秋葉原に余白はあるか?情報過多なオタクの街を「獅子舞の視点」で歩いてみた

  • 更新日: 2022/07/19

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秋葉原のガチャガチャの前を歩く獅子舞

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門付け型の獅子舞にはまっている。地域の家を一軒一軒回り、玄関先で披露される獅子舞のことだ。家の人は舞ってもらったお礼にご祝儀を包んで渡す。門付け型の獅子舞は地域の交流やコミュニケーションを促進させていく存在である。 獅子舞文化のない街でも、獅子舞のことを考えてしまう。この街に獅子舞は生息できるのか。もし生息できるとしたら、どのようなルートを通るのか。獅子舞の視点で街を見てみよう。


秋葉原といえば何を思い浮かべるだろうか?オタクの生息する町という印象は相変わらず強い。メイド喫茶のお姉さんについていくメガネ男子や、パソコン機器にやたらと詳しいチェック柄のおじさんなどの姿が思い浮かぶ。

この秋葉原に獅子舞が生息することはできるだろうか?地域コミュニティや信仰、空間的な余白など可視化する「獅子舞メガネ」をかけるつもりで、秋葉原を散歩してみよう。



こちらが秋葉原駅前。いたるところに、アニメのキャラクターが貼られている。


秋葉原は元々どんな街だった?

秋葉原駅の近くに、萬世橋の解説とともに秋葉原の歴史に関する説明があった。



江戸時代には用水路がよく整備され、年貢米や野菜などを運び込む人々が通る水運が盛んな場所だったそうだ。当時武家地だったこの場所に商人や職人が多く住むようになったのは享保年間(1716~1736年)の頃。戦前にも電気やラジオを扱うお店があったが、空襲により一時焼け野原と化した。

秋葉原の街が電気街になったのは、戦後のGHQの政策として電気関係の露天商がここに集住するようになったからとも言える。ここまで振り返ると秋葉原は空間とその活用が固定化されない非常にダイナミックな社会変動を起こしながら、進化してきた街であることがわかるだろう。

Ps.秋葉原の獅子舞の歴史
秋葉原駅から徒歩圏内にある神田明神には江戸時代から獅子舞があり、地域の家を一軒一軒門付けをする風習があった。しかし、秋葉原駅周辺の商業地には獅子舞はない。今回は秋葉原駅周辺の電気街に対して、獅子舞が生息できるか?を考えていきたい。



人間の脳細胞が拡大する場所

この町を歩き始めてまず気がついたことは、いうまでもなく電子機器を販売するお店が多く存在するということだ。



フィギュア、ゲーム、DVD、BD、パソコン..電子機器の種類は非常に多い。




こちらは世界のアマチュア無線のメッカ「ロケット」というお店。無線に関する製品を販売しているようだ。「人と人とのふれあい」という文字にとりわけ興味が湧いた。無線は確かに人と人とのコミュニケーションを促進する通信機器だ。SNS、電話、ZOOM、離れていても繋がり合えるコミュニケーションツールはコロナ禍以降により重要視されるようになった。「人間の身体をより拡張していくこと」が電子機器にとって大きな役割と言えるだろう。




また、秋葉原の町を歩いていると、無数のACアダプターと出会うことができる。パソコンに電気を送り込むことによってパソコンは魂を得て生き物となる。人間の代替物としてのパソコン、その魂の源は電気にあるとも言える。

パソコンでの活動はUSBメモリやハードディスクに記憶され、人間の身体を越えた記憶の容量を確保することが可能となった。USBメモリやハードディスクはまさに「第3の脳」であり、秋葉原の町を歩いていると、人間の脳細胞の拡大をまざまざと感じざるを得ないのである。


モノの過剰供給が起こる



少し思考を変えてみよう。電化製品の解説が載っている「週刊アスキー」が大量にラックに置かれている。地域限定版の週刊アスキーが0円で過剰供給されていることを考えれば、この街へ来る層への期待値の高さを感じる。




ゴーゴーカレー前のラックは、「アド街っぷ」が独占していた。凄まじい勢いに圧倒される。ゴーゴーカレーのゴリラのキャラが手でなぎ倒したみたいに、「アド街っぷ」はぐしゃぐしゃになっていた。




獅子舞の過剰供給が起こる町は、総じてミーハーである。獅子舞が盛んな富山県や香川県、石川県を見たらわかるように、「隣町がやっている舞い方がかっこいい」「じゃあうちでもやってみよう」などと言って、流行りの舞い方が生まれる。ただし、地域の伝統と結びついて、それが独自の舞いに転換される。


製品の多様さが生まれる



これは自宅のお風呂に設置できる「肩流し湯」とのこと。首の後ろから水がチョロチョロと流れてくるようだ。工事不要で簡単に設置できるらしい。ひよこまでついているし、これはなかなかにマニアックな製品だ。温泉っぽい気分は少し味わえそうだが、購入するのは風呂に対して相当こだわりを持っている人だろう。




専門性が高まりすぎると、人知及ばぬカオスが生じる。量が多すぎて仕分けするという行為を放棄した先に生み出されるのが「掘り出し物」という枠組みである。上野のアメ横でよく無秩序にTシャツが放り込まれたダンボールをよく見かけるが、あれと同じような考え方だ。




とうとうマニアックさは「ジャンク品」へとたどり着く。ジャンク品はすでに使えなくなったものでも購入したいという人に向けた商品だ。つまり、それが「機能しなくてもほしい」、あるいは「自分で修理できるからほしい」など、買い手の負担が大きい中での相当な購買意欲によって支えられているのがジャンク品なのだ。獅子舞で使われる獅子頭も職人の設計ミスで祭りで使えないものをコレクションしている人に出会ったことがある。


私はあなたと違うという意識



多様なモノが生まれるということは、そこにせめぎ合いがある。
メイド喫茶など、コスプレする女性による接客サービスはあまりにも競合が多い秋葉原。コスプレの内容もどんどん専門性を増している。うちはあなたの店とは違うのだという意識が専門性を促進させるのだろう。「資格系女子」だけのガールズクラブまで存在するとは知らなかった。真面目な感じの女性、あるいはそれとのギャップを求めているお客さんが足を運ぶのかもしれない。




犬カフェというのも見つけた。ただのカフェではない。30分1300円というのは少し高額だが、メイド喫茶でメイドさんに癒されるように、犬にも癒されることができるのだ。




よく見たら、犬の足の上に獅子舞がいるではないか(勝手に乗っけた)!多様な生き物が暮らしていて良いんだよって思える町だから、獅子舞が住みつく余地もあるのだろう。


収集欲が絶えることのない町

しばらく歩いていると、町中に存在するガチャガチャが人間の脳細胞に見えてきた。人々の収集欲に応えるようにそれらは存在している。



このガチャガチャの数は半端ない。手に入れられるキャラが1つ1つ全く異なるのが面白い。東京リベンジャーズ、ゆるキャンおすわりコレクション、かぐや様は告らせたい...など無限に続くガチャガチャの数々。どれにお金を投入しようかと悩みに悩む人々の後ろ姿は真剣そのものだ。




ガチャガチャを置くのが店の内部で、それが専門店になっている場合もある!こちらでは赤、緑、青、オレンジ、黄色と色分けされていてわかりやすい。




自販機までなんかガチャガチャに見えてきた。3つ連続で並んでいる自販機は、ガチャガチャの凝集性に影響を受けたかもしれない。




ソフマップのエスカレータでは、ガチャガチャの中を冒険するようなワクワク感を感じた。ソフマップは空間的に考えれば、巨大なガチャガチャなのかもしれない。




もはや秋葉原電気街全体がガチャガチャだ。ガチャガチャは何が出てくるかわからないから面白い。いらないものが出てきたら、捨てるか他人にあげる事になる。それでも人々はガチャを回し続けるのだ。ここに、獅子舞への寛容さとも繋がる、どこか謎なモノを受け入れる余白が存在するように思える。


専門性は空間的な侵食を続ける

モノに対する熱量は空間をも脅かしていくこととなる。



わかりやすいのは建物の表面だ。シャッター、窓、扉、あらゆるところにアニメのキャラクターが描かれていく。




郵便局のようなちょっとお固いような場所も例外ではない。ゆうちょ銀行ATM横の壁面には、アニメのポスターが貼られまくっている。




地下のナポリタン屋さんへ通じる階段の横には、実物の人間よりも大きいアニメのキャラクターがいた。帽子に目玉焼きをつけている。フォントがなかなか可愛らしい。




東南アジアの都市に行くとよく見られる路上屋台を思い出すような光景だ。お店の周りで歩道ギリギリのところに商品を敷き詰めて、「買うなら今!!」と購買意欲を掻き立てる。




歩道への進出という点では、看板を3段重ねにしている所もあった。ビルが高くてテナントが多い分、看板も3店舗分おかねばならない。こういう事情から、歩道が侵食されていく場合もある。




AOKIはお店の通路が大きな2つの通りを結ぶ小道のようになっているのが面白い。種類豊富にスーツやらシャツやらがずらりと並んでいる。スーツやらシャツやらに興味のない通行人がこの隙間を縫って歩くというのが興味深かった。獅子舞は人間よりも一回り大きい生き物なので、商品が空間を占拠するとなかなか通りづらい。歩道の空間的占拠と獅子舞の通り道の確保の両立については、秋葉原の政治的な課題とも言えるだろう。




多様なモノが集まり、カオスさが増している秋葉原の空間。その空間活用さえも左右するのが、モノの持つ力だ。こちらは帽子の専門店。店内を帽子が埋め尽くしている。帽子が棚だけでなく、アルコールの横など無秩序にいろいろなところに置かれていて遊び心が満載だ。空間活用の引き出しが豊富であるようにも思う。


多様なモノは時間を支配する



多様なモノが支配するのは空間だけではない。私たちが生きるこの月曜日から日曜日までの日常的な時間さえも支配してくる。寿司屋には「日替わり商品」として、月・木曜日がツブマヨ、水曜日がコハダ、火・金曜日がエンガワ、土・日曜日がイカというメニューが食べられるようだ。




獅子舞も実は日替わりになることがある。例えば、獅子舞密集地域において、「隣町が獅子舞をやっている日はうちはやらんでおこう」という思考が働く。その狙いは、まさにそれぞれの「獅子舞」というネタを味わうためだ。やっぱり、隣町の獅子舞を見てみたいし、時には応援に行かねばならないこともあるのだ。ただし動く主体が個人か地域かという違いはある。


秋葉原の熱量は神話を生み出す



多様なモノの凝集、あるいはモノの過剰供給が生み出す先にあるのは、ある意味神話かもしれない。「幻の高額買取!!」という看板の文字の幻の意味が気になった。そして「ここかよ!!」の意味について真意を計りかね、これは自虐性を含んだ神話か?と思いながら、一時的に店員にインタビューしたい衝動に駆られた。ところで、ビックリマークが1つではなく2つ並ぶ看板が多いのは気のせいだろうか?もしかすると町が持つエネルギー量が高い秋葉原特有の現象かもしれない。




この神話が行き着く先は、「山」だと思った。人間は古来、山から祖先が降りてきて、里の民の五穀豊穣などを手助けしてくれる存在だ。人間の脳細胞の拡張は巨大なビル群を生み出し、それを山と同義として捉え、そこに神話が生まれる。人体は自らの知り得ぬところで、生き物として巨大化していくのだ。果たしてこの神様は里に降りて生身の人間を助けてくれるのだろうか?秋葉原の民に聞いてみたい。「あなたはガジェットによって幸せを手に入れていますか?」と。




そういえば、先ほど訪れた犬カフェにはお犬神社が存在することを思い出した。




世を憂いたような顔の犬とも出会った。




そういえば、こういう漫画の神様的な新しい信仰も生まれていた。



原神というアニメのキャラが街灯の柱?に貼り付けられていた。これをみて、長野県諏訪大社の御柱を思い浮かべたのは僕だけだろうか?柱は往々にして土地の信仰を体現するように思う。秋葉原の信仰はこのような形で、町に根付いているらしい。よく見ると柱の下に小さく「広告収益はまちづくりに活用されます」と書いてある。


秋葉原の最も新しい地層は、清涼な空間



そのようなことを考えながら秋葉原駅近くのカフェの前を通った時に、突如として巨大かつ清涼な空間に立ち会うことができた。ここはオタクが通う電気街とは異なり、秋葉原における最も新しい地層である。2005年のつくばエクスプレス開業以降、秋葉原駅前の再開発が進み、産学連携やオフィスなどに関する機能が集積したのだ。

秋葉原特有の情報過多な雰囲気は全くみられない。だから、スタバの中に入って仕事をしていても集中できる。無駄な情報を省いた空間設計。これは情報過多な雰囲気と対照的に、あえて情報を遮断した集中空間を作り出そうという建築家や都市設計者の意向のように思われる。



獅子舞という巨大な生き物にとって、空間的な余白が多いことは居心地の良さをもたらす。しかし、獅子舞をお騒がせ動物と捉えれば、このようなカフェ空間には不向きとも言える。


地域コミュニティは町の外れに生まれる

秋葉原の最も新しい地層に獅子舞が生息している感じはしない。秋葉原駅周辺は総じて個の力が強い。それならば、地域コミュニティはどこに存在するのだろうか?少なくとも町の中心部からは排除されてしまっているように思える。



この総合防災案内板を見てほしい。避難所は緑の丸で表現するらしいのだが、駅周辺にはどこにも見当たらない。



かろうじて神田明神近くの「昌平童夢館」という所に唯一緑丸があることを発見した。ここが地域コミュニティの核を担う場所の1つかもしれない。秋葉原は商売の町で、そこを住処とする住民は少ないだろう。だからこそ、来訪者たちからすれば、「地域コミュニティというのは町の端にあるものだ」と思うかもしれない。昌平童夢館がどのような場所なのか気になったので、そこに向けて歩いて行ってみることにした。




こちらが昌平童夢館だ。素晴らしい生涯学習施設だった。



間取り図を見てほしい。幼稚園、保育園、まちかど図書館、小学校図書室、プール...本当に様々な生涯学習施設がここに凝縮している。多様なモノが専門性の強さによってせめぎあいながらぎゅっと固まっている秋葉原の中心街と比較すれば、ここには公に開かれた多様なハコがぎゅっと固まっているように思えた。



そして、昌平童夢館の目の前にはだだっ広い公園が広がっていた。地域コミュニティがあるという意味で、獅子舞にとって非常に居心地が良い場所が、秋葉原の端っこにあからさまに広がっているという気づきを得た。ちょっと休憩するようにしてこの公園に佇み、再び、秋葉原駅周辺の電気街に帰った。


話しかけやすさという意味での寛容さ



地域コミュニティという視点で秋葉原駅周辺を歩いてみると、「一番話せるメイドカフェ」という看板が気になった。僕はつくづく秋葉原は排他的な町だと思ってきた。専門性が高すぎて、アニメの話もパソコンの話も理解できないことばかりだ。メイドカフェに行くのも勇気がいる。「一番話しやすい」が本当にそうかはわからないが、「一番話しやすい」という意識を持ってくれることがどこか獅子舞の住み着く気配を感じた。どこまでも公共的な存在として、このメイドカフェが機能してくれる可能性があるのだ。




どうやって絡んだらいいんだろう。そういう存在がメイドさんだった。でも発想を変えれば、道端に変わった格好の人がたくさん立っている町ってなんか面白い。そう思った時に、ウーバーイーツが通りかかって、メイドさんに道を聞いていた。ナンパのつもりかもしれないが、「気軽に道を聞ける人がいる」という環境があることはとても素晴らしい。


ヨドバシカメラという交差点

このようなあたかも地域コミュニティが存在するかのような意識は、どこに帰着するのだろうか?電気街の象徴でありながら、人と人とが交差し集う場所。秋葉原駅周辺で獅子舞が住み着くとしたらどこになるのか?そのようなことを考えながら歩いていると、見えてきたのがヨドバシカメラだった。



ヨドバシカメラをよく見てほしい。ここを起点に様々な人が交錯している。まず、電車の線路がヨドバシカメラの真横を通過しているのだ。まるで、電化製品の巣窟が駅と化しているように見える。



ヨドバシカメラの前には大量のベンチ。木陰になっており、多種多様な人々がゆったりとここでくつろいでいる。それにしてもよくこれほどの数のベンチを用意したものだ。



そしてヨドバシカメラの店舗の一部で、日本各地の物産展が開催されていた。テナントが入っているわけではない。長野県、北海道など、様々な土地ならではのご当地グルメなどがここに集まっていた。



ただし、秋葉原のヨドバシカメラは除菌意識があまりに強すぎると感じた。「天井照明による除菌」まで実施されていた。コロナの感染症対策として、光触媒技術による除菌・脱臭機能付きLED照明器具というモノが存在するらしい。



それに加えて、マスクの着用やアルコール消毒はもちろん徹底している。1箇所に2つも消毒液が置かれている。店内では他の人との一定の距離感を保つことも促しているようだ。




秋葉原のヨドバシカメラは、全国のヨドバシカメラの中でも特に品揃えが豊富で、素晴らしいと感じる。この電化製品を腹に抱える大きなハコは、寛容にも多様な人を受け入れてきた。その反面で、コロナ禍において人が接触することで感染を恐れ、徹底的に菌という生き物を殺すことを選んだ。人間とその欲望の塊が多すぎれば、少なからず排除の意識が潜んでいるというものだ。


秋葉原駅周辺に獅子舞が住み着く可能性

最後に、秋葉原駅周辺に獅子舞が住み着く可能性について述べておきたい。

空間的な余白という点では、オタクの町ゆえモノの過剰供給が起こると同時に、空間的な侵食が進んで道幅は狭くなる。「3つの看板」や「AOKIの通り道」を見てわかるように、人間よりも体が大きい獅子舞が通ろうとしたところで道幅は総じて狭い。一方で再開発によってできた「清涼なる空間」は獅子舞の通れる空間は十分すぎるほどにあるのだが、静かで仕事に集中する人間が多くて獅子舞が賑やかしに登場できるような雰囲気はない。

つまり、この新旧の秋葉原に共通しているのが、地域コミュニティではなく個人や会社に対して最適化されたコミュニティが主体であるということだ。アニメやゲームなどの趣味のために集まる、あるいは会社に通うために集うという意識が強く、少なくとも利用者にとって地域コミュニティという感覚はほとんど存在しないように思える。逆に地域コミュニティという感覚は、秋葉原電気街から外れた神田明神方面に向かったところにある「昌平童夢館」あたりから始まる。しかし、今回の獅子舞散歩においてこのエリアは対象外地域だ。ゾーニングの結果、渋谷における「PARCO」「文化総合センター」「代々木公園」や新宿における「花園神社」「ゴールデン街」みたいな地域に開かれた場所が、秋葉原ではより外に排除されてしまっているような感覚がある。

一方で、オタクの街にはガチャガチャが大量に存在するように、モノの多様性が存在する。そこには「いらない物」を受け入れる寛容性だったり、自分とは違う存在がすぐ近くにいることを許容したりといった暖かさがある。話しかけやすいメイドさんも立っている。だから一見すると、異形で体の大きい獅子舞すらも住み着くことを許容するような心を持った街なのだ。アニメのキャラのような獅子舞の格好をして街を歩いて、ちやほやされたいような欲も湧いてくる。

このように、秋葉原駅周辺は一面的には獅子舞が住みやすい。でも、全体的に見れば住むことは難しい。人間は脳細胞の拡大を通して、個人の好みに対して最適化した暮らしを際限なく実現させてきた。情報過多ゆえに、シャッターにアニメのキャラが描かれるように空間的な侵食は続き、寿司のネタのごとく時間は細分化されて切り売りされていく。その先にあったのは個性を認め合う暖かい社会だった。しかし、目の前にある「空間」や「土地」というリアルな実体がキャパオーバーになりつつもある。それが秋葉原の危うさと魅力なのかもしれない。

最後に、ガチャガチャのごとく区分けされた、何も色が塗られていない秋葉原駅周辺の街並みの白地図を添付しておこう。いつもであれば獅子舞の生息地を色塗りするのだが、今回は白紙のままに留めておくこととする。










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稲村行真

文章を書きながらも写真のアート作品を製作中。好奇心旺盛でとにかく歩くことが好き。かつてはご飯を毎食3合食べてエネルギーを注入していた。

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