「無」の看板を集めたら「有」が見えてきた

  • 更新日: 2020/05/28

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「無」の看板の例

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乗り換えでよく西日暮里駅を利用する。JRから日暮里舎人ライナーへの乗り換えはやや離れており、5分程度歩かなければならない。その途中でいつも見上げる看板がある。



「広告を募集しています」という看板である。かれこれ1年以上は同じ状態のままだ。このご時世、ビル上に広告を出そうというクライアントはなかなか現れないのか。そもそも「広告募集という広告」にはいくら広告費がかかっているのか。妙に気になり始めた。

よく考えると街にはこのような、いわば「無」の広告や看板が多数存在する。今回はカテゴリー別に「無」の看板類を採集し、その価値を確かめていこうと思う。


レベル1「広告無」

まずは最初に気になった「広告無(こうこくむ)」から。と勝手にネーミングしてみた。以下、無のレベルごとに名前を付けているのでご了承ください。







集めてみて分かったのは、「広告募集中という広告」は全体のスペースに比例して小さいということだ。最低限の情報(会社名、募集中であること、電話番号)しか掲載されていない。しかし、少ないながらも例外があった。



左右にややスペースが残っているものの、堂々とした募集っぷりである。先ほど紹介した3つはやや控えめな性格を見せていたが、これは“ジャイアンタイプ”だ。


レベル2「劣化無」

経年劣化により、ほとんど意味をなさなくなった看板や広告、それが「劣化無(れっかむ)」である。読み方(イントネーション)はベッカムと同じで構わない。



劣化無で最も多いのが消費者金融系の看板だ。マルフクあたりが有名である。



ちなみにここでピックアップしているのは、ただ単に古い看板ということではない。情報が不完全であり、本来の意味をなしていないもの、と定義している。

毎日この道を通っている人は、もはやこの看板は目に入っていないはずだ。空間に溶け込んでいるという意味では「アンビエント広告」に近い。



「駐車禁止」の看板っぽいが、中身が消えておりほとんど読めない。これも劣化無である。



ビルの上で亡霊のように佇む「劣化無」看板。悲しみの果てに何があるのか。



お部屋探しどころではない。劣化無というより破壊無。



突然現れた、缶のテクスチャー。左側の看板から分かるとおり、空き缶のポイ捨てを注意する看板、なのだが。文字がすっかり消えている。Word初心者が見よう見まねで描いたような、極めて客体化されたオブジェクト。


レベル3「大喜利無」

劣化無の亜種とも言えるのが「大喜利無(おおぎりむ)」である。部分的に文字が消えてしまい、大喜利のお題のようになってしまっているものを指す。





強調したい文字を赤色にしたものの、赤色の塗料は太陽光(おもに紫外線)に弱く、発色構造が分解してしまう。と説明するまでもなく、この赤が消えるパターンは多くの人が目にしている。別名、赤無(あかなし)くんである。Twitterには「#だから赤は使うなとあれほど」というタグもあるくらいだ。



不法 棄 禁。何らかのものが爆発しているが、それが何かは分からない。Wordの図形っぽいなと思ったら、まさしくピッタリだった。図形の名前は「爆発1」である。

▼爆発1





犬が泣いているが、よく見ると二足歩行だ。おそらく着ぐるみの中に人が入っている。そうすると、下に落ちているのは犬のふんではなく、人糞だ。気をつけろ。

吹き出しのセリフでボケたい方は、ご自由にお使いください。



夕方に撮った写真。大喜利無(赤無くん)だなあ、と思ったが、



フラッシュで撮ると文字が浮かび上がった。あぶりだされた「行政の指導」。ややタイムリーなキーワードでもある。


レベル4「駅無」

採集した中で最も多かったのが、駅における無「駅無(えきむ)」である。







本来は広告が入るスペースだが、何もない。いわば無のキャンバスである。駅では「広告募集中という広告」をほとんど見かけない。



そんな中、気になったのが「カバーの仕方」である。



何らかの事情により、表面のアクリル板が割れてしまったため、テープで覆われている。



ちょっと汚い。穴が開いている。



ガムテ継ぎはぎ。酔っぱらいが頭を突っ込んでしまった後の修復。



アクリル板は割れていないものの、紙がめくれている。チラリズム。無の裏側には何があるのか。



と思っていたら、無の裏側にすごろくのようなLED配線が現れた。正確にいうと、先ほどの駅無とは違う場所で撮ったものだが。これを見たときは衝撃を受け、体に電気が走った(LEDだけに微弱)。



東京メトロでは、このパターンの駅無をよく見かける。うずまきが2つ。広告が入っていない状態でも、見る人に何かを与えようとするデザイナーの心意気が感じられる。しかし、なぜうずまきなのか。



と思っていたら、別の場所でうずまきが横に繋がっている駅無を発見した。人生は渦の連続である。



一瞬、「この四角い模様は何だろう?」と考えてしまったのだが。よく見ると、広告ポスターの貼り位置だった。大と小、2種類ある。



つまり、こういうことだ。おそらく大きいサイズがB2、一回り小さいポスターの場合はA2サイズ。貼り位置(のり付け位置)が示されており、作業員に優しい。


レベル5「政党無」

政党の掲示版における無、それが「政党無(せいとうむ)」である。実はこれ、意外と少なかった。





やはり、古くからある政党しか掲示板(広報板)は存在しないようだ。比較的新しい政党の掲示板はまったく見かけない。一方で、いわゆる選挙ポスターの類はそこらじゅうにある。

顔と名前は選挙ポスターで覚えてもらう。しかし、連絡や告知を目的とした「情報」を伝えるための掲示物は、インターネットに置き換えられている、ということだ。



自民党の掲示板はイラスト入りだった。何らかのポスターを貼付した跡が残っている。


レベル6「店舗無」

店舗の看板だけが残され、何も書かれていない状態、それが「店舗無(てんぽむ)」である。



これだけ大きな看板を作るには、それなりのお金がかかっているはずだ。しかし、何らかの事情で閉店せざるを得ない状況に。看板を撤去するにもお金がかかる。居抜きで後に入る人がいれば、そのまま看板として使えなくはない。じゃあ、とりあえず店名だけ消して、看板は残しておこうか。。

そんなストーリーが垣間見える。



とある商店街にて。シャッター商店街に残された店舗無看板は、ひときわ物悲しい。



これは大阪・日本橋の電気街「でんでんタウン」で撮ったもの。



天井から同じ形状の看板がぶら下がっているのだが、ときおり無が現れる。



ほぼ文字が見えてしまっているため、無と言えるかどうかは微妙なところだ。しかし、明らかに営業をしていないことは分かる。インテリアの店なんだから、もう少しキレイに消しても良かったのではないか。そう言いたくもなるが、きっとやむを得ない事情があったのだ、たなべさんにも。


レベル7「跡無」

何らかの跡だけが残されている看板、それが「跡無(あとむ)」である。読み方は鉄腕と同じで構わない。





「とにかく消したい」という意図だけが先走った結果、抽象的な模様だけが残された看板。



何かを貼り付けていたのだろうか。接着剤らしき跡が不器用なドット模様として残されている。



ご丁寧に照明器具まで設置されているものの、何も掲示されていない。直線的な貼り跡と、横にあった道路標識の影が絶妙に合わさっており、刻一刻と変化する抽象画のようにも見える。

街は、抽象画の宝庫だ。



一番気に入っている跡無がこれである。大喜利無に近いものの、元の手掛かりがほぼない。上の丸が並んでいるところから推測するに、ややポップな内容と思われる。跡無から元の状態を推理するのも楽しい。


レベル8「空間無/立体無」

ここまでは主に2次元(平面)の無をピックアップしてきたが、最後に3次元、つまり「立体および空間としての無」も紹介しておきたい。



パッと見、何か分からなかったのだが、よく見るとケーブルのようなものが出ている。



何らかの電飾を付けていたのだ。しかし、どういう文字だったのかは分からない。



無の自販機。形状からすると、元はタバコの自販機だ。

街中で無造作に置かれていたこの自販機を見たとき、無をこじらせていた私は妙にテンションが上がってしまった。いっそこのまま「無が買える自動販売機」として、文化庁メディア芸術祭に出品したいくらいである。



とある公共施設にて。通り過ぎようとした瞬間、「いったいこれは、なんの空間なのか?」と、無のレーダーが感知した。



5秒ほど考えて分かった。元は公衆電話を置いていたスペースである。奥に白い紙を貼り、電話線のモジュラージャックを隠している。

「公衆電話が撤去された後の、無のスペース」については、次回の研究課題としたい。


まとめ ――無の考察

さまざまな無を観察してきた。最後にまとめとして、「無の魅力」を2つピックアップしておこう。

1.時の流れ、自然の摂理には逆らえない(諸行無常)

劣化無で紹介した看板には、時の流れが刻まれている。風雨にさらされながらも、そこに佇む看板。



人の作りし物が放置され、朽ち果てていく。今や誰にも見向きもされない。そこに無常感を覚えるのは、廃墟や秘境駅に惹かれる感覚に近い。オロナミンCやボンカレーの古い看板を愛でるようなレトロ感覚とはまた少し違う。無には、そこはかとない悲しみが入り混じる。

2.「本来そこにあるべきものが無い」というおかしみ

人は物体、空間に何らかの意味を見出そうとする。しかし、そこにあるのは「無」だ。



本来そこにあるべきものが、無い。それはおかしなことだと認識される。ここでいう「おかしなこと」には、「変」と「可笑しい」が入り混じっているのだ。

最近の例では、無観客ライブや無観客試合が思い浮かぶ。大相撲春場所の無観客試合に対して、ある種の違和感とともに新鮮さ(儀式感!)を感じた人も多いはずだ。



当院のおすすめは、無。


終わりに ――無の価値とは

無の看板や広告を集め、その価値を見出す試みであった。ただ、ここまで読んでも「無は無であって、そんなものに価値はない」と思う読者もいるかもしれない。

しかし、だ。よく考えてみて欲しい。







0カロリー、脂肪0、糖質0、プリン体0……無があふれている。本来であれば、何かが入っている「有」に対して価値があるという価値観が当たり前だ。しかし、何も入っていない「無」の状態にこそ価値があるという価値観がすでに浸透しているではないか。(カチカチ言って申し訳ございません)

ここまでゼロ、つまり「無」がフィーチャーされる時代があっただろうか。いや、無い。

やはり「無」には、「有」とは異なる魅力、そして価値がある。無の広告や看板を集めてきた行為は、無駄ではなかった。それが証明できたところで終わりにしよう。



最後は無印良品の前から、無表情でお別れです。さようなら。


******************************
(追記)
この記事を書き終わったあとに、「無言板」というコンセプトを提唱している方を知りました。(美術評論家の楠見清さん)
https://san-tatsu.jp/articles/29657/

やや視点は違うものの、同じ「無の看板」を愛でている人がいたという偶然に驚いているところです。どの世界にも”同好の士”がいるもんですね。これで自信が確信に変わりました((c)松坂大輔)。






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村中貴士

編集&ライター。大阪生まれ。「大阪人っぽくないよね」とよく言われるが、人を笑わせたいという吉本的アイデンティティーが自分の血には確実に流れている、と思う。

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