足跡を数えて
- 更新日: 2024/08/22
祖母との思い出の地、高崎を散歩する。
愛媛県の瀬戸内海側で生まれ育ち、戦争のさなかで国鉄(現在のJR)に就職。終戦後は国鉄病院の看護師として勤務しながら、社割を使って群馬まで北上を続けたひとりの女性がいた。それが私の祖母である。
勝ち気で面倒見が良く、竹を割ったようなさっぱりとした気質の人だったが、その反面、言いたいことは言い方を考えずに言う人でもあったので、彼女を苦手とする人も結構いた。
ばあちゃんずけずけ言うな〜。デリカシーなくてうけるな〜。そう思うことは度々あった。だがそれでも私は、どういうわけか祖母が好きだった。
今になってみると、小心者で心配性、いつも他人の顔色を伺い、思ったことも考えすぎてうまく言えないような性格の私が、自分と正反対のタイプの祖母を慕っていたことがとても不思議に思える。
彼女が亡くなってから1年が経ち、法事のために高崎駅に向かう新幹線の中で、そんなことをずっと考えていた。
大宮駅から高崎駅までは北陸新幹線の「はくたか」に乗る。移動時間は大体25分。あっという間だった。あっという間すぎて車窓からの良い景色の写真がない。高崎駅には母が車で迎えに来てくれていた。
実家の玄関ドアを開けると、懐かしい匂いがする。この家を出てもう10年が経つのに、帰ってくるとうわ、うちの匂いだ!と思うのってどうなのだろう……と思う。
感覚ではいまだにこの家が「うち」で、自分が住む埼玉のアパートはうちではないのだろうか。なんだか悔しい気持ちになった。
リビングの窓のカーテンを開けて裏庭を見る。大きなイチジクの木がある。年々大きくなるこの木を軽率に植えたのは、紛れもなく私だ。
10年以上前、まだ実家に住んでいたころ、なんとなくホームセンターで見かけて苗を買ったのだった。どうせ育ちはしないでしょうと思って誰の了承も得ず勝手に植えた記憶がある。
勢いよく伸び続ける枝葉の管理に苦労している母には申し訳ないけれども、私はこの木がけっこう好き。たぶん父もこの木がまあまあ好きだと思う(いつだったか実を収穫してドライいちじくを作ったりしていたし)姉は植物に興味など微塵もないが、その娘である姪は時々この木を見上げている。
祖母も植物がとても好きな人だった。たしか公民館で押し花の講師をやっていた時期もあったと思う。一緒に散歩をするとあちこちを指差しては花の名前を教えてくれたものだった。
だからというわけではないが、私も姪と散歩をする時はあちこちを指差して花の名前を口に出している。
祖母と比べると植物への知識は圧倒的に少ない。それでも「綺麗だねえ」と言い合って姪と一緒に季節の花を眺めるのは、私にとってかけがえのない時間となっている。
一周忌は土曜日に高崎の街中のお寺さんでやることになっていて、この日は金曜日だった。パソコンは持って帰ってこなかったので仕事はなく、時間は余るほどある。
外はぴかぴかの晴天で、予想最高気温は37℃。長時間屋外にいるのが危険とされている天気ではあるものの、祖母の家の近辺を歩いてみようと思った。
高崎駅から徒歩十数分の距離にかつて祖母が住んでいた町があって、昔から遊びに来るとよく歩き回っていた。いくつものこまかな道が入り組んでいて、狭い敷地にそれぞれの家が工夫を凝らして花を植えている。洗濯物がはためいて、テレビの音が聞こえる。誰かの生活が確かにここにあることがわかる。いい町だと思う。
今から二十年以上前の話。まだ不登校という言葉が一般的ではなかった時代に不登校だった私は、問題児として扱われていた。家にも学校にも居場所のない息苦しい日々で、私はだんだんと祖母の家に入り浸るようになっていった。
祖母は両親には何かを言っていたようだが、子供だった私には特に何も言わず黙って受けいれてくれた。あの時の私にとって、それがどれほどありがたいことだったか、きっと誰も知らないだろう。祖母さえも知らないだろうなと思う。
このあたりも住民の高齢化が進み、昔に比べてだいぶ空き家が増えたようだ。
デフォルメたぬきと写実的たぬき。あとなんか小さい家。
歩いていて思い出したこと。
小学校をサボって遊びにきていた私に、あるとき祖母は「地図でも作ったら」と言って、チラシの裏を使った自作の帳面をくれたことがあった。
大人になった今と変わらず歩くことが大好きな子供だったので、私ははりきってこの辺りを歩き回り、ご近所の家、祖母のお茶友達のおばあさんの住む家、大きな木がある三叉路、駄菓子屋さん、高崎公園、市役所、犬スポット(犬を外で飼っている家)や猫の集会所などを書き込んでいった。
書き込みが増えるたびに、祖母は目を細めてそれを眺めた。
なんでもかんでもすぐに捨ててしまうので現存はしていないが、あの地図帳はいまだに記憶の中にある。
せっかくだから裏道を使って高崎公園に行くことに。
このあたりには細い路地が張り巡らされている。久々に歩いたので「あれ?これ他人んちの敷地?」と不安になるも、なんとか到着。
高崎公園は、高崎市役所に隣接する公園だ。いつもあまり人がいない、のんびりした空気の漂ういい場所である。
市のホームページによると、明治9(1876)年に大洗寺という寺の跡地に造られたらしい。明治33(1900)年正式に「高崎公園」と名前が決まり、平成14(2002)年から改修工事が行われた。
かつてはごく小さな動物園的なスペースがあって、記憶が確かであれば私が中学生くらいの時までツキノワグマや猿も飼育されていた。
現在は鳥舎だけが残り、他の動物を飼育していた場所には「シンフォニーガーデン」と名前のついたささやかなイングリッシュガーデンがあるのみとなっている。
池のほとりのこのたぬきは昔から変わらずここにいる。でも子供のころに見ていた高崎公園のたぬきはもっと太っていたような……。会わないうちにちょっと痩せた……?
ここには群馬県指定の天然記念物・ハクモクレンがある。
説明版によると、県の天然記念物に指定された昭和27(1952)年時点での推定樹齢はおよそ375年。まあだいたい400歳か。人の一生とスケールが違いすぎて望洋とした気持ちになる。
高崎公園は祖母との定番の散歩コースだった。ゆっくり歩いて公園まで行って、季節の花を観察したり、池のほとりのベンチに座ってぼんやりしたり、当時いたクマや猿を見たり、烏川を挟んだ向こう側の観音山を眺めたりした。
祖母が一人暮らしをやめて施設に入所したのは、私が実家を出た時期とほとんど同じだった。帰省するたびに施設へ会いに行ってはいたが、2019年にコロナ禍に入ると、県外の人間は面会ができない状況になっていった。そしてそれが数年続くことになる。
祖母は高齢で、今会わないともう会えないかもしれないのに会うことはできない。あの期間感じていたじりじりとした焦りと不安、そして恐怖は、忘れられないものだった。
2023年の夏、祖母が亡くなる2週間ほど前に実家から連絡があった。施設の方針で、県外在住の近親者も屋外であれば面会ができるようになったという。私は荷物をまとめて電車に飛び乗り、高崎へと向かった。
4年ぶりに会う祖母は痩せ細り、喋れなくなっていた。施設の玄関まで車椅子でやってきた姿を見て、こらえきれず、私は祖母にすがって子供のように泣いた。
祖母が元気だったころ、まだ私が子供であったころ、「ばあちゃんが死んじゃったら嫌だ」と言ったことがあった。それに対して彼女は、困ったように笑って「でも順番だからねえ」と言った。
あの時、嘘でもいいから祖母に「死なないよ」と言ってほしかった。でもそれをわかっていながらそうしない、適当に取り繕うことをしない人だったからこそ、私は彼女を愛していたのだと思う。
いなくなったら全てが無になるのだと思っていたのに、歩きながら浮かぶ記憶はどれも驚くほど鮮やかで、そこには確かに祖母がいた。いつも通りの笑顔で、さっぱりとしたデリカシーのなさを持って。
時間という強引な力に流される日々の中にあってさえ、変わりもしないし失うこともない。そういう存在があるということの心強さを感じながら、私は一歩ずつ自分の道を歩いていく。
(文・写真 望月柚花)
勝ち気で面倒見が良く、竹を割ったようなさっぱりとした気質の人だったが、その反面、言いたいことは言い方を考えずに言う人でもあったので、彼女を苦手とする人も結構いた。
ばあちゃんずけずけ言うな〜。デリカシーなくてうけるな〜。そう思うことは度々あった。だがそれでも私は、どういうわけか祖母が好きだった。
今になってみると、小心者で心配性、いつも他人の顔色を伺い、思ったことも考えすぎてうまく言えないような性格の私が、自分と正反対のタイプの祖母を慕っていたことがとても不思議に思える。
彼女が亡くなってから1年が経ち、法事のために高崎駅に向かう新幹線の中で、そんなことをずっと考えていた。
大宮駅から高崎駅までは北陸新幹線の「はくたか」に乗る。移動時間は大体25分。あっという間だった。あっという間すぎて車窓からの良い景色の写真がない。高崎駅には母が車で迎えに来てくれていた。
実家の玄関ドアを開けると、懐かしい匂いがする。この家を出てもう10年が経つのに、帰ってくるとうわ、うちの匂いだ!と思うのってどうなのだろう……と思う。
感覚ではいまだにこの家が「うち」で、自分が住む埼玉のアパートはうちではないのだろうか。なんだか悔しい気持ちになった。
リビングの窓のカーテンを開けて裏庭を見る。大きなイチジクの木がある。年々大きくなるこの木を軽率に植えたのは、紛れもなく私だ。
10年以上前、まだ実家に住んでいたころ、なんとなくホームセンターで見かけて苗を買ったのだった。どうせ育ちはしないでしょうと思って誰の了承も得ず勝手に植えた記憶がある。
勢いよく伸び続ける枝葉の管理に苦労している母には申し訳ないけれども、私はこの木がけっこう好き。たぶん父もこの木がまあまあ好きだと思う(いつだったか実を収穫してドライいちじくを作ったりしていたし)姉は植物に興味など微塵もないが、その娘である姪は時々この木を見上げている。
祖母も植物がとても好きな人だった。たしか公民館で押し花の講師をやっていた時期もあったと思う。一緒に散歩をするとあちこちを指差しては花の名前を教えてくれたものだった。
だからというわけではないが、私も姪と散歩をする時はあちこちを指差して花の名前を口に出している。
祖母と比べると植物への知識は圧倒的に少ない。それでも「綺麗だねえ」と言い合って姪と一緒に季節の花を眺めるのは、私にとってかけがえのない時間となっている。
一周忌は土曜日に高崎の街中のお寺さんでやることになっていて、この日は金曜日だった。パソコンは持って帰ってこなかったので仕事はなく、時間は余るほどある。
外はぴかぴかの晴天で、予想最高気温は37℃。長時間屋外にいるのが危険とされている天気ではあるものの、祖母の家の近辺を歩いてみようと思った。
高崎駅から徒歩十数分の距離にかつて祖母が住んでいた町があって、昔から遊びに来るとよく歩き回っていた。いくつものこまかな道が入り組んでいて、狭い敷地にそれぞれの家が工夫を凝らして花を植えている。洗濯物がはためいて、テレビの音が聞こえる。誰かの生活が確かにここにあることがわかる。いい町だと思う。
今から二十年以上前の話。まだ不登校という言葉が一般的ではなかった時代に不登校だった私は、問題児として扱われていた。家にも学校にも居場所のない息苦しい日々で、私はだんだんと祖母の家に入り浸るようになっていった。
祖母は両親には何かを言っていたようだが、子供だった私には特に何も言わず黙って受けいれてくれた。あの時の私にとって、それがどれほどありがたいことだったか、きっと誰も知らないだろう。祖母さえも知らないだろうなと思う。
このあたりも住民の高齢化が進み、昔に比べてだいぶ空き家が増えたようだ。
デフォルメたぬきと写実的たぬき。あとなんか小さい家。
歩いていて思い出したこと。
小学校をサボって遊びにきていた私に、あるとき祖母は「地図でも作ったら」と言って、チラシの裏を使った自作の帳面をくれたことがあった。
大人になった今と変わらず歩くことが大好きな子供だったので、私ははりきってこの辺りを歩き回り、ご近所の家、祖母のお茶友達のおばあさんの住む家、大きな木がある三叉路、駄菓子屋さん、高崎公園、市役所、犬スポット(犬を外で飼っている家)や猫の集会所などを書き込んでいった。
書き込みが増えるたびに、祖母は目を細めてそれを眺めた。
なんでもかんでもすぐに捨ててしまうので現存はしていないが、あの地図帳はいまだに記憶の中にある。
せっかくだから裏道を使って高崎公園に行くことに。
このあたりには細い路地が張り巡らされている。久々に歩いたので「あれ?これ他人んちの敷地?」と不安になるも、なんとか到着。
高崎公園は、高崎市役所に隣接する公園だ。いつもあまり人がいない、のんびりした空気の漂ういい場所である。
市のホームページによると、明治9(1876)年に大洗寺という寺の跡地に造られたらしい。明治33(1900)年正式に「高崎公園」と名前が決まり、平成14(2002)年から改修工事が行われた。
かつてはごく小さな動物園的なスペースがあって、記憶が確かであれば私が中学生くらいの時までツキノワグマや猿も飼育されていた。
現在は鳥舎だけが残り、他の動物を飼育していた場所には「シンフォニーガーデン」と名前のついたささやかなイングリッシュガーデンがあるのみとなっている。
池のほとりのこのたぬきは昔から変わらずここにいる。でも子供のころに見ていた高崎公園のたぬきはもっと太っていたような……。会わないうちにちょっと痩せた……?
ここには群馬県指定の天然記念物・ハクモクレンがある。
説明版によると、県の天然記念物に指定された昭和27(1952)年時点での推定樹齢はおよそ375年。まあだいたい400歳か。人の一生とスケールが違いすぎて望洋とした気持ちになる。
高崎公園は祖母との定番の散歩コースだった。ゆっくり歩いて公園まで行って、季節の花を観察したり、池のほとりのベンチに座ってぼんやりしたり、当時いたクマや猿を見たり、烏川を挟んだ向こう側の観音山を眺めたりした。
祖母が一人暮らしをやめて施設に入所したのは、私が実家を出た時期とほとんど同じだった。帰省するたびに施設へ会いに行ってはいたが、2019年にコロナ禍に入ると、県外の人間は面会ができない状況になっていった。そしてそれが数年続くことになる。
祖母は高齢で、今会わないともう会えないかもしれないのに会うことはできない。あの期間感じていたじりじりとした焦りと不安、そして恐怖は、忘れられないものだった。
2023年の夏、祖母が亡くなる2週間ほど前に実家から連絡があった。施設の方針で、県外在住の近親者も屋外であれば面会ができるようになったという。私は荷物をまとめて電車に飛び乗り、高崎へと向かった。
4年ぶりに会う祖母は痩せ細り、喋れなくなっていた。施設の玄関まで車椅子でやってきた姿を見て、こらえきれず、私は祖母にすがって子供のように泣いた。
祖母が元気だったころ、まだ私が子供であったころ、「ばあちゃんが死んじゃったら嫌だ」と言ったことがあった。それに対して彼女は、困ったように笑って「でも順番だからねえ」と言った。
あの時、嘘でもいいから祖母に「死なないよ」と言ってほしかった。でもそれをわかっていながらそうしない、適当に取り繕うことをしない人だったからこそ、私は彼女を愛していたのだと思う。
いなくなったら全てが無になるのだと思っていたのに、歩きながら浮かぶ記憶はどれも驚くほど鮮やかで、そこには確かに祖母がいた。いつも通りの笑顔で、さっぱりとしたデリカシーのなさを持って。
時間という強引な力に流される日々の中にあってさえ、変わりもしないし失うこともない。そういう存在があるということの心強さを感じながら、私は一歩ずつ自分の道を歩いていく。
(文・写真 望月柚花)