東京チェーン散歩〜六本木のマクドナルドで「居心地の良さ」を感じる

  • 更新日: 2022/02/22

東京チェーン散歩〜六本木のマクドナルドで「居心地の良さ」を感じるのアイキャッチ画像

六本木ヒルズのお膝元にそれはある

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六本木にやってきた

六本木の交差点から左に進む。六本木ヒルズを横目に見ながら歩くと「六本木クロスポイント」という建物が向こうに見えてくる。森ビルが所有する複合オフィスで、六本木ヒルズの役割を拡張するために作られたという。

その中に、マクドナルドがある。『マクドナルド六本木ヒルズ店』という。今回の東京チェーン散歩で扱うのは、このマクドナルドだ。聞けば、クロスポイントの2フロア分を占拠していて、内装がずいぶんオシャレだという。この内装は、日本でもここしかないオリジナルなもので、2020年7月から取り入れられた。「wood and stone」というデザインだ。


▲この記事で知った(https://digitalpr.jp/r/40092

マクドナルドは、7年程度で新しい店舗デザインを取り入れている。

「マックっぽくない」カフェのような店舗が登場

日本マクドナルドが急ピッチで店舗の改装を進めている。内装デザインには、いくつかのバリエーションがある。今年から導入を進めているのがコーヒーショップのようなデザイン。店舗の個性化を狙う。

少し前には、田端駅前店や、中央林間店などに、ハンバーガーやポテトをあしらったポップなデザインも取り入れられていた。
その前はブルックリンの街角を模したデザインや野菜の写真が大きく貼られたデザインも登場していて、マックらしくないマックはすでにいくつか登場していた。そんな、マックらしからぬマックのもっとも新しい形として六本木店は登場したのである。


「M」で高まる期待

そんなことを思い出しながら歩いていくと、大きな黄色いMのマークが目に入る。



余計な情報は書かず、白い無地の看板に「M」の文字のみ。これだけでも、「あ、向こうにマクドナルドがある」とわかるからすごい。
ふと思い出したが、初期のマクドナルドには「M」の形をしたゴールデンアーチがあって、それが車からもよく見えたそうである。「M」が大きな宣伝になっていたのだ。
このマークが目に入るだけで、否応なくマクドナルドへの期待が高まる。

ふと横をみると、期せずして六本木ヒルズを根本から見上げることになった。


▲堂々たる風景

上の方には「M」というデフォルメされたロゴが付いている。ここにも「M」がある。

あ、これ、マクドナルドのビルだった。

しかし、一瞬でその「M」は「森ビル」の「M」だったことに気がつく。「M」への期待がそうさせるのだろうか。はやく、ほんとうの「M」に行こう。


店に入ろう

ほんとうの「M」の前についた。



ガラス張りの入り口が、マクドナルドらしからぬ感じを出している。
恐る恐る入ってみる。



木目調の壁と石造りのような床が張り巡らされ、間接照明がそれぞれのテーブルの上をぼんやりと照らす。



シートも独特で、ゆったりとテーブルを囲むシートや、豪邸にあるようなソファ席まで置いてある。このラグジュアリー感、ほんとうにマックなのかと思わされる。


なんだかむずむずする

店を左手に進んでいくと、カウンターが見える。おそらく、ここで注文するのだろう。レジが5台見える。

店内に入ってみて感じるのは、どことなくむずむずする感じだ。はじめてスタバに入った時に似ている。いつも行っているはずなのに、自分がいて良い場所なのか不安になる。そんな気持ちを抱きながらカウンター前にやってくる。



カウンターもふつうのマックとは一味違う。

メニューは液晶パネルの上に表示されていて、デジタルな雰囲気を醸し出している。このデジタルな感じと、ウッディな店内の雰囲気が調和しているのが不思議だ。

レジは1つしか動いていない。恐らく待っている客がいないからだろうが、もしや無人レジが導入されているのかもしれない、と思い、本当にこのレジに並んでいいのかさえ不安になってくる。
この感じも、はじめてスタバに入って、注文のシステムがわからないで挙動不審になっている感じと似ている。


店員さんに覚える親近感

どぎまぎしながら並んでいると、他の店員が来て、レジを開ける。
「注文は?」と聞かれる。店内でホットコーヒーのSサイズ、とパーテーション越しに言う。
予定調和の展開として「砂糖とミルクは?」と聞かれる。「いらないです」と返す。
すると店員は「ブラックね」と打ち込む。

ここで気付く。「どうして、この店員はタメ口なのだろうか」と。
この感じ、行きつけの居酒屋のママの口調だ。
私は、今、私の目の前にいる店員さんを知らない。はじめて出会ったのだ。だとすれば、本来ここで私は怒るべきだろう。クレームまでいかなくとも、心の中で怒るべきだ。
でも、不思議なことに私はこのタメ口を聞いて、むしろ、安心感を覚えていたのである。その安心感とはつまり、「ああ、ここもふつうのマックなんだな」ということだ。

今まで私は、店内にあふれるどことなくラグジュアリーな感じに影響を受け、すっかり緊張していた。しかし、ここはやはりマックであって、店員さんはどことなくそっけない感じである。マックの店員さんをけなしているのではなく、ほんとうに、実感としてマックの店員さんはどことなくそっけない方が安心するのだ。

このオーダーの瞬間、私の居心地の悪さは無くなっていた。


ここにしかない/どこにでもあるマック

コーヒーを手にして、席に着く。ラグジュアリーな、セレブが座るようなソファーである。



Netflixの海外セレブものでみたことがあるようなソファーだ。深々と腰掛け、目の前のコーヒーを見つめる。いつものコーヒーといつもじゃないソファーが同じ視界に入ると少し頭が混乱する。

そうして、私は周りを見渡す。すると気がつくのは、「いつものマックと同じ」ということである。

だいたい、マックなんだから同じだろうと思われるかもしれない。それでも、店内の様子が明らかに違うマックにいると、そのことに想いを馳せざるを得ないのだ。

子供が小さな口でハンバーガーを食べようとするのを隣で心配そうに見つめるお母さん。新聞とコーヒーを持って、席に座り続ける黒いジャンパーのおじさん。「働きはじめて2日なんです」と体格の良さに似合わずおどおどして客の質問に答えるアルバイトの店員さんーー。
もちろん、じっくりと観察すればそこにいるのはぜんぜん違う人たちで、六本木ならではなのか、外国の人や若い女の人も目立っている。
でも、そこにいる人々の姿を、どこかで見たことがあるような気がするのだ。

ラグジュアリーなソファーから見たマックの風景は、ここにしかない六本木のマックで、それは同時に、どこでもない、ふつうのマックなのだ。

そういえば、私が座っているこのラグジュアリーなソファーの硬さもまた、いつもマックで座っている席の硬さと似ている気がする。


ポテトで世界とつながる

レジ近くの席に座っていたからか、オーダーがよく聞こえてくる。

「マックフライポテトのMサイズをください」
「マックフライポテトってまだSサイズだけですか?」

こんな声が多い。みんな、ポテトを求めている。
マックフライポテトは原材料の供給量不足などを理由に、2022年1月から1ヶ月ほどSサイズのみでの販売となった。私が六本木店に行った日は2月6日で、次の日からM・Lサイズの販売が開始されるときだった。ニュースを聞きつけた、少し気の早い人たちがこぞってMサイズ・Lサイズを食べたかったのだろう。

テレレ、テレレ、とポテトが揚がる音が聞こえる。機械的な音なのにどこか温かみを感じる。ポテトが満足には食べられない、とわかったとき、この音さえも、遠いもののように感じた。

マクドナルドをフランチャイズチェーンに変貌させたレイ・クロックは自伝で、マクドナルドのポテトフライの感動を以下のように綴っている。

 普通の人は、フライドポテトにとりたてて関心など持たない。ハンバーガーや、ミルクシェイクを口にする前の、間に合わせのような存在、それがフライドポテトというものだ。しかしマクドナルド兄弟のポテトは別格だ。ふたりはフライドポテトにあふれんばかりの情熱を注いでいたのである。  
 私の中で、フライドポテトは、だんだん聖なるものに思えるようになり、準備は儀式のように、神聖に執り行われるというイメージが出来上がっていた。
 そして、ある日ついに、その「聖なる儀式」をこの目で見せてもらえることになったのである。(p.23)

マクドナルドといえば、ハンバーガーのイメージが強いが、それと同じぐらいフライドポテトも重要な役割を果たしてきたのである。それにしても、この文章からは、フライドポテトへの感動がひしひしと伝わってくる。

開業当初から人々のマクドナルドの中にはポテトの風景があった。それは、六本木の少し特殊なマックにいても同じだ。

現代の六本木にいながら、時代も地域も全く異なる場所にいるレイ=クロックとつながる気分になるのだ。

ポテトを通じて世界とつながっている気もする。


▲ポテトで世界のマクドナルドとつながる

六本木の特別なマックにきているかと思いきや、気分はすっかり、時空を超えていろいろなマクドナルドと繋がっている気持ちになる。ああ、やっぱりマクドナルドはマクドナルドなんだ。そう思った。

では、私がマクドナルドをマクドナルドとして感じるとき、いったい何を感じているのだろう? そのとき重要だと私が思うのが、マクドナルドに感じる「居心地の良さ」である。


『マクドナルドはグローバルか』

面白い本を読んだ。J・ワトソン『マクドナルドはグローバルか』という本だ。アジア各地のマクドナルドを人類学者がフィールドワークして、そこでマクドナルドがどのように受容されているのかを調査し、考察した本だ。



それまで、マクドナルドが学術研究の対象になるときには、常に「グローバル企業が世界各国の食文化を均質にした」と語られてきた。ジョージ・リッツァの『マクドナルド化する社会』などにそれは顕著である。しかし、同書の著者たちは、そのような単純明快な図式に疑問を持つ。マクドナルドは確かにグローバル企業だ。しかし、それが現地に根付くとき、本当にそのままアメリカ式の食文化が根付くのか?

結論は、否だった。

アジア各地のマクドナルド文化を見ると、それぞれの地域が独自の方法でマクドナルドを受容しているという。
それはメニューにも顕著だ。有名な例でいえば、日本でお馴染みの「てりやきバーガー」は日本で生まれたメニューである。マクドナルドが提供するハンバーガーと、日本の味覚が融合したのだ。
その他にも、香港では微笑みがあまり良い意味を持たないため、店員が積極的には笑顔を見せなかったり、中国では入学祝いなどのパーティーにマクドナルドを使ったりと、各国それぞれでマクドナルドが変形されて使われている。

これだけでも面白いが、今回の話で重要なのは、マクドナルドにおける「居心地」の話である。
どういうことだろうか。


「居心地の良さ」がマクドナルドの「同じ」部分

同書の著者たちは、東アジアにおけるマクドナルドの受容を考察する中で、彼らのマクドナルド利用が「ファスト・フード」の名前に反して、決して「ファスト」ではないことを指摘した。

東アジアの多くの地域で、消費者は現地のマクドナルドをレジャーセンターや放課後のクラブのようにしてしまった。「ファースト」の意味はそこでは覆されてしまった。そこでは、食べ物を出す速さを意味し、消費の速さを意味しない。各店舗の経営者はそうした消費者の傾向を受け容れ、それを利用してゆくほかなかった。(p.64)

むしろ、若者たちはマクドナルドの空間を居心地の良いものとして消費し、そこで宿題をしたり、ゆっくり過ごすことがデフォルトになっているというのだ。

これは、私の経験を思い返してみてもなんとなく想像がつく。私が通っていた高校の前にはマクドナルドがあって、放課後になるといつもそこでゲームをしたり、勉強をしたり、だべったりしていた。フライドポテトや、コーヒーやジュースがあればそこにいる資格を得ることができる。高校生にとってはなんともありがたい空間だ。高校生の私たちにとって、そこは居心地の良い場所であり、そこにいることを許された場所でもあったと思う。



同書の著者は、このように「居心地よく」使われることが、東アジアに特徴的なマクドナルドのあり方だという。そしてそれが、東アジアにおけるマクドナルドの特殊性、つまりグローバルではないローカルな部分だという。
「同じ」ではない「違い」を「居心地の良さ」に求めているのだ。

私は、この論調に大部分は同意している。でも、六本木でのマックの経験を経て、むしろこの「居心地の良さ」は、マックを世界どこでも「同じ」だと感じさせる理由なのではないか、と思った。
何度も繰り返すように六本木のマックは、ふつうのマックとは違う。でも、そこで感じる「居心地の良さ」は、多分、世界のどこでも同じなのではないか。

私たちは、マックを「どこでも同じ」だと思うが、じっくり店を見れば、その中には違いがある。でも、その違いを超えてマックをマックたらしめているものこそ、「居心地の良さ」なのではないだろうか。

いうなれば、私たちは、この「居心地の良さ」を通じてつながっているのではないだろうか。


ここは六本木なのか

店を出る。目の前には六本木ヒルズが広がっていて、たしかにここが六本木だったことを思い出させる。

六本木のマックはここにしかない。でも、同時に、今私が行ったマックは、どこにでもあるマックなのかもしれない。

そんな、矛盾を抱えた思考を持ったまま、六本木の交差点を向かうのだった。







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谷頭和希

ライター・作家。チェーンストアやテーマパーク、日本の都市文化について、東洋経済オンライン、日刊SPA!などのメディアに寄稿。著書に『ブックオフから考える』『ドンキにはなぜペンギンがいるのか』。

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