金木犀の香りを知る人になる

  • 更新日: 2023/11/23

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いざ、ファーストスメル。

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金木犀。地球と火星をすっ飛ばし、金星と木星を合体させた壮大な響きを持つその植物を、私はまだ見たことがない。香りも知らない。私が生まれ育った北海道には金木犀がないのである。歌や小説に頻繁に登場するので名前だけはよく知っているが、実物は一度も見たことがない。私にとって金木犀は伝説の植物。限りなくツチノコに近い存在。

今年、長年暮らした北海道から東京に引っ越してきた。東京出身の夫によれば、こちらでは秋になると金木犀が住宅街や公園などあちこちで咲き、道を歩けば甘い匂いが漂ってくるという。

金木犀があたりまえに香る世界にやってきた。

はずなのだが、もう10月半ばだというのに、金木犀は未だ私の前に姿を現さない。いや、現れているのに私が見逃している可能性が極めて高い。「そこらじゅうで香ってるじゃん!」と夫は言うが、全然わからない。まあ振り返ってみれば、紅葉など目もくれず、秋だサンマだ冷おろしだと飲み食いばかりやってきた人生である。四季の草花を察知する能力が鈍っていても何ら不思議ではない。

このまま金木犀の匂いがわからない鈍感キャラを貫こうかとも思ったが、そんなしょうもないアイデンティティを来年の秋までダラダラ持ち越してもろくなことにならないだろう。私は金木犀を嗅ぎに行こうと決めた。私のような人間は、意識的に金木犀を探して歩く必要がある。



なんの因果か、その日はサンマが上手に焼けそうな、グリルみたいな空だった。結局おまえは花よりサンマなのだと暗示されているようで不吉である。調べてみると、これは鰯雲というらしい。鰯も好きなのでもう救いようがない。

小竹向原駅という駅名を初めて見た時、覚えにくそうな名前だと思ったことがかえって印象に残りすぐに覚えた。調べたところ、所在地が練馬区の小竹町と板橋区の向原に跨っていることからきている名称らしい。この場合、向原小竹とする選択肢もあったに違いないが、口に出してみると途端に語呂が悪い。そして何より、地名を司る上で「原」の包容力は絶大である。最後に「原」があるだけで、地名としての秩序が保たれる気がする。

3番出口から出て、向原方面を北に向かって歩くことにした。思いのほか日差しが強い。天気アプリを見ると26℃もある。あまりに暑いので上着を脱いで半袖になった。本当に10月半ばなのか? 都民はこれを秋と呼ぶんだぜ?

さて、私が金木犀について知っていることといえば、赤黄色の小さな花、そして甘い匂い。金木犀の匂いはトイレを連想する人が多いらしいが、金木犀が大好きな夫に聞いたところ、それは悪質なデマであり不名誉極まりなく誠に遺憾とのことで、私はトイレの匂いという貴重なヒントを夫婦円満のため建前上失うこととなった。夫曰く、トイレなんかよりずっとずっといい香りとのことである。それを信じて周囲の匂いを嗅ぎながら、麻薬犬の気分で歩みを進める。

しばらく住宅街を歩いていくと、緑がちらっと見えたのでそちらの方向に曲がった。道の突き当たりには洋菓子店があって、奥は遊歩道になっているようだった。そこの生垣に、オレンジっぽいものが見えた。近づいてみると、小さい花が無数に咲いている。



赤黄色の花、そして周囲に漂う甘い匂い。勝利を確信した。私が本気を出せばこんなものである。

しかし、すぐ違和感に気づく。この匂い、妙に味覚に訴えてくるのだ。花の香りというよりはバターのような、大変おいしそうな匂い。視線を上げれば、目の前に洋菓子店。つまり、そういうことである。



金木犀の香りも混ざっているのかもしれないが、洋菓子の香りが強くてよくわからない。花の色からしてこれが金木犀であることはほぼ間違いないように思うが、スマホで画像を検索するのは負けな気がする。考えた結果、私はこれをノーカンとした。どうせなら香りもセットで「これかぁ!」と感動したいのである。



気を取り直してまた歩きはじめた。遊歩道を通り抜け、閑静な住宅街をゆく。

急に風が強くなって、各家庭の洗濯物がちょっと心配になるくらい揺れはじめた。匂いを探すのは難航した。甘い匂いがした気がしても、一瞬で風に持っていかれる。

強風に邪魔されながら一時間ほど闇雲に歩いたが、金木犀は一向に見つからない。私は観念してGoogleマップを開いた。近くに大きな公園がある。大きめの公園に行けば高確率で見つけられるだろうとは予想していて、それではつまらないから住宅街を歩いていたのだが、もうそんなことも言っていられない。

公園の中に入ると、早速オレンジ色が散らばっていた。「これかぁ!」と近づいてみると、急に足が臭くなったので焦った。私の足ではなく、銀杏だった。猛烈に臭い。公園はあちこち銀杏まみれで、金木犀どころではなかった。



足早に公園を突っ切り、道路に出た。頼みの綱の公園で目的を果たせず、どうしたものかとまた歩く。こんなことならあのバター混じりの匂いで手を打っておくべきだったかもしれない。

この辺り一帯は道路を挟みながらテニスコートや小さな公園が連続していたので、まだ緑の気配はあった。時々出現する銀杏ゾーンを息を止めながらやりすごし、散策を続けた。

公園一帯の端まで来たときだった。信号の向こうにある赤黄色を私は見逃さなかった。青になって道路を渡ると、そこには今日最初に見つけたのと同じ、赤黄色の小さな花があった。



風は相変わらず強く、枝がわっさわっさと揺れていた。風と風の隙をついて、鼻から空気を吸い込む。

「これかぁ!」

甘い。確かに甘い。なるほど、これは独特だ。夫には悪いが、トイレの匂いと言われているのもわかる気がする。一度嗅ぐと、不思議ともう一度嗅ぎたくなる。なんだか癖になるいい香りだ。

私は金木犀の香りを知る人になった。



必死に匂いを嗅ぐ私の後ろを、下校中の高校生たちが笑いながら通り過ぎていく。秋になると当たり前に金木犀が香る彼らの青春が、少し羨ましい。まあ、その代わり彼らの青春には雪虫とかいないわけで、ないものねだりである。

ちなみに雪虫とは北海道の秋に大量発生するアブラムシの一種で、小さくて白くてふわふわした見た目から雪虫と可愛らしい名前で呼ばれているがよく見りゃ普通に虫であり、自転車に乗っていると鼻や口にインしてきて最悪なのでやっぱりどう考えても金木犀の方がいい。



上板橋駅から帰ることにした。商店街を抜けると、駅前に富士そばの看板を見つけた。首都圏にしかない富士そば。芸能人がよく話題にしているので、ずっと食べてみたいと思っていた。せっかくだから、もう一つ「知らない」を潰して帰ることにしよう。

たくさん歩いてすっからかんになった胃袋を抱いて意気揚々とドアの前に立ったところで、やっと張り紙に気づいた。

「閉店のお知らせ」



半年以上前に閉店したとは思えないほど生気に満ちた店構えだったので完全に騙された。

あの日見た花の香りを私はもう知っている。しかし、あの日食べ損ねた富士そばの味は、まだ知らない。



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長瀬ほのか

エッセイや小説を書いています。口数多めの散歩です。

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