやら、15年前くらい前に同じ町内で少し場所を移動したそうだ。しかし15年とか20年とか単位がいちいちえげつない。

昼食後、いよいよ住んでた方向に向かう。



桜小学校はすごくモダンになっていた。





この界隈は書道教室が多い。そして令和率が高い。



背中に×と書かれても笑っている大型犬の表情が切ない。



これはとんかつ屋さんで豚が包丁持ってる的な?全然違うか。いや、抜かれる可能性もあるからあながち間違ってもいない。



当時はなかったスーパーオオゼキ。かなり緑豊かで見えにくいが明らかにオオゼキ。

ということは母は当時どこで買い物をしていたんだろうか。チャットで送ってみると一言「桜通り商店街」と回答が来た。
これも久々に聞いた名前。桜通り商店街、あったわー。記憶から消えてないが久々に掘り起こされる情報が多くて、脳が大混乱だ。
しかし、スーパーがない時代に生きてたのね、私。(実際はサミットストアがあったらしいが少し遠いのでたまにしか行かなかったとのことだ)

地図を確認してみるとすぐ近くに桜通りがあった。



しかしどうも店がない。



パン屋発見。

パン屋の店員さん曰く、オオゼキができてからお客さんが一気に減り、ここは「桜通り商店街」ではなくただの「桜通り」になったとのこと。確かに街灯下の看板は「桜通り」になっている。
桜通り商店街から桜通りに看板を書き換えているさまを想像するとなんとも泣けるではないか。時代の流れよ。

切なくなったところで、家のあたりを目指す。家から徒歩数分のところに病院があったはず。



いい感じの雑貨店。こういうのが上町っぽい。



「モーニング娘。」のVHSビデオ。モー娘。は最近の人のイメージでVHSはすごく古いもののイメージ。うまく結びつかない。



勝光院。家の近くにあった寺で、子供のころはここで祭りが行われていた(気がする)。



竹林に囲まれ、立派な鐘楼もある。

生れた病院はもう近い。



なんと。

病院は跡形もなく、マンションと公園になっていた。
ネットで調べてみると、2002年に閉院していたようだ。17年間知らずにいた。考えれば可能性はなくもないはずだが、なんだかショック。




隣の桜木中学校は中が見えにくくなっていた。当時はよくここから体育の授業や部活の練習などを見たものだが、今は色々問題もあるのだろう。



なんかいた。

さて、当時の家はこの辺り。



このあたり一帯は道路拡張のため立ち退きになったのであった。実は祖母が亡くなった後、後に残った叔父が立ち退きによって引っ越した話は聞いていた。



聞いたのは15年近く前だったが、まだこういう感じなのか。



向かいのアパートは立ち退きエリアから外れたらしくまだあったが、ちょっとおしゃれになっていた。

そういえば、とまた一つ思い出す。
よくおつかいを頼まれた「アリメント」はあるだろうか。今でいうコンビニのような商店だ。このパターンだとないだろうな、と思いつつ歩いてみる。



あった!しかも近かった。すごく遠かったイメージなのに、大人の脚力を思い知る。
しかしどう見てもやってない。カーテンの隙間から覗いて見ると初老の男性がギターを弾いていた。どうやらアリメントは閉店したものの、建物はそのまま街の公民館的に利用されているようだ。
色々と打ちのめされてきたが、平和的な解決でよかった。
店の前にあった自販機でジュースを買い、アリメントで買い物した気分を味わう。



しかしちょっと行ったところにプライスダウンの自販機があって落ち込むのであった。







注意書き多めでお送りしています。



ちゃんと犬目線に貼ってあるのは親切なのかなんなのか。

上町と言えば「ボロ市」が有名かもしれない。
幼いころ祖母に「もうすぐボロ市があるけど、あきちゃんも行く?」と何度か言われたことを覚えている。そのネーミングからどう考えても魅力的なイベントとは思えず、毎回断っており、結局今の今まで一度も行ったことがない。質問魔だった私のことだから「ボロ市ってなあに?」と聞いたはずなのだが、その辺りの会話は全く覚えていない。祖母のプレゼン力の問題なのか?いずれにしても幼い子供にとって如何せん渋すぎるイベントだろう。

歴史ある有名な骨董市だと知ったのは随分と大人になってからのことだった。

というわけで「ボロ市通り」もちらっと通ってみる。



ポスターもたくさん貼ってあった。曜日に関係なく毎年12月15、16日、1月15、16日と決まっているのが潔い。



ボロ市は焼酎のお酒の名前にもなっていた。



昭和な感じのイラスト。どのあたりが昭和かと言われると困るが、しいていえば目かな。



わかりやすくいさぎよい店。



なんとなく何も買わずに出ることができず、とうもろこしひげ茶を購入してしまった。

ボロ市じゃないボロ市通りはごく普通の商店街だったが、おばあちゃんと来たら良かったなという気持ちが少しだけ込み上げてきた。



さて帰ろうかと駅に戻るとオオゼキの前に露店が出ているのを発見。こういったタイプの露店に弱い。
焼き鳥かな。



と思いきや、鳥は鳥でもなんかおしゃれなやつだった。



でも買った。





お昼に見た提灯の店も開店。



開く店あれば閉まる店あり。



おぉ、またプライスダウンの自販機…。

ここでふと思い出す。通っていた幼稚園もこの界隈にあったはずだと。

さすがに場所は全く覚えていなかったため、スマホで検索してみる。なくなっているかもしれないな、という心配をよそにすぐ見つかった。しかも驚くほど駅から近かった。当時は幼稚園バスで通っていたので、うんと遠いと思っていたのだ。



雰囲気は当時のままだが 立派になっている。



なんと大学も併設されていた。

今回の散歩はなくなっているものがほとんどだったので、こうして存在して、しかも当時よりもかなり立派になっている幼稚園を見るとちょっとした感動があるものだ。
消えていくもの成長するもの…色々だな。



最後に通りかかった、読めそうで読めない何かの跡。もやっとした気持ちを抱えて散歩終了。

今年はボロ市に行こうか。






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海辺暁子

平成の終わりに中国から帰国。最後に見たアモイの海に感動し、ただそれだけの理由で現在海の近くに住んでいます。

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