東京チェーン散歩~吉野家築地一号店を訪ねる

  • 更新日: 2019/02/14

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築地は波除神社の中にある「吉野家塚」

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築地へ

第2回目の東京チェーン散歩は、ここからスタート。




築地である。

せっかく築地に来たのだから、やはり



築地の場外市場や、



不可思議な建築で知られている築地本願寺を観光したいものであるが、今回訪れるのはそんなメジャーな観光地ではなく、ここである。



これは築地の波除神社内にある「吉野家塚」
ということで、今回扱うチェーンは、



言わずと知れた人気牛丼チェーン「吉野家」……

築地第1号店である。

といっても2019年2月現在、築地にこの吉野家はない(上の写真は築地にある別の吉野家の看板)。ご存知の方もいらっしゃるかもしれないが、この吉野家第1号店は築地市場内という立地のために、2018年10月6日、市場の閉場にともなって閉店してしまったのである。そして吉野家と築地というのは——その第一号店が築地にあるということ以上に——とても強い結びつきを持っている。

その関係の強さが、最初に見せた波除神社内の吉野家塚に端的に表れている。一見、これは奇妙に見えるかもしれない。神社の塚、というとってもローカルなものと、いまや日本国内だけでなく海外にまで大きく店舗を拡大する、いわばグローバル企業として拡大し続ける吉野家が、小さな石の中で一つに結合しているからだ。

今回は、この吉野家塚を起点にして、今はなき築地の吉野家一号店をめぐりながらチェーンとローカルについて考える、少しばかりアクロバティックな散歩の旅に出かけてみよう。


築地と吉野家


▲波除神社


吉野家塚がある波除神社の由来は古く、江戸時代にまでさかのぼる。築地はもともと埋め立て地だったが、その埋め立て工事中に何度も高波の脅威にさらされ続けた工事人たちが、海中に漂っていた稲荷明神を祀ったところピタリと波が止んだという故事から、この「波除」という尊称が神社の名前になったという。なぜお稲荷さんが海中に漂っていたかは、ぼくにも謎である。

築地に市場がやってきたのはその創建からずっと経ってのちのことだったが、市場で働くひとたちの篤い信仰を集め、境内には「すし塚」や「活魚塚」、「鮟鱇塚」なんてちょっと他では見られないような塚がたくさん立ち並んでいる。





そんな塚の中にひっそりと、「吉野家塚」は立っている。なぜ「チェーン」である吉野家が塚になっているのか。下のパネルに、その由縁が書いてあるから、少しばかり読んでみよう。



ここ築地の地に、
牛丼の吉野家の創業店がありました。[…]
当初、具材には季節の旬な食材と豆腐なども
盛り込まれていましたが、
市場で働く人達が牛丼を注文するのは、
牛肉が食べたいからなのです。
二代目社長、松田瑞穂は、
そんな想いに応えてメニューを改良。
より多くの牛肉と、味わいを深めるための玉ねぎだけを使った、
シンプルな牛丼を生み出しました。[…]
この地で永きにわたり多くの方々に、
ご愛顧いただいてまいりました
「はやい、うまい、やすい」
吉野家の牛丼は、
まさにこの土地ではぐくまれた味なのです。
引用元:吉野家塚の説明から抜粋


なるほど。これでこの吉野家塚の疑問がだいぶスッキリとした気がする。

ぼくの言葉で更に補足してみると、
吉野家とは、もともと慌ただしい市場で働くひとびとが、その業務の合間にさっと食べることのできる飲食店を、と創業者・松田栄吉の手によって、かつて市場があった日本橋の地に誕生した。時は1899年。明治維新の記憶もさほど古びていない、そんな時代。



この絵は仮名垣かながき魯文ろぶんという明治時代の作家が書いた「安愚楽鍋あぐらなべ安」という作品に出てくる牛鍋を食べる人の絵だ。この本では牛鍋という風習が当時の新しい風潮として紹介されていて、まだまだ牛肉が珍しい食べ物だったということがわかる。松田は常に海鮮ものを取り扱っている市場関係者たちにつかの間、海のことを忘れることが出来るようにと、この珍しい牛肉を提供することに決めたのだった。

ここに、牛丼の原型が生れ落ちる。

その後、より市場関係者向けに効率化・単純化されていったものが現在の「牛丼」になり、そして1970年代にチェーン展開を始めて、ぼくたちもこの市場関係者たちのつかの間の夢の食事を日常的に食べるようになっていったのだ(日常的に食べなくとも、少なくとも街でよく見かけるぐらいはあるだろう)。

こうして誕生した吉野家第1号店は、まさにチェーンらしくない、かなり築地の地と密接に関係を持つそうした店舗を作り上げていたのだし、そもそも当初はチェーン店化するなどということは一切考えていない、「地元の名物食堂」ぐらいのノリで営業していたのである。


在りし日の一号店を探して

ぼくたちがぜひとも散歩したくなるような、そんな特徴のある店舗を吉野家の一号店は作っていたらしい。

しかし……。

先ほどもチラリと述べたが、もうこの店は、完全に存在しないものになってしまった。残念なことに。店の跡地を見に行こうにも、もはや築地市場の解体は足早に始まっていて、往時を偲ぶこともままならない。それでも、なんとかしてぼくはこの吉野家があった土地をこの目で見てみたい、と思い、築地市場のすぐ近くにある商業施設「築地魚河岸」の屋上庭園に上ってみることにした。ちなみにこの「築地魚河岸」、商業施設とはいっても中には仲卸業者が軒を連ねていて、さながら市場の雰囲気を味わえる小ぎれいなテーマパークみたいになっている。もちろん売っているものは、ホンモノの食べ物なのだけれど。



でその3階が屋上庭園になっていて、ここから解体中の築地が見えるんじゃないかと睨んだわけである。





やはり見えた。
そこには、築地市場の素の姿がその解体と共にまざまざと明らかになっていた。

そしてここがかつて吉野家があったと思われる場所。



地図で言うと、この場所になる。



波除神社のすぐ近くにあるわけだが、市場内のこの一帯には飲食店が立ち並び、築地にまだ市場機能があったときには、こうしたスペースも観光客やら市場関係者やらで賑わっていた。
かつてはこんな店構えだったらしい。

吉野家 築地1号店 (築地市場/牛丼)

★★★☆☆3.42 ■予算(夜):~¥999


やはり普通の吉野家とはちょっとばかり違う店構えで、どこか伝統があるような、そんな感じも受ける。ここから「チェーン店」吉野家の歴史は始まったのだ。


築地の伝統が色濃く残る吉野家

しかし、歩いていたら、僕は腹がへった。

本来、この東京チェーン散歩はテーマとなる店舗をめぐることをその主眼にしているのに、今回はそもそもの店舗がもうないのだ。かといって築地で海鮮丼、なんてのもこの企画らしくないし、ここはやはり今まで話してきた吉野家が食いたくなる。

というわけで……



築地市場のすぐ近くにあった吉野家に入ることにした。いや、さすが吉野家、どこにでもあるのが良い。とはいえ、ここは東京チェーン散歩。築地の吉野家らしさを見つけねばと気を引き締める。



さっそく注目したのは、入り口に書いてある「24時間営業」の文字。チェーンのレストランでは24時間営業などといわれても、もうそこまで驚く人はいないだろう。しかし、この吉野家こそ、24時間営業のハシリだったと、知っている人はそう多くはないはずだ。

理由は簡単。それもとってもローカルな理由。市場で働く人々の活動時間は主に早朝。普通の食堂が営業を始める時間にはすでにその日の市場の活動は終わっているも同然なのだから、早朝に営業をしていなければならない。せっかく早朝もやるんだったら、昼間も夜もやっちゃえ、と24時間営業になったとか。そういわれてみればこのなんとはない入り口も感慨深く感じられるというものだ(早く店に入ればいいのに)。



 コの字型のカウンターに着席。ちなみに多くの飲食店で普通の形態となっているコの字型カウンターだが、これまた吉野家発祥らしい。カウンターがコの字型になっていることで、ほかの客の邪魔にならずに食事を運ぶことが出来るし、会計もスムーズに進む。とにかく吉野家一号店では客の回転効率を上げるために、できる限りの対策を取っていた。それはただ店側のためだけではなくて、さっと食べて早く仕事に戻りたいという忙しく、せっかちな市場の客の要望に応えるための対策でもあったのだ。

注文を頼んで牛丼が来るのを待つ……暇もなく、すぐに着丼。
どん。



今回頼んだのは、「牛丼 アタマの大盛」。うまそうだ。すぐにでも食べたいところだが、ここでも吉野家と築地の関係性を一つ開陳しよう。そもそも「アタマの大盛」とは、いわゆる吉野家の常連たちが勝手に作り出し注文していた「裏メニュー」から来ている。今ではすっかりおなじみとなった「つゆだく」はその代表例だが、築地の一号店は、やはり何度も来店するリピーターが多かったために数多くの裏メニューが存在していたという。

たとえば、

・「トロだく」……脂身が多い肉を多めで入れてほしい(これ、書いてて思ったが、できるのか?)
・「トロぬき」……脂身が多い肉を抜いてほしい(これもできるのか?)
・「ネギだく」……玉ねぎを多めで入れてほしい(がんばればできそうな気がする)
・「かるいの」……ごはんを少なめにしてほしい(できる)

といったものがあるらしい。その中の、「アタマの大盛」が初めて裏メニューからメニュー化されることになったのだが(たぶんやりやすかったんだろう)、その始まりもまた築地一号店からだった。なんとなく「アタマの大盛」なんて頼むが、そこには築地一号店と常連客との厚いコミュニケーションの痕跡がうかがえるのである。

そして、食べた。

いうまでもなく、うまかった。


全国総築地化現象?

というわけで、吉野家で牛丼を食べながら、その現在の店舗にまで至る店内の多くが、「築地だからこそ」生まれた仕掛けであることを見てきた。これ以外にも、築地には多くの「独自ルール」ともいえるものがあり、「どんぶりの色だけで勘定がされていた」とか「すぐに立ち食いできるように壁に箸置きが据え付けられていた」とか、吉野家ファンの間では「聖地」として信仰されていたらしい。


ただ、そんな特徴あるチェーン店だった吉野家築地一号店は、市場の閉鎖と共になくなり、その後釜として豊洲新市場の中にも吉野家ができたが、これは一号店という名前を冠してはいなくて、こうした独自ルールも消えてしまった。

ここで、一号店のオリジナリティが失われてしまったのを嘆くのはたやすいし、確かに少し残念だなあ、という感じがしないわけではない。しかしちょっとだけ違う角度から見つめてみれば、吉野家の地域性は決して失われたわけではない、そうも思えてくるのだ。

さきほども書いたように、吉野家では築地市場の関係者が、忙しい業務の合間に、普段はなかなか食べることのできない牛肉を早く、安く、そしてたらふく食べれるように徹底的に合理化されたシステムが形成されていた。そのような合理化の過程は決して最近起こったのではなく、もっと視野を広げれば江戸時代から日本にはそうした、いわゆる「ファストフード」の食文化が強く根付いていたのだ。



これは江戸時代の屋台の様子を描いた絵である。江戸は市場関係者のみならず、単身男性を多く抱える都市であって、現在「ザ・日本食」のように扱われている寿司・そば・天ぷらなどはすべてこの絵のように屋台で働く男たちがすぐに食べれるよう、合理化されたシステムの中で供されていたのである。つまり、江戸の町は現在の東京のように、(チェーンでないにせよ)ファストフードのような食事が多く提供される一大合理的食事街であって、吉野家はそうした「江戸性」を強く持つレストランとして産声をあげ、単身男性が多いという江戸の地域性、ローカル性を色濃く持っている。

こう考えると、吉野家が持っていた伝統はけっして失われてなどおらず、むしろ現在に至るまで濃厚に保持されているのだともいえるだろう。現代、仕事の合間に吉野家をかきこむスーツ姿のサラリーマンは、そっくりそのまま築地市場で働く忙しい男たちの姿であり、そしてそれは江戸市中で働く男たちの姿でさえある。そんな伝統を受け継ぐ食事のシステムが、たまたまチェーン展開、というアメリカ発祥の業態と出会ったとき、全国に拡散する。

その中でいまや、ぼくたちは「全国総築地化現象」ともいえる現象を目にしているのではないだろうか。そう考えると冒頭に見てもらった波除神社にある吉野家塚は、こうした事態を的確にとらえた、なんともオツな記念碑なのである。築地というローカルな地域にあり、それがチェーン店舗化という流れによって、かつての地域性を失わずにグローバルに拡散するというちょっとばかり複雑な事態が、この記念碑にはそのまま残されている。

そう考えてみれば、こんな何気ない石碑も少し見方が変わるんじゃないだろうか。そして地域性とか、伝統、などというものはそうそうなくなるものでもない、と妙に納得すらしてしまうのだ。







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谷頭和希

ライター・作家。チェーンストアやテーマパーク、日本の都市文化について、東洋経済オンライン、日刊SPA!などのメディアに寄稿。著書に『ブックオフから考える』『ドンキにはなぜペンギンがいるのか』。

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