暗闇都市探訪4 サンシャイン60編

  • 更新日: 2025/09/25

暗闇都市探訪4 サンシャイン60編のアイキャッチ画像

サンシャイン60から夜景を眺める

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これほど姿を捉えにくいタワーはなかなか存在しない。そればかりか、これほど深山的な闇を感じるタワーも珍しい。暗闇都市探訪の第4回、その舞台は東京都豊島区のサンシャイン60である。東京スカイツリーが完成するまでは、日本で最も高い展望所を持っていた。それはこのビルの60階に位置し、高さ226.3メートル海抜高269.8メートルを誇った。これほどの高さを持つにも関わらず、下から眺めると影が薄いのはなぜだろうか 。

暗闇都市探訪の考え方をおさらいしておこう。都市の秘密は暗闇に存在すると考え、夜景を眺めるべく対象地域で最も高い建物に上り、夜景を眺め、急激に暗い場所を突き止める。そして、その暗い場所には何があるのかを確かめるため、実際に訪れるという流れである。民俗学者の宮本常一が故郷の親に託された「新しく訪ねていったところは必ず高いところへ登ってみよ。そして方向を知り、目立つものを見よ」の言葉を現代的に解釈し、夜の時間帯の夜景から都市について考えてみようという試みである。


闇の深さから手がかりを見出す

2025年6月29日、僕はサンシャイン60てんぼうパークに上がった。また19時前なので、窓からは夕暮れの薄明るい風景が広がっており、夜景が見えるわけではない。まだそういう時間には程遠いようにも思えた。なめらかな曲線が目立つ芝生の空間が広がっていたので、ここで体育座りをしながら、サンシャイン60の歴史を調べることにした。



サンシャイン60。この地はかつては、東京拘置所、すなわち巣鴨プリズンがあった場所で、1948年には第二次世界大戦の戦犯たちの裁きが実施された地でもある。その後に東洋一高い超高層ビルとして、1978年4月6日に「サンシャイン60 展望台」がオープンし、同年10月5日には国内屈指の大型複合施設「サンシャインシティ」が全面的に開業した。現在は屋内のみの展望所であるが、かつては屋上の展望デッキなるものもあったという。ただし1998年と2012年に身投げが起きて閉鎖し今に至る。重い歴史を抱えた場所に今回訪問させていただいていることを強く実感する。

なかなか、恐ろしい場所にきた。
こういう場所でこそ、愛が語られるのかもしれない。
大勢の観光客のほぼ8割はカップルだった。
そこかしこで接吻をしている様子が見られた。
それを側で見て見ぬふりをしながら、暗くなるのを待った。




20時ごろにはすっかりと暗くなり、窓の外には夜の街が姿を現した。さあ、いよいよ暗闇をじっくり眺める時がきた。ここには全方位に案内板が取り付けられていない。北東、南東、南西、北西の4箇所のみである。今回はこれらの4方位のみの夜景を読み解いていくことにする。


①北東方面

特に変わったものはない。高速のうねりが少しあるのと、高層マンション、そして住宅街。窓の中の住人が見えそうな感覚だ。光の濃淡が少ない均一な街並みが広がる。



その中でも一際屋上が輝くのが、家賃16〜37万円のヴァンガードタワーという賃貸住宅で、まさにハイグレードな雰囲気を漂わせている。UR賃貸住宅の案内にはこう書かれている。「都市を掌握する先駆者の拠点。最寄の「池袋駅」から「新宿駅」へ10分圏内、「東京駅」へ15分圏内と都心の主要エリアを掌握する池袋生活」だそうである。ちなみに、ヴァンガードとは「先駆者」という意味だそうだ。


②南東方面

ただひたすらに、豊島区総合体育場 野球場の明るさが目立つ。サンシャイン の屋上には青光りする楽園が広がっている。これはどうやらサンシャイン水族館のマリンガーデンのようだ。「天空のイルミネーション」をテーマに、空の移り変わりの様子をイメージしているらしい。じゃらんによれば「約2万3500球の光による美しいイルミネーションで、心落ち着く都会のオアシスを堪能することができます」とある。都会のオアシスらしい。




右上にはわずかに3つの暗い森が見える。左から上野公園、小石川植物園、護国寺の順番だと思われる。護国寺に向かっていくにつれて、その暗闇は大きくなっていく。




左奥には東京スカイツリーがそびえ立つ。前回訪問した場所である。紫色に光っている。細く高くそびえる姿は、どこかサンシャイン60と交信をしているようにも思える。


③南西方面

この辺りから風景は大きなうねりを見せる。



2つの高層ビルの隙間から雑司ヶ谷霊園の薄暗い空間がのぞいている。3つのビルの隙間をうねる刺股のような道路が、橙色に輝きながら巨大な蛇神の体躯の一部分かのように思える。左にそれるのは首都高速道路である。




右上のはるか奥には東京タワーのようなタワーが青白く光る。よく見ると上部が階段状になったピラミッドのような建物なので、NTTドコモの代々木ビルだろう。




はるか左の奥には本物の東京タワーがあり、その周囲の光の赤い点滅が多すぎて、どこか不気味さを感じる。蛍のような切なさや物悲しさも感じる。




右側の池袋駅周辺の光量は異常な程に強い。SEIBUの文字は非常に目立つ。駅前から放射状に都市開発が行われたことがよくわかる。池袋はなんとなく深緑色の街というイメージだったが、実際には池袋駅周辺はどこか青光りした印象が強く、紫に近い青色のイメージを持った。

駅近くの圧倒的な暗闇といえば、左下の南池袋公園だ。その横にあるお寺「本立寺」含めてこの正方形の区画の暗さは駅の明るさとは対照的で非常に際立っている。これは以前、東京スカイツリーでみた錦糸町駅周辺の明るさと、日本たばこ産業の暗さとの対比関係に非常に似ている気がしている。


④北西方面

この方角はカフェスペース内にあるが、誰でも立ち入りができるようだ。この方角において特筆すべきは豊島清掃工場である。



清掃工場は天に高く伸び、廃棄物、及びこの土地が持つ厄を天へと逃しているように思えた。この池袋という吹き溜まりに何かが滞留しないように、都市機能の重要な末端を担っている。霊を天に届け、そして天との交信をしているようにも思える。


水気を欲するサンシャイン60

サンシャイン60に上がって4方位をぐるりと見渡して、わかったことをここでまとめておこう。まず、驚くべきことに池袋には「川がみられない」という気づきがあった。そういう意味では、水気がなく、乾いている。その分、蛇行する高速道路とビルの連続性が街にうねりを生み、そして、清掃工場が厄を天に流しているようにも感じられた。周囲の風景を川に例えたくなるのは、川がないからなのかもしれない。逆にいえば、今まで川がないことに気が付かなかったのは、どこか有機的なうねりのある土地だと感じたからだと思う。



てんぼうパークの出口のエレベータに向かっていく時、てるてる坊主が作られて飾られているのを発見した。川がない代わりに、雨乞いは行われているようだ。天に近い場所だからこそ、雨乞いは成立するのだろう。


▲参考:茨城県龍ヶ崎市のつく舞の様子(2022年 筆者 撮影)

かつて何百年も昔を生きた人々も、高い山や高い柱の上で雨乞いを行ったはずだ。茨城県や千葉県の「つく舞」という民俗行事などを見てもわかるように、雨乞いは高い場所から行われる場合が多い。その中で、サンシャイン60で雨乞い的なものがあることは非常に面白い現象だと感じる。つく舞で用いられる柱はおおよそ20m足らずであるが、サンシャイン60はおおよそ240mほどであり、なんと高さは12倍以上である。現代の雨乞いは超高層ビルやタワーにも出現を始めているようで、感慨深い気持ちになった。


物語は個人へと収束する

そして、今回、サンシャイン60を上がってみて感じたのは、今までいったどのタワーよりも混雑しておらず空いているということだ。それに加えて、とりわけカップルの密着度が高い。窓に張り付きながらも考えているのは目の前の景色のことではなく、隣の異性とどうやって仲良くなろうか?ということでしかない。ぼ〜〜〜〜ゆらゆらゆらとそこに風景が亡霊のように存在しており、人々はそれを実態として捉えていない。これほどまでに意識が内側に向くような空間も珍しい。

有機的な芝生のうねりがそうさせるのかも知れない。芝生空間には、レジャーシートの貸し出しも実施しており、カップルでお昼寝をする姿が数多く見られた。ここまでくると、人間はもはや景色ではなく、個々の物語へと向かっていくように思う。そして、内面を見つめざるを得ないほどに、この地には重い歴史が乗っかっている。カフェ席はだいたい、2〜3席にひとつの窓が配置され、その多くの利用者がカップルだった。




暗闇は暗闇ではなかった

さて、ここからが本題である。暗闇都市探訪ではこのサンシャインから外を眺めて暗い場所を突き止めてそこに向かう。その暗闇のターゲットは今回、南池袋公園だと思った。それは南西方面から外を眺めた時に、池袋駅周辺のSEIBUの光量との対比関係から非常に薄暗く感じられ、なおかつ池袋の中心地であるため、その特質を描き出すことに大きな意味をもたらすのではないかと感じたからだ。



てんぼうパークの60階から降り、地下を潜り抜けて、地上に出てきた。僕が地上を歩き始めてまず思ったのが、サンシャイン60がなかなか姿を現さないということである。あまりにサンシャインが見えないので困ってしまった。




そして辿り着いた南池袋公園の入り口は、若者たちの溜まり場になっており、公園の周囲にはランニングをする人々が見られた。楽しそうに談笑する姿が見える。電灯が明るいせいか、南池袋公園には全く闇を感じなかった。上から見るのと、実際にその場に行ってみることはこんなにも違うものだ。




公園の周囲には柵があって午前8時から午後22時までしか立ち入りができないようになっている。もう22時を過ぎていたので、立ち入りができない。公園の中を覗くと真っ暗だったが、芝生が広がっているので、奥深さよりかはあっけらかんとした闇という感じだった。周囲が明るいのも相まって、そこまでの闇を感じなかった。今回の暗闇はどこか安全性を強く感じるものとなった。




南池袋公園の周囲をぐるりと一周してみることにした。本立寺沿いの道だけ非常に暗かった。ここは池袋の中心部でおそらく最も暗いところのひとつだろう。ここが暗い背景としては、お寺や公園が広大な敷地を持ちながら、夜に活発に活動を行う場所ではないという2面性を持つからだろう。少し足早になったり、時間がスローモーションに感じたりするのは、この暗闇が訴えかけてくる何かがあるからだ。




それから少し進むと、建物に大きな鼻が取り付けられているのには驚いた。しかし、この部分的なオブジェからふと思ったのは、僕はまだ池袋の氷山の一角を見ているに過ぎないのではないか?という疑問であり、それをどこか直感的に感じ取っていた。


山々の連なりは死角の宝庫

暗闇を見つけたはいいものの、なぜかこれで帰る気にはなれなかった。池袋の闇はまだまだ先があるような気がしたからだ。第一に僕はまだ地上からサンシャイン60を眺められていない。サンシャインの入口/出口はサンシャイン60てんぼうパークからうねるように地下をえぐった先に出てきた地上であったため、そこからサンシャイン60を見上げることが叶わず、数多くのビルにその姿が隠されていた。サンシャイン60の実態を掴むことができていないように思ったのだ。

サンシャイン60は道路を縫うように、ぬっと姿を現した。そう思っていたら、地図を見て違うビルだと気づいた。そういうことが何度も何度も繰り返された。ひとまず、地上からのアプローチで、サンシャイン60にできるだけ近づくことを試みた。



突如として、首都高速道路に阻まれた。そこで見たのは暗闇の中で労働をする人々だった。工事はもっぱら深夜、暗闇の中で灯を灯して行われる。池袋を構成する構造物を増やし続け、あるいはその整備をし続けている。




深夜でも空いているコンビニ。世界の国旗がはためくその間をすり抜けるようにして入店するような動線になっている。東京国際大学は深夜は真っ暗。コンビニの明かりはひたすら発光している。




夜行バスターミナルの入口は非常に明るかった。これほど明るいところもなかなかないので、しばし、新しい世界の扉が開いた、あるいは俗世に戻ってきたような気持ちにもなった。




サンシャイン60の周囲をぐるぐる回っていても、なかなかサンシャイン60の姿を捉えきれない。ビルを縫うように頭が少し見えたかもしれないという程度なのである。これは相当難しいと思った。

富士山ではない。奈良の大峰山みたいな修験者が目指す奥深い連山の連なりの先にあるのがサンシャイン60の頂上なのだ。この土地はピストンで簡単に攻略できる山ではなく、谷と尾根を繰り返すように縦走してやっと到達する山であり、ピストンは困難な混沌たる山である。




ぞっとするほどに高くて、秩序のある窓を持つ建物と出会った。まばらに灯りが灯る四角い窓に、装飾性は薄い。ただ四角くて白い箱がそこにそびえている。今度こそサンシャイン60かと思ったが...。



sunshine city & prince hotelと書いてある。またもやこの山ではなかった。さて、サンシャイン60の山頂はどこにあるのか。もうどうしようもないくらいに途方に暮れていると...



おお、と声が出た自分にびっくりした。やっと現れた。
地図を見てもやはり、これがサンシャイン60であることを確信した。

サンシャイン60は縦方向の力が強い、ぬっとした構造物だと思った。四角い箱の連なりが無数に連なり、上に上にと伸びている。一見すると、どこにでもありそうなビルの形をしているけれど、不思議と何か強いメッセージを訴えかけてくるような佇まいだ。23時近くになっても、約10階までと30階あたりの電気がずっとついている。

そして、僕はそのサンシャイン60の麓に広がる木々の暗闇に興味を持った。



その足元にあるのは東池袋中央公園だった。

数多くの若者たちが集っていた。本当の暗闇は南池袋公園ではなく東池袋中央公園にあったようだ。暗闇の中でもこの公園は開放されていた。数多くの若者たちが肩を寄せ合い、そしてサンシャインの麓の街頭がわずかに照らす舞台を眺めながら何かを語り合っていた。あまりの暗闇に人数を正確に確認できなかったが、20〜30代の若者が10人以上はいるような気がする。

この公園には霊の気配を感じる。それは自然の神秘を思うことと似ているような気がした。街灯が照らす少し高くなった舞台のような場は月明かりが入るように輝き、とても美しかった。美しいなんてものじゃない。おどろおどろしい奥深さもあるような得体の知れない美しさだ。山登りをしたことがある方ならわかるだろう。森の中をかき分けるように進み、突如現れる滝のような感覚である。

そしてよくよくその舞台を眺めてみると、そこにある1人の人物が寝ていた。ああ、浮浪者だとわかった。なんて美しい浮浪者なのだろう。数多くの観客たちに見守られてどういう気持ちなんだろうか。足をカサカサと揺らしていた。

しかしよく観察してみると、サンシャイン60のてんぼうパークと同様に、ここでも人々は愛や友情を語り合い、この舞台上の出来事含めて周囲の風景にはあまり気を留めていないようであった。当然横の茂みから人が飛び出してきた。野生動物と遭遇したような気持ちになった。でもパッと舞台を見るなりどこかにいってしまった。この人は一瞬しか浮浪者を見なかった。

ここは本当の暗闇であり、本当に寛容な場所だ。それぞれの人々がそれぞれの物語に浸っていて同居している。そして、こんなにも暗い。南池袋公園よりもよっぽど暗いが、サンシャイン60のてんぼうパークからは全く気が付かなかった。足元のちっぽけな闇。これがとてつもない暗闇だったことに気が付いたのである。




さて、しばし東池袋中央公園の雰囲気を体感したのちに帰路についた。サンシャイン60はどこから眺めても奥まっているように感じた。連山の最奥の深山という感覚があった。



それでも頂上を眺めたくて、蛇行する首都高速道路の狭間からサンシャインを垣間見た。霧に包まれた山が、雲海の切れ間からその姿を見せてくれているような感覚である。




池袋駅に近づくにつれて、サンシャイン60は周囲の風景に擬態する昆虫のように溶け込み、そしてその姿を消していった。道路とビルとがギザギザと土地を切り刻むような複雑な都市設計は、まさにこの土地がはらむ厄を解消するための知恵なのかもしれない。そう考えれば、姿を隠し続けるサンシャイン60、そして非常に強い暗闇を持つ空間が埋もれることも、どこか合理的に思えてくるものだ。川のない土地にも関わらず、非常に有機的で、自然の奥深さや神秘を内包する土地である。そのような気づきを今回の散歩の結びとしよう。

ところで後日、ぼんやりとしながら、この原稿を書き始めた僕は、「サンシャイン」という文字をパソコンで入力したら、勝手に「山神」と変換された。なるほど、発音が似ているなと思った。









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稲村行真

好奇心旺盛で歩くことが好き。都市探訪を行うほか、獅子舞や祭りなどを訪ね沼にはまっている。かつてはご飯を毎食3合を食べてエネルギーを注入していた。

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