梶ケ谷 / 20年前に住んでいたアパートを探して

  • 更新日: 2018/05/24

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のぼってくだって、またのぼる

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とにかく、坂の多い街だった。

生まれ育った大阪を離れ、はじめて一人暮らしをしたのが23歳のとき。1997年から2001年まで約4年間住んだ街が、梶ケ谷である。(東急の駅名は「梶が谷」、小学校は「梶ヶ谷」など表記のゆれが生じることもあるが、今回は住所表記にならい「梶ケ谷」で統一する。)



神奈川県川崎市高津区梶ケ谷。ここを選んだのは、会社のある駒沢大学駅に1本で行けるというのが一番の理由だ。もちろん、家賃の安さで選んだというのもある。

大阪の大学を卒業し、東京で就職した。「東京に行かなきゃ何も始まらない」と思っていた。東京を敵対視する大阪人の中にあって“ひねくれもの”とも言えるが、その感覚はずいぶん薄まってしまったかもしれない。

就職した会社はVestax。ちょっと音楽に詳しい人ならわかるだろう。DJが使うターンテーブルやミキサーを作っていた会社だ。
ところが僕は、たった1か月で会社を辞めてしまった。はじめての社会人生活、はじめての一人暮らし。ただただ、弱かった。
当然、親からは「そんな甘いもんじゃない」と一喝された。それでも僕は「この会社は向いてない。早く辞めて次に進んだほうがいい」と親を、そして自分自身を説得した。
“就職した会社をたった1か月で辞めてしまった”という事実は、その後しばらく自分の中で、尾を引いた。
(ちなみにVestaxは2014年12月に倒産。そのニュースを聞いたとき、少なからずショックを受けた)



10年前にも一度、梶ケ谷を訪れたことがある。その時はまだアパートが残っていた。今はもう取り壊されているかもしれない。とにかく行ってみよう、かつて住んでいた場所へ。

◆◆◆



Vestaxを辞めたあと、とにかく働かなければと思いアルバイトを探した。親には「公務員になるから」と適当なことを言ってごまかしていた。いや実際、本を買って勉強したり、地方公務員の試験を受けたりもしていた。が、熱心に勉強していたとは言いがたい。次の道を模索しながら、とりあえずバイトとして働いたのは渋谷のローランド・ミュージックスクール。音楽に近い仕事だし、渋谷なら田園都市線を使って1本で行ける。
そこで出会ったのが、後に付き合うことになる彼女。クラシックピアノの先生だった。



東京でも珍しい大雪が降った日、「すごい雪だね」「ゆっくり行こう」と彼女と話しながらこの坂道を歩いた。



駅前にある東急ストア。たまに開催される「せともの市」でラジカセから流れていたのは、デッド・オア・アライヴ「You Spin Me Round」。
なぜ今この曲を? と、心の中で嘲笑っていた。





斜度の高い駐車場。決してカメラを傾けているわけではない。よくここに停められるな、と当時から思っていた。



梶ケ谷駅入口交差点。道をはさんでセブンイレブンとファミリーマートがある。



反対側には、きらぼし銀行。東京都民銀行から名前が変わってしまったのだが、今でもメインの口座としてこの銀行を使っているのは因果というしかない。



ここからは下り坂。写真を拡大するとわかるが、向こう側にはまた上り坂がある。



ここはかつてレンタルビデオ店があった場所。まだビデオテープ(VHS)の時代だ。品ぞろえはあまり良くなかった。



ここには本屋があった。よくバイト/就職関連の雑誌を立ち読みしていた。



このあたりに沖田浩之の家があった。大雪が降った日、家の前で雪かきしていたヒロくんを見た記憶がある。
そんなある日、彼の訃報が流れてきた。Wikipediaによると、
“1999年3月27日に自宅で首吊り自殺を図り死去、36歳没”
とある。その日の夜、テレビを見ていたら武田鉄矢が家の前でインタビューを受けていた。
さっき買い物の帰りにココを通ったのに! (2時間ずれていたら、生で武田鉄矢を見れたのに……)と少し悔しい思いをした。そんな思い出。



GOLDEN J-POP/THE BEST 沖田浩之
「冬のライオン」「E気持」など代表曲はもちろん、「隠れアムール」「とりあえずボディー・トーク」「お前にマラリア」など名曲(迷曲?)多数収録のベスト盤。

◆◆◆



アパートへの道のりは遠い。ここで右へ曲がる。



下ったところには梶ケ谷第1公園。公園を右手に見ながらしばらくまっすぐ進む。



アンズレラ? ほのかに中二病の香りがするネーミング。



このあたりに肉屋、魚屋など小さな商店があった。無職のころ、肉屋の店主とのささやかなやり取りが、他者と会話する唯一の機会だった。



メロウな駐車場。



梶ケ谷小学校、そして……



すぐ目の前に文房具店があるという“お約束”。



この先はまた上り坂。1階部分の“底上げ”感が凄い。



右に曲がると下り坂。



田辺整形外科、まだ残っていたのか。看板も当時のままだ。記憶の中にあるものがそのまま残っているだけで嬉しい。



ここで左へ曲がる。



ミックスペーパー。パナマペーパーみたいな言い方。



最近建てられたであろう、真新しい家が多い。



雑な消し方。



そろそろ、住んでいた場所に近くなってきた。



果たして、アパートは残っているのか。ちょっとドキドキする。







うわー、ここだ。まだ残ってた!



名前は「第3森コーポ」から「Lハウス梶ケ谷」に変わっているが、このアパートで間違いない。ゆっくりと、古びた階段を上る。





203号室。ここが約20年前に住んでいた部屋。しかもこのテプラ、俺が貼ったやつだ。まだ残っていたのか。



当時、アパート前の狭い駐車スペースで子どもたちがよく遊んでいた。ある日、小学生ぐらいだったか、一人の子どもが僕のところに近づいてきた。内容はまったく覚えていないが、何か話したあと、ぽつりと一言。

「ねえ、友達になってよ」

子どもに対する接し方が分からなった(というか、今もだけど)僕は適当にやり過ごし、部屋に戻った。きっと彼も寂しかったのだろう。元気に暮らしているだろうか。



一度だけ、下階の住人からクレームが入ったことがある。原因は彼女の足音だった。それを伝えると、彼女は急に不機嫌になってしまった。
そういう時の対処方法は、いまだによく分からない。

◆◆◆



無事アパートが確認できたので、少し遠回りして帰ろう。向こう側に見えるのはJR貨物のターミナル。



下からビームが出そう。



尻手黒川道路を背にして、緩やかに坂を上る。



当時とは違う屋号だが、ここにドラッグストアがあったことは間違いない。



一人暮らしを始めたころ、大阪から友達が遊びに来てくれた。大学生の頃に所属していたカレッジチャート団体・CRJ-west(簡単に言うと音楽サークルのようなもの)のメンバーだ。しかも女性5人。男1人と女5人が一つの部屋に泊まるという、いま考えるとあり得ない状況ではあったが、特にエロいことが起きるはずもなく。まだ春先の寒い時期、なんとか毛布を分け合って一夜を明かした。
翌日、彼女たちを見送ったのがこのバス停だ。
独りぼっちで部屋に帰ったあと、強烈な寂しさに襲われたあの感情は今でも鮮明に覚えている。



こぢんまりした郵便局。



このミニスーパー、たまに利用してたな。見た瞬間に思い出した。もう閉店してしまったのだろうか。



街のオリジナル地図。何度も更新している形跡が垣間見える。ご苦労様です。



見覚えのある店がちらほら。



まだまだ上り坂。



やっと梶ケ谷駅入口の交差点に戻ってきた。ここから少し寄り道して、左へ行く。





ハーブハイム2。もちろん合法ハーブである。



少し歩いたところに末長歩道橋がある。末が長い歩道橋、ではなく、このあたりの住所が高津区末長。下の道路は国道246号(厚木街道)だ。





人生死ぬまでひまつぶし ((c)みうらじゅん)



そろそろ梶ケ谷駅に戻ろう。駅の南側には東急電鉄の保線機械基地がある。





駅の横にある駐輪場。昔はこんなに綺麗じゃなかった。お金を払わずに停めてたら管理人のおっちゃんに怒られた、苦い思い出。



駅の上から溝の口方面を望む。



梶ケ谷駅に戻ってきた。

◆◆◆

今回、テレビ番組でよくある「芸能人が昔住んでいた街を訪ねる」みたいなことをやってみた訳だが。アパートがまだ残っているとは思わなかった。ささやかな嬉しさと同時に、「この歳までよく生きてこれたな、俺」と、よく分からない感情がわいてきた。

たまにはこんな小旅行も、悪くない。





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村中貴士

編集&ライター。大阪生まれ。「大阪人っぽくないよね」とよく言われるが、人を笑わせたいという吉本的アイデンティティーが自分の血には確実に流れている、と思う。

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