国道16号線全部歩いてみた - エピソード5「週末(=終末)処理施設と16号線」
- 更新日: 2020/01/30
左上から三井アウトレットパーク入間・ラブほてる・産業廃棄物処理場・斎場。これらが16号線に集まっている意味とは。
ライターという属性からか、あるいは生まれつきなのか分からないが、どこか一つの街を歩くにしても「よし、人と違う視点を見つけて歩いてやろう」という意気込みをどうしても持ってしまう。「しまう」と書いたけれど、別に私としてはそれを悪いことだとは思っていなくて、むしろ街歩きを記事にするならそれぐらいの気合いがなければならぬ、と思っているぐらいだ。こうした者にとって街歩きの中で直面するもっとも深刻な事態として次のような問題が挙げられる。
「普通に楽しんでしまう」
もう、観光客気分で普通に街を楽しんでしまうのだ。そうなってくると辛いのは記事にするときだ。
「普通に街を楽しんだ記事」
これでは別に取り立てて記事にする必要などどこにもない。ブログやSNSのように、一般の人でも自分の感想を書き、それを拡散することのできるメディアが増えたいま、そんな普通な記事など、ライターがライターとして書かなくたってネット上にたくさん存在するだろうし、ことによればそうした人々が書いた文章の方が、印象に残ることだってありうる。やはり街について書くライターは普通の人々が、そうは見ないような街の景色を文章によって浮かび上がらせることが必要なんだろうな、と思う。あくまで持論なのだけれども。
国道16号線に全く関係ない話から始めたのは、かくいう私が今回の16号線散歩で「普通に楽しんで」しまったからである。でも、1つ言い訳をさせてもらいたい。多分今回の散歩のルートを見たら誰だって「普通に楽しんでしまう」と思うんだよ。理由は明白。
「アウトレットモール」
楽しんでしまうに決まっているじゃないか、アウトレットモールに来たら。このアウトレットモール、正式名称を「三井アウトレットパーク入間」といい、国道16号線をずっと歩いているときに遭遇した。アウトレットモールとは、流行遅れや「訳あり」になってしまったブランド品を処分するために、正規の販売価格よりも安く商品が取引される店舗が集まったモールのことで、その多くが高速道路沿いや幹線道路沿いに立地している。日本では那須や軽井沢といった観光地、そして木更津や入間などの郊外にその立地が多い。
ここで主張させて欲しい。
「国道16号線にはアウトレットモールが多い」
国道16号線沿いにはアウトレットモールが多く立地している。今回の散歩で突き当たったように、入間のアウトレットは16号線上に立地しているし、その他にも2019年11月にリニューアルオープンした「南町田グランベリーパーク」も国道16号線沿線にある。
※ちなみに、「サンポー」のサイトマスター・ヤスノリさんは、この「南町田グランベリーパーク」周辺をリニューアルオープン前に散歩している。記事では、南町田周辺について、その歴史などかなり詳細に書かれていて大変興味深いので、ぜひお読みいただきたい。
現在、全国には35店舗のアウトレットモールがあるというが、16号線上に立地するものだけですでに2店舗。16号線上というだけでなくても、その近辺にあるアウトレットモールということで考えれば、木更津、幕張、越谷などにも大きなアウトレットモールがある。
何回「アウトレットモール」という言葉を書いているのだろうかと自分でも驚くほどだが、ここから言えるのはこういうことだ。
「私はアウトレットモールが好き」
いきなり私の好みを言われたって読者は途方にくれるだろうけれど、とにかくそういうことなのだ。だからこそ私はアウトレットモールで「楽しんで」しまった。そしてあろうことか、入間のアウトレットモールの中を「ウィンドーショッピング」してしまったのだ。
「ウィンドーショッピング」なんて言葉、書くのは始めてだし、もはやほとんど死語なのではないかと感じてさえいるのだが、「三井アウトレットパーク入間」にいる人々は、「ウィンドーショッピング」としか言いようのない動きで連なる店舗をフラフラしている。それはかの有名な思想家、ヴァルター・ベンヤミンに言わせれば「遊歩者」の動き、つまりある時期からパリの街に出現し、あてどなく街をぶらつく都市住民らの身体に他ならないわけであるが、日本における「遊歩者」といえば次のような者らを忘れてはならない。
「銀ブラをする者たち」
▲銀ブラをする者が現れた1920年代の銀座
この言葉もまた、死語なのではないかと感じずにはいられないが、やはり今、入間のアウトレットモールにいる者たちのように、かつて銀座をぶらぶらとする者たちがいた。銀座でぶらぶら、略して「銀ブラ」だ。しかし「銀ブラ」をする者たちと、今、私の目の前でアウトレットパークをふらつく者たちにはどこか、根本的な差があるような気がする。それはこういうことだ。
「アウトレットパークに来る者は、自家用車で来る」
思えば、「国道16号線全部歩く散歩」を初めてこのかた、これほどまでに歩行者をみたことはなかった。すでに連載の中で何度も書いたように、国道16号線とは車のための道であり、そこは歩行者のためではなく、自動車を運転する者のために作られ整備されてきた歴史がある。そしてこの「三井アウトレットパーク入間」に来る者もまた、モール内では歩行者として振舞ってはいるものの、モールそのものに来るときは自家用車で来るのだ。歩いて来るなど、絶対に想定されていない。
▲アウトレットモールに入ろうとする車たち
一方で銀ブラの舞台は「銀座」である。ぶらぶらする舞台そのものが都会の中にあり、都会から離れた場所にポツンとあるモールとは根本的に異なっている。
そう考えると、銀ブラをする者らは、都市の「中心」をぶらぶらしているのであり、一方アウトレットモールをぶらぶらする者らは、都市の「周縁」をぶらぶらしているのだといえよう。
▲都市の周縁、アウトレットモールに向かう車の列。見れば様々な場所からここに集っていることが分かる。それも、国道沿いに立地している故のことである。
さて、私はそのようなことを考えながら「ウィンドーショッピング」をしている。考えすぎて、本当に「ウィンドー」を見れているのかどうか怪しくなってくるものの、我に帰って周りを見渡してみると、家族づれが多い。国道16号線散歩はいつも日曜日に挙行することが多いので、きっとこの家族たちは郊外にある家から車で国道16号線を通り、週末にここでショッピングを楽しんでいるのだろう。
▲モールの中のアトラクションに興じる家族たち。楽しそう。あと、このアトラクション、罰ゲームとかにあるやつだよね。
さて、ここまでが今回の話のマクラである。長い。長すぎやしないか。すでに最初に示しているように、今回の国道16号線散歩のタイトルは「週末(=終末)処理施設と16号線」である。タイトルにある「週末処理施設」とは今語ってきた「三井アウトレットパーク 入間」のことだ。
「『週末』に家族が各々の欲望を処理するために来る施設」
このようにアウトレットモールを語ってみたい。何をそんなに大げさに、と思われるかもしれないが、これには理由がある。
さて、本題の「週末処理施設」の話をしよう。実は、この「三井アウトレットパーク入間」に至るまでの16号線の途上で、また異なる「処理施設」があるのを私は目撃した。
それが「産業廃棄物処理場」である。
今回の散歩では東京都の箱根ヶ崎から出発し、途中で埼玉県の入間市に入った。入間市に入ると、途端に産業廃棄物処理場が周りに多く見えてきたのだ。
産業廃棄物とは、文字通り産業活動に伴って排出されるゴミのことだ。それを処分には国の法律に基づいて自治体から認可を受けた業者が必要だ。私がこの施設にこだわるのには理由がある。
実はこの連載の第2回目(エピソード1)、私はこんなことを書いた。
「今回、僕は小田急相模原から相模原まで歩いてみた。そして、国道16号戦の右車線と左車線において、何かしらの分断がそこにあるのではないかと推察してみた。左車線には田舎、森、慰霊碑、あるいは障害者施設。右車線には都市、ビル、マック。もちろん最初にも述べていたように、これは251キロメートルもある国道をほんの少し歩いたときに感想に過ぎない。でも、やはり右車線と左車線は何かを分断している。
左車線には、どこか僕たちが記憶の片隅から抑圧してしまいそうな風景がある。」
▲16号線沿いにあった森。左車線にあって記憶の片隅からこぼれ落ちてしまいそうなもの
最近はずっと書いていなかったのだけれど、私はこの散歩中、「僕たちが記憶の片隅から抑圧してしまいそうな風景」というのをずっと考えている。そして産業廃棄物処理場を見たときに、この「記憶の片隅から抑圧してしまいそうな風景」という一文が頭をよぎったのだ。
で、今日はもっと深いところまで考えてみたい。エピソード1からずっと連なる問題意識として、16号線と終末処理施設についてもっと解像度を上げて話してみたいのである。
産業廃棄物は私たちが生活をしている限り、必ず生み出されるものだ。裏返していえば、私たちの生活を成り立たせている工業製品が生まれる影には、その残りとしての産業廃棄物が必ず存在する。しかし私たちはそうした工業製品の利益を受けながらも、その必然として生み出される産業廃棄物については知らなかったり、あるいは見て見ぬ振りをしているのではないか。
そして16号線にはそのように私たちがあまり知ることのない産業廃棄物を処理する施設がずらりと並んでいる。それがなぜ、入間市に入った途端に増えるのかは分からないのだが、しかしそれらがここ16号線にあるという意味を考えざるを得ない。
そしてそうした産業廃棄物の処理場を「終末処理施設」とここでは呼んでみたい。本来、終末処理施設とは下水処理場のことを示すのだが、ここではその意味を拡大して何かの物質の終わりを処理する施設として、産廃物処理場をそう呼んでみたい。まあ、実際は「週末処理施設」と同じ言葉でキャッチーだな、と思っただけなんだけれど。とはいっても、「終末処理施設」と「週末処理施設」、完全に関係がないわけではない。その意味を明らかにするためにはもう少し回り道が必要なのだが。
「NIMBY」
Not In My Back Yard(うちの裏庭にはやめてくれ)という英文の頭文字を取ってそう呼ばれている。ある施設について、その必要性は認めるが、騒音や悪臭、あるいは治安悪化などの問題のために自分の家の周りには作らない欲しい、と主張する住民やその態度のことを表す単語で、社会学の領域で使われている言葉だ。
「必要性は認めるが、近くにはあって欲しくない施設」
その代表例は、原発やゴミ処理場、下水処理場などであり、それらはどれも我々の生活を支える基本的なインフラであるにも関わらず、その危険性や悪臭・騒音などから自宅の近くに建てられることを忌避される施設である。忌避された結果、それらの施設は都市の周縁部に集まる。そして今までの文脈でいえば、産業廃棄物処理場だって、れっきとした「NIMBY」案件だ。16号線が都市の周縁に位置していることは先も述べたが、だからこそこうした産業廃棄物処理場はNIMBYとして16号線に多く立地しているのかもしれない。
で産廃物処理場以外にも16号線を見渡してみると、それがかなり「NIMBY」案件に囲まれていることがわかるのだ。例えば今までの連載ではほとんど触れていないのだけれど、16号線沿いには斎場が多くある。
これは富士山である。16号線から見えた。このように、今回歩いた場所の中には、「富士山(ふじやま)」という富士山が見えるために付けられたのであろう地名があり、そこには大きな斎場があった。この光景がなかなかシュールである。
富士山の名前の由来には、『竹取物語』のなかで不死の薬をそこで燃やしたことから、「不死(=ふし)」の山、として富士山が名付けられたというエピソードがあるが、それを踏まえるとなんとも皮肉な光景である。人間の「終末」を処理する施設として斎場はあるが、斎場建設に対して反対運動が行われることもしばしばある。「死」というマイナスイメージが張り付く施設なぞ、自宅の近くにあって欲しくない、ということだろう。つまり、典型的な「NIMBY」案件だ。
だからこそ、こうした斎場も16号線沿いに多くあるのではないか。
さらに、これもまた今までの連載で語ってこなかったことであるが、16号線沿線にはラブホテルも多くある。今回のコースでも通った。
ラブホテルもまた、「NIMBY」案件である。マンションの分譲が増えた時代以降、ラブホテルというのはある人々にとって無くてはならないものになった。そうでなくても、3代欲求の一つに性欲は数えられ、性欲抜きで人間を考えることはできないはずだろう。しかし同時に、自宅の裏庭にラブホテルが堂々と立つことを嫌がる声は多いはずだ。ここにも「必要だが、嫌がられる」物件、つまり「NIMBY」物件としてのラブホテルがある。
そう考えてみると、「何かの終末を処理する施設」の他に、「人間の欲望が露わになっている施設」もまた、「NIMBY」案件だと言えるかもしれない。
「性」や「死」、あるいは「露わな欲望」のように、人間に絶対付いて回るのに、その存在をどこか否定したくなり、裏庭にはごめんだ、と思わせてしまう施設が「NIMBY」案件となって16号線には存在している。というのも、何度も語るように16号線とは人が集まる都会から程よく離れた「周縁部」だからであり、そうした施設は周縁に置かれることが多いのである。
▲今回の散歩の途上にあった「The Mall みずほ16」。「The」なのだから中々すごい。
先ほども書いたように、「三井アウトレットパーク入間」には週末に家族づれがゾロゾロとやってくる。ある意味で、彼らはそこで「何かが欲しい」という自身の欲望を満たし、処理している。あるいは、ショッピングモールで買い物をすることは、性欲を処理するためにラブホテルを用いるのと、原理的には同じことなのかもしれない。
あるいは立地の面から見ても良いかもしれない。
ショッピングモールが建設されることに対する反対運動は多くの地方で起きているし、2000年に施行された「大店立地法」のために大規模な商業施設は中心市街地ではできなくなり、都市の周縁部に立地することを余儀なくされた。一見、忌避されることが少なそうなショッピングモールも、結果として都市中心部から忌避され、「NIMBY」のように周縁に立地することになる。だからこそ、16号線沿いにはショッピングモールが多いのだ。
つまりだ。「終末処理施設」としての産業廃棄物処理場と、人間の欲望を「週末」に処理する「週末処理施設」としてのアウトレットモールは、「NIMBY」という点において、共通する特徴を持っているのではないか。
そして、16号線にはそうした「NIMBY」案件が反復的に現れる。
中心にはいることができず、周縁に存在する「NIMBY」たちの群れ。
かつて私はこの連載で、国道16号線が左車線と右車線に置いて何かを分断しているのではないか、と書いた。その一端は、NIMBYを考えることによってより明瞭になるのではないかと思う。先ほども語ったように、NIMBYは都市住民にとって実際上の必要があるために、都市から遠い場所におかれるわけではない。しかしその名前が示す通り、都市の中には存在しにくい。そこは完全な中心でもなく、完全な周縁でもない。つまり、16号線とは、中心と周縁の境界線上にに位置しているのであり、そしてその「中心と周縁」の2つを分断するようにして存在しているのではないか。
「中心/周縁の境界線としての16号線」
無論、何が中心で何が周縁なのか、それは定義によって変わるはずだし、きわめて曖昧な言葉である。つまり、これからこの連載では、ここで言われている「中心/周縁」とは一体なんのことなのか、それをも考えてゆく。
さて、16号線というある特殊な道に存在する独特な磁場の一端が少しずつ解けてきただろうか。
「終末(=週末)処理施設と16号線」
このタイトルはくだらない駄洒落である。しかし、NIMBYという特徴によって紐づけられたその2つの施設が、徐々に16号線という特殊な磁場を持った道路を暴いてゆく。
今回は考えすぎた。疲れた。
真面目すぎたかもしれない。
「普通に楽しんでしまう」
もう、観光客気分で普通に街を楽しんでしまうのだ。そうなってくると辛いのは記事にするときだ。
「普通に街を楽しんだ記事」
これでは別に取り立てて記事にする必要などどこにもない。ブログやSNSのように、一般の人でも自分の感想を書き、それを拡散することのできるメディアが増えたいま、そんな普通な記事など、ライターがライターとして書かなくたってネット上にたくさん存在するだろうし、ことによればそうした人々が書いた文章の方が、印象に残ることだってありうる。やはり街について書くライターは普通の人々が、そうは見ないような街の景色を文章によって浮かび上がらせることが必要なんだろうな、と思う。あくまで持論なのだけれども。
国道16号線に全く関係ない話から始めたのは、かくいう私が今回の16号線散歩で「普通に楽しんで」しまったからである。でも、1つ言い訳をさせてもらいたい。多分今回の散歩のルートを見たら誰だって「普通に楽しんでしまう」と思うんだよ。理由は明白。
「アウトレットモール」
楽しんでしまうに決まっているじゃないか、アウトレットモールに来たら。このアウトレットモール、正式名称を「三井アウトレットパーク入間」といい、国道16号線をずっと歩いているときに遭遇した。アウトレットモールとは、流行遅れや「訳あり」になってしまったブランド品を処分するために、正規の販売価格よりも安く商品が取引される店舗が集まったモールのことで、その多くが高速道路沿いや幹線道路沿いに立地している。日本では那須や軽井沢といった観光地、そして木更津や入間などの郊外にその立地が多い。
ここで主張させて欲しい。
「国道16号線にはアウトレットモールが多い」
国道16号線沿いにはアウトレットモールが多く立地している。今回の散歩で突き当たったように、入間のアウトレットは16号線上に立地しているし、その他にも2019年11月にリニューアルオープンした「南町田グランベリーパーク」も国道16号線沿線にある。
※ちなみに、「サンポー」のサイトマスター・ヤスノリさんは、この「南町田グランベリーパーク」周辺をリニューアルオープン前に散歩している。記事では、南町田周辺について、その歴史などかなり詳細に書かれていて大変興味深いので、ぜひお読みいただきたい。
南町田グランベリーパークはパーク以外も楽しい|ジモトぶらぶらマガジン サンポー
南町田駅が、南町田グランベリーパーク駅になった。2019年10月1日から駅名が変わったのです。長すぎないか? と思ったけど、調べたら世の中には「長者ヶ浜潮騒はまなす公園前駅(ちょう…
現在、全国には35店舗のアウトレットモールがあるというが、16号線上に立地するものだけですでに2店舗。16号線上というだけでなくても、その近辺にあるアウトレットモールということで考えれば、木更津、幕張、越谷などにも大きなアウトレットモールがある。
何回「アウトレットモール」という言葉を書いているのだろうかと自分でも驚くほどだが、ここから言えるのはこういうことだ。
「私はアウトレットモールが好き」
いきなり私の好みを言われたって読者は途方にくれるだろうけれど、とにかくそういうことなのだ。だからこそ私はアウトレットモールで「楽しんで」しまった。そしてあろうことか、入間のアウトレットモールの中を「ウィンドーショッピング」してしまったのだ。
「ウィンドーショッピング」なんて言葉、書くのは始めてだし、もはやほとんど死語なのではないかと感じてさえいるのだが、「三井アウトレットパーク入間」にいる人々は、「ウィンドーショッピング」としか言いようのない動きで連なる店舗をフラフラしている。それはかの有名な思想家、ヴァルター・ベンヤミンに言わせれば「遊歩者」の動き、つまりある時期からパリの街に出現し、あてどなく街をぶらつく都市住民らの身体に他ならないわけであるが、日本における「遊歩者」といえば次のような者らを忘れてはならない。
「銀ブラをする者たち」
▲銀ブラをする者が現れた1920年代の銀座
この言葉もまた、死語なのではないかと感じずにはいられないが、やはり今、入間のアウトレットモールにいる者たちのように、かつて銀座をぶらぶらとする者たちがいた。銀座でぶらぶら、略して「銀ブラ」だ。しかし「銀ブラ」をする者たちと、今、私の目の前でアウトレットパークをふらつく者たちにはどこか、根本的な差があるような気がする。それはこういうことだ。
「アウトレットパークに来る者は、自家用車で来る」
思えば、「国道16号線全部歩く散歩」を初めてこのかた、これほどまでに歩行者をみたことはなかった。すでに連載の中で何度も書いたように、国道16号線とは車のための道であり、そこは歩行者のためではなく、自動車を運転する者のために作られ整備されてきた歴史がある。そしてこの「三井アウトレットパーク入間」に来る者もまた、モール内では歩行者として振舞ってはいるものの、モールそのものに来るときは自家用車で来るのだ。歩いて来るなど、絶対に想定されていない。
▲アウトレットモールに入ろうとする車たち
一方で銀ブラの舞台は「銀座」である。ぶらぶらする舞台そのものが都会の中にあり、都会から離れた場所にポツンとあるモールとは根本的に異なっている。
そう考えると、銀ブラをする者らは、都市の「中心」をぶらぶらしているのであり、一方アウトレットモールをぶらぶらする者らは、都市の「周縁」をぶらぶらしているのだといえよう。
▲都市の周縁、アウトレットモールに向かう車の列。見れば様々な場所からここに集っていることが分かる。それも、国道沿いに立地している故のことである。
さて、私はそのようなことを考えながら「ウィンドーショッピング」をしている。考えすぎて、本当に「ウィンドー」を見れているのかどうか怪しくなってくるものの、我に帰って周りを見渡してみると、家族づれが多い。国道16号線散歩はいつも日曜日に挙行することが多いので、きっとこの家族たちは郊外にある家から車で国道16号線を通り、週末にここでショッピングを楽しんでいるのだろう。
▲モールの中のアトラクションに興じる家族たち。楽しそう。あと、このアトラクション、罰ゲームとかにあるやつだよね。
さて、ここまでが今回の話のマクラである。長い。長すぎやしないか。すでに最初に示しているように、今回の国道16号線散歩のタイトルは「週末(=終末)処理施設と16号線」である。タイトルにある「週末処理施設」とは今語ってきた「三井アウトレットパーク 入間」のことだ。
「『週末』に家族が各々の欲望を処理するために来る施設」
このようにアウトレットモールを語ってみたい。何をそんなに大げさに、と思われるかもしれないが、これには理由がある。
産業廃棄物処理場と16号線
あ、いつもの便宜上、今回の歩いた場所とその地図を掲載しておこう。忘れるところだった。歩いた場所はJR箱根ヶ崎駅から西武線入間市駅まで。約10キロほどの道のりである。さて、本題の「週末処理施設」の話をしよう。実は、この「三井アウトレットパーク入間」に至るまでの16号線の途上で、また異なる「処理施設」があるのを私は目撃した。
それが「産業廃棄物処理場」である。
今回の散歩では東京都の箱根ヶ崎から出発し、途中で埼玉県の入間市に入った。入間市に入ると、途端に産業廃棄物処理場が周りに多く見えてきたのだ。
産業廃棄物とは、文字通り産業活動に伴って排出されるゴミのことだ。それを処分には国の法律に基づいて自治体から認可を受けた業者が必要だ。私がこの施設にこだわるのには理由がある。
実はこの連載の第2回目(エピソード1)、私はこんなことを書いた。
「今回、僕は小田急相模原から相模原まで歩いてみた。そして、国道16号戦の右車線と左車線において、何かしらの分断がそこにあるのではないかと推察してみた。左車線には田舎、森、慰霊碑、あるいは障害者施設。右車線には都市、ビル、マック。もちろん最初にも述べていたように、これは251キロメートルもある国道をほんの少し歩いたときに感想に過ぎない。でも、やはり右車線と左車線は何かを分断している。
左車線には、どこか僕たちが記憶の片隅から抑圧してしまいそうな風景がある。」
▲16号線沿いにあった森。左車線にあって記憶の片隅からこぼれ落ちてしまいそうなもの
最近はずっと書いていなかったのだけれど、私はこの散歩中、「僕たちが記憶の片隅から抑圧してしまいそうな風景」というのをずっと考えている。そして産業廃棄物処理場を見たときに、この「記憶の片隅から抑圧してしまいそうな風景」という一文が頭をよぎったのだ。
で、今日はもっと深いところまで考えてみたい。エピソード1からずっと連なる問題意識として、16号線と終末処理施設についてもっと解像度を上げて話してみたいのである。
産業廃棄物は私たちが生活をしている限り、必ず生み出されるものだ。裏返していえば、私たちの生活を成り立たせている工業製品が生まれる影には、その残りとしての産業廃棄物が必ず存在する。しかし私たちはそうした工業製品の利益を受けながらも、その必然として生み出される産業廃棄物については知らなかったり、あるいは見て見ぬ振りをしているのではないか。
そして16号線にはそのように私たちがあまり知ることのない産業廃棄物を処理する施設がずらりと並んでいる。それがなぜ、入間市に入った途端に増えるのかは分からないのだが、しかしそれらがここ16号線にあるという意味を考えざるを得ない。
そしてそうした産業廃棄物の処理場を「終末処理施設」とここでは呼んでみたい。本来、終末処理施設とは下水処理場のことを示すのだが、ここではその意味を拡大して何かの物質の終わりを処理する施設として、産廃物処理場をそう呼んでみたい。まあ、実際は「週末処理施設」と同じ言葉でキャッチーだな、と思っただけなんだけれど。とはいっても、「終末処理施設」と「週末処理施設」、完全に関係がないわけではない。その意味を明らかにするためにはもう少し回り道が必要なのだが。
NIMBYと16号線
エピソード1で「私たちの意識から抑圧されてしまうもの」と書いた後、いくつか文献を読んでみて私が言いたいのはこれじゃないか、という言葉に突き当たった。「NIMBY」
Not In My Back Yard(うちの裏庭にはやめてくれ)という英文の頭文字を取ってそう呼ばれている。ある施設について、その必要性は認めるが、騒音や悪臭、あるいは治安悪化などの問題のために自分の家の周りには作らない欲しい、と主張する住民やその態度のことを表す単語で、社会学の領域で使われている言葉だ。
「必要性は認めるが、近くにはあって欲しくない施設」
その代表例は、原発やゴミ処理場、下水処理場などであり、それらはどれも我々の生活を支える基本的なインフラであるにも関わらず、その危険性や悪臭・騒音などから自宅の近くに建てられることを忌避される施設である。忌避された結果、それらの施設は都市の周縁部に集まる。そして今までの文脈でいえば、産業廃棄物処理場だって、れっきとした「NIMBY」案件だ。16号線が都市の周縁に位置していることは先も述べたが、だからこそこうした産業廃棄物処理場はNIMBYとして16号線に多く立地しているのかもしれない。
で産廃物処理場以外にも16号線を見渡してみると、それがかなり「NIMBY」案件に囲まれていることがわかるのだ。例えば今までの連載ではほとんど触れていないのだけれど、16号線沿いには斎場が多くある。
これは富士山である。16号線から見えた。このように、今回歩いた場所の中には、「富士山(ふじやま)」という富士山が見えるために付けられたのであろう地名があり、そこには大きな斎場があった。この光景がなかなかシュールである。
富士山の名前の由来には、『竹取物語』のなかで不死の薬をそこで燃やしたことから、「不死(=ふし)」の山、として富士山が名付けられたというエピソードがあるが、それを踏まえるとなんとも皮肉な光景である。人間の「終末」を処理する施設として斎場はあるが、斎場建設に対して反対運動が行われることもしばしばある。「死」というマイナスイメージが張り付く施設なぞ、自宅の近くにあって欲しくない、ということだろう。つまり、典型的な「NIMBY」案件だ。
だからこそ、こうした斎場も16号線沿いに多くあるのではないか。
さらに、これもまた今までの連載で語ってこなかったことであるが、16号線沿線にはラブホテルも多くある。今回のコースでも通った。
ラブホテルもまた、「NIMBY」案件である。マンションの分譲が増えた時代以降、ラブホテルというのはある人々にとって無くてはならないものになった。そうでなくても、3代欲求の一つに性欲は数えられ、性欲抜きで人間を考えることはできないはずだろう。しかし同時に、自宅の裏庭にラブホテルが堂々と立つことを嫌がる声は多いはずだ。ここにも「必要だが、嫌がられる」物件、つまり「NIMBY」物件としてのラブホテルがある。
そう考えてみると、「何かの終末を処理する施設」の他に、「人間の欲望が露わになっている施設」もまた、「NIMBY」案件だと言えるかもしれない。
「性」や「死」、あるいは「露わな欲望」のように、人間に絶対付いて回るのに、その存在をどこか否定したくなり、裏庭にはごめんだ、と思わせてしまう施設が「NIMBY」案件となって16号線には存在している。というのも、何度も語るように16号線とは人が集まる都会から程よく離れた「周縁部」だからであり、そうした施設は周縁に置かれることが多いのである。
ショッピングモール とNIMBY
さて、私はここでショッピングモールやアウトレットモールだって「NIMBY」なのではないか、と提起してみたい。もちろん、それは斎場やラブホテルのようにあからさまなNIMBY案件ではない。しかし、「三井アウトレットパーク入間」だって、あるいは16号線の途上にある他のショッピングモールだって、それらは人間にはいつも付いて回る存在である「欲望」を利用した施設である。▲今回の散歩の途上にあった「The Mall みずほ16」。「The」なのだから中々すごい。
先ほども書いたように、「三井アウトレットパーク入間」には週末に家族づれがゾロゾロとやってくる。ある意味で、彼らはそこで「何かが欲しい」という自身の欲望を満たし、処理している。あるいは、ショッピングモールで買い物をすることは、性欲を処理するためにラブホテルを用いるのと、原理的には同じことなのかもしれない。
あるいは立地の面から見ても良いかもしれない。
ショッピングモールが建設されることに対する反対運動は多くの地方で起きているし、2000年に施行された「大店立地法」のために大規模な商業施設は中心市街地ではできなくなり、都市の周縁部に立地することを余儀なくされた。一見、忌避されることが少なそうなショッピングモールも、結果として都市中心部から忌避され、「NIMBY」のように周縁に立地することになる。だからこそ、16号線沿いにはショッピングモールが多いのだ。
つまりだ。「終末処理施設」としての産業廃棄物処理場と、人間の欲望を「週末」に処理する「週末処理施設」としてのアウトレットモールは、「NIMBY」という点において、共通する特徴を持っているのではないか。
そして、16号線にはそうした「NIMBY」案件が反復的に現れる。
中心にはいることができず、周縁に存在する「NIMBY」たちの群れ。
かつて私はこの連載で、国道16号線が左車線と右車線に置いて何かを分断しているのではないか、と書いた。その一端は、NIMBYを考えることによってより明瞭になるのではないかと思う。先ほども語ったように、NIMBYは都市住民にとって実際上の必要があるために、都市から遠い場所におかれるわけではない。しかしその名前が示す通り、都市の中には存在しにくい。そこは完全な中心でもなく、完全な周縁でもない。つまり、16号線とは、中心と周縁の境界線上にに位置しているのであり、そしてその「中心と周縁」の2つを分断するようにして存在しているのではないか。
「中心/周縁の境界線としての16号線」
無論、何が中心で何が周縁なのか、それは定義によって変わるはずだし、きわめて曖昧な言葉である。つまり、これからこの連載では、ここで言われている「中心/周縁」とは一体なんのことなのか、それをも考えてゆく。
さて、16号線というある特殊な道に存在する独特な磁場の一端が少しずつ解けてきただろうか。
「終末(=週末)処理施設と16号線」
このタイトルはくだらない駄洒落である。しかし、NIMBYという特徴によって紐づけられたその2つの施設が、徐々に16号線という特殊な磁場を持った道路を暴いてゆく。
今回は考えすぎた。疲れた。
真面目すぎたかもしれない。