日吉 - 我がルーツふたつ

  • 更新日: 2018/08/30

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日吉駅……。

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20年ぶりの再訪



知らないあいだにその駅は地下にあった。あるいは20年前からそうだったのかもしれない。電車は和光市に向かって走っていった。20年前も和光市に向かって走っていたのかどうか、やはりおれにはわからない。



日吉駅。おれにとってこの駅は用済みになった。あるいは、用済みにされたのはおれの方かもしれない。



地上に出てみれば妙な構造物。使徒か? いや、見覚えがある……ような、ないような。



改札から向かって右、へ。イチョウの並木、坂。



見覚えのない建物。



大学生、いるべきところ、いくべきところへ(夏休みは?)



ペンにペン、慶應大学。そこの若いの、信じられないかもしれないが、おれはかつて慶大生であった。ペンに剣に桜つきの学校から、ペンにペンの学校に行ったのである。桜つきのペン剣からペンにペンの学校へ進むことは、珍しいことであった。今はどうか知らないが。
その桜つきの学校の卒業式の日だったか、おれを嫌う体育会系の人間から嫌味でこう言われた「おまえは一生安泰だな!」と。おれもそいつが嫌いだった。そしておれはそいつの言うことを裏切った。安泰をかなぐり捨てて……起業するでもなく、ベンチャー企業に加わるでもなく、単に引きこもった。引きこもってファミスタをしていた。おれはファミスタが上手だと思う。少なくとも、人生のルートに乗るよりも。
ただ、日吉には一年間通った。文学部は一年で日吉を去ることになる。そのせいで三田で見知った顔がなくなったのも、おれが大学を去った理由かもしれない。あるいは、フランス語の活用が憶えられなかったせいで。




あるいは、大学生にもなって「ふたり一組で」というくだらない課題を出されたせいで。おれは人付き合いというものが極端に苦手で、教室の中で話せる人間がいなかった。そんな理由で、おれは中高一貫校から慶應へ進んだというルートを捨てた。おれはおれの人生を裏切った。おれは親を裏切った。いずれにせよ、おれは中退者となった。最終学歴は高卒。



おれの親、母親。母親は高校一年生のころ、大阪から横浜に引っ越してきた。場所はいずこ。それは日吉。


35年ぶりの再訪



おれの祖父母は日吉に家を借りた、あるいは買った。おれの物心つくかつかないかのころ、母の祖父母は「日吉のじいじ、ばあば」だった。母に聞いてみれば、大学の反対側、真ん中の道を通って徒歩十五分、日吉本町という領域を過ぎて、坂を登り、下田町という区域に入ってすぐの場所に、その家はあったという。右の道に入ったところにその家はあったという。ちょっと先に、バスがUターンする場所があったという。
おれが物心ついたころには、「日吉のじいじ、ばあば」は引っ越して、「町田のじいじ、ばあば」になっていた。今はふたりとも故人だ。



おれは、あるいは古い記憶が残っているかもしれないと、三十五年以上前の道。もっとも、電車で訪れた記憶はない。あるいは電車だったかもしれない。そして、その家の前はまだ舗装されていなかったような気がする。
ともかく、ここは慶應の城下町。「普通部通り」という通りが他にあるだろうか。



今日のところ、目的地は真ん中の道、中央通りの向こうにある。ちなみに慶應義塾高等学校は2018年の夏の甲子園で早々に敗退した。おれは慶應を否定する気持ちもないが、応援する気持ちもない。もはや過ぎ去ったことだ。



日吉の西側は放射状になっている。放射されたそれぞれの道に、学生向きのチェーン飲食店、ラーメン屋、そんなものが密集している。



そして、大学生向きの不動産屋。思えば、大学一年のころ、サークルの先輩というもののアパートに行ったことがあった。それは日吉のこちら側にあった。それっきり、だ。



しばらく歩いても、日吉本町。



だんだん商店街を離れても、まだ日吉本町。



どこにでも草木に覆われた自転車というものはある。この日も暑かった。モエもぬるくなる。モエを持ち歩いているわけではない。爽健美茶をちびちび飲みながら歩いた。朝からなにも食べていない。



いい加減にしてほしいが、まだ日吉本町。母が言った徒歩十五分はとっくに過ぎている。商店街はすでに遠い。塾高生たちが駅に向かう。すれ違う。大学でのおれの記憶、塾高上がりの一人はピューリタンが何教の一派かすら知らなかった。



あたりはアパートだらけになってくる。慶大生向けのアパートだらけになってくる。彼らはここから徒歩で、あるいは自転車で駅の向こうに行くのだろう。



あるいは、大学が用意したと見える、公式の下宿。慶大生は自動車を有するか、それに乗るか。有するし、乗るのだろう。在学中、高級外車で登校したという人間の噂を聞いたこともある。恵まれた人生に幸あれ。



自転車乗るやつにも幸あれ。……おれに寿がれるまでもなく、ほとんどの慶大生は恵まれた人生を送ることだろう。デイリーヤマザキにたむろする塾高生も恵まれた人生を送ることだろう。



22番目の写真、2-22。まだ日吉本町の重力圏から抜け出せない。



もはや住宅地。だんだん学生向きのアパートも少なくなってくる。



右に入ったところ、と母言った。右への道などいくらでもある。駅に向かって左下に慶應のグラウンドがあったという。だが、まだ日吉本町だ。



慶大生のなにかをアシストするなにか。おれも慶應ボーイだったのだから、モテてもよかったはずなのだが。アレッ? おかしいな。



いい加減、飽きてくる。歩いていても、おれの記憶を刺激するものはなにもない。ただ、駅から商店街、商店街からアパート街、そして、単なる住宅地へ。べつに歩く目的はない。そのように思えてくる。



杖一本。弘法大師の杖伝説? いいや落ち着け、間違うな、おれはピューリタンが何教の一派かわかる男。クエーカーが、セブンスデー・アドベンチストが何教の一派かわかる男。そうじゃないか。



下田町。



そしてバス、二台も。ここが、母の言っていたバスのUターン地、だったところ?



バスは脇に二台。さらにバス停に一台。おそらく、母の言っていた場所であったところ。ただ、Uターンではない、道は先に続いている。バスはUターンするかもしれないが、道は続いてる。四十年の間に、街は造り変えられたのだろう。祖父母は死に、母は老い、おれも中年になった。



迷子猫、見つかればいいな。



迷子人間、行き先は知らず。



唐突に鎌倉街道。この道を行けば、おれの住んでいた鎌倉にたどり着くのだろうか。たどり着いたところで、おれはまた放逐されて、横浜に戻るだろう。



古い町並み。だからといって、おれの記憶のなにかが想起されるわけではない。ただ、古い町並みがある、というだけ。



コーラ、なにか、ファンタ。コーラ、なにか、ファンタ。おれは山手駅の自動販売機で買った爽健美茶をちびちびと口に含む。水分補給はこまめに、喉が渇くと感じる前に。君、それが夏を歩くコツというものだ。



下田ショッピングセンター。



だめだ、なにも感じなくなっている。足を引きずって歩く、無目的に歩く。おれは、散歩をしているのだろうか。それとも……。



岩が生長して、建物を突き破った。



鎌倉街道のあった場所に戻る。



おれはもちろん近代的なiPhoneを持っているので、ここに緑道があると知っている。普通の道と緑道、おれは緑道を歩く人間。野生植物(雑草)を大切にする男。



みんなのたから、松の川緑道を歩く男。セミは鳴き、おれ以外の人影はない。どこかの運動場から歓声があがるのが聞こえる。幻聴ではない。



野生植物を大切にする緑道。



だれもいない街区公園のベンチで一休みする。だれかが供えていた。おれはおそれおののいて、お供え物に手を触れなかった。なかに何が入っていたのだろうか。おれは箱を開けるべきだったのだろうか。後悔だけが人生だ。



爽健美茶をちびりと飲む。クールでウェットななにかで顔を拭く。日焼け止めを塗り直す。足元にセミを見つける、セミは動かない、死んでいるようだった。そこに風が吹いて、セミは向きを変える、おれは気味が悪くなる。セミは生きていたのか死んでいたのか。非風非幡。おれの心が動いたわけでもない。



だれもいない公園、ひとり、おれ、人生をどのように誤ればここにたどり着くのか。



そんなことはつゆ知らずサンゴジュどもの実は赤く。



おれはふたたび緑道に戻る。せまい、せまい緑道へ。人生の隘路へ。



なにか看板があって、おれの居場所を示してくれるのかと思う。



期待はつねに裏切られる。おれは裏切ってきたぶん、裏切られる。おれに幸福を求めることは許されていない。



慶應の……どの段階にあるかわからぬ野球部員たちが野球の練習をしていた。「慶應で野球をやっていました」。完璧じゃないか、君ら。



おれは階段を登る。緑道かと思っていたら、緑道から逸れる道であった。おれは道から逸れつづける。遠くから野球以外の歓声が聞こえる。なんのスポーツでそんな声出しをするのだろうか。体育会系に属することなく生きてきたおれにはわからない。



母は、日吉に坂道があると言った。こんなところに、段差があった。本通りの道なりには、坂を感じなかった。バス停の向こうは下りのように思えた。おれは日吉の高低差を把握できなかった。ロバチェフスキー空間かなにかだろうか。



妄想に注意!



よく見ると……手塚プロダクション? 古いものかと思って検索すれば、いまも売ってるじゃないか。日吉め、こんなところにもこだわるのか。



先ほどから聞こえていた歓声の正体がわかる。歓声というより、声出し。「声出していこー!」と、そのまんまの掛け声が聞こえる、テニスしている、テニスとはそのように大声を出して味方選手を応援するものだったのかと少々驚く。
驚いているおれの横をえんじ色のユニフォームを着た学生たちが通り過ぎていく、そのユニフォームにWASEDAの文字を認める、JITSUGYOの文字を認める、要するに早稲田実業。おそらくは、早慶で対抗戦などしているのだろう、あの掛け声。敵地を堂々と歩む早稲田実業の生徒たち。彼ら、彼女らもまた、おれに何を言われるでもなく幸いな人生を歩むのだろう。
とはいえ、人生は一本道じゃない。それは日吉の街が示しているだろう? 元は一本道でイチョウ並木を下り降りても、その先は放射状、下手な方向に転がれば、そのまま転落の人生だ。たとえば、おれのように這いずることになる。そのようなやつも百人、二百人に一人くらいはいるだろう。そうはならないことだ。ならないに越したことはない。きちんと大学を卒業し、大企業か役所に勤めるべきだ。それ以外に幸福の道はない。そのくらいは断言させてくれ。行くならば中央通りだ。中央を歩け、歩んだ先になにはなくとも、歩むことが肝要だ。おれのようになってはいけない。
おれの母は、よい大学に行ける学力を持っていた。だが、母の父の古い固定観念、「女に大学教育など必要ない」という意志によって、進学を諦めた。通っていた高校の教師も残念がっていたという。しかし、諦めて、高卒で銀行勤めをはじめた。一度だけおれに言ったことがある。「替われるものなら私が大学に行くのに」と。
それがおれの喉元に刺さり、未だにチクチクと後悔、未練、なんらかの思いを抱かせる。もう二十年も経つのに、母を裏切った思いは消え去らない。そして、おれ自身の幸福をうち捨てた思いも消え去らない。
かといって、おれはもうものすごく学校や教室や同級生というものにうんざりしていたのだし、あのときは引きこもるしかなかった。そうでなければ壊れていた。もっとも、その後おれは苦しい生活のうちで精神を壊してしまったのだからどうしようもない。もし、幸福の道を歩んでいたとしても、おれは壊れたかもしれない。いずれにせよ、人生に向いていないのだ。……人に、人生以外の道があればよかったのだろう。



では、ウソイナ・ミタタ・ラムマシ!(別れの挨拶)

……日吉には、家系ラーメン風カレーの店があると知って、一度食べに行こうと思っていた。だが、今回行くにあたって調べてみれば、とっくの昔に閉店していたのであった。かわりに、二郎系ラーメンに挑戦してみようかと思ったが、店内に行列ができているのを見て諦めた。おれの行動力のなさというのは、わりとおれを特徴づけている。おれは電車に乗って最寄り駅まで帰ると、スーパーで弁当を買った。帰ってシャワーを浴び、ストロングゼロとともに弁当をかっ食らった。次があれば……三田に行くべきだろうか?





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黄金頭

横浜市中区在住の労働者。「関内関外日記」というブログを書いています。

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