武蔵小山で謎を解くことになった
- 更新日: 2023/03/07
お寺がこんなに小さく見えるのも珍しい
用事があって初めて武蔵小山で降りた。知っているのはアーケードの商店街が有名な町だということくらい。
駅の前にはタワーマンションとスターバックス。ここはきらきらした武蔵小山。
ロータリーには、アーケードの商店街の入り口がある。商店街は「パルム」といい、アーケードを日本で始めて作ったらしい。
800メートルもあるアーケードは今でも東京最長なのだそう。
天丼とか、パフェとか、美味しそうなものが多い。近所の人が自転車押したりして歩いていて、気楽にぶらぶらできる感じがいい。
やる気のある八百屋さん。アーケードの一番目立つ入口にある。
文具店に、コッペパンの店。
コッペパンの行列に並びながら、母が「戦後武蔵小山に住んでいた」と言っていたのを思い出した。どこに住んでたんだろう。武蔵小山とか西小山とか言っていたけれど「また言ってるよ」と聞き流していた。今聞けそうなのは、80代の叔母だけだ。いきなり電話するのもなあ。
今度は、武蔵小山駅の北の方に回ってみる。こっちの口には、林試の森公園があるらしい。
駅の階段を上ると、いきなり高校である。小山高校。
高校と病院の間を進む。街灯に「十三会商店会」って、気になる名前がついている。
十三会商店会の由来が貼られている。
昔この通りは暗くて「小便横丁」と言われていました。そこで先人有志が皆様が安全に通れるように街灯を建て旧番地の小山三丁目十三番地から「十三会」が出来ました。
十三会は住所なんだ。街灯には、お店の名前がはいっていて。「スナックふみ」とか。
スナックふみさん、お店も見つけた。
畳屋さんは、営業しているのか?
飲む系の店が多い。
林試の森公園は、明治33年から昭和53年まで林産試験場があったところ。試験場で林の研究していた人が、ステッキ持って、帽子かぶってここを通ってたかも。この商店街で飲んで帰ったりしてたかも。と妄想どんどん膨らむよき商店街。
ちょっと広い道にぶつかる。これは平和通り。すずらんみたいな街灯がいい。
平和通りを渡ると、路地につながる。薔薇の花が咲いてるヘアサロンを横目に、路地へ。路地は、写真撮るタイミングが難しいくらい、人通りがすごい。
路地を入って、すぐ右に地蔵菩薩。赤いドアとのコントラストが素晴らしい。
鉢植えと花が捧げられ、大切にされている様子。人通りもただならぬ多さだし、ここは多分大事な路地。
路地が人気すぎて、こんな看板も。コーンに巻いた広告が大変なことに。
もう一つ路地を抜けて、道路を渡ると、林試の森公園が近い。
◆◆
武蔵小山は、南も北もよかった。
帰ってから、叔母に電話をした。叔母から聞いた、戦後住んだ家の情報。
「武蔵小山の駅から10分くらい。線路沿いでも、林業試験場の方でもない。路地をくねくね曲がって、近くには川と銭湯があった」
このヒントから住んだ家を探すって、探偵ですか? 面白いなあ。
川のことなら、詳しい人たちがインターネットに情報を載せている。武蔵小山といえば、品川用水だな。蛇崩川の可能性もあるけれど、林試の森公園の方だ。
本命の品川用水は、今は埋め立てられているけれど、元は平和通りに沿って流れていたらしい。平和通りって、林試の森公園に行く途中に横切った、すずらんみたいな街灯の通りだ。平和通りのどこだろう?
ネットの地図を睨むと、路地が多そうなのは、駅の北西。もう1回行ってみるか。
◆◆
二回目の武蔵小山。北口の階段の地図を眺めると、狙いをつけていた場所に「入間湯」とある。まさかの銭湯。
西口商店街を抜けていく。上を向いて咲いている豪華な街灯。この町の街灯は見ごたえある。
平和通りにやってきた。品川用水跡だ。入間湯があったはず場所は、なんと工事現場になっていた。
銭湯がなくなってるのは残念だけれど、まわりは路地だらけ。もう、ここで決まりではないか。「この辺に住んでたんだね」としみじみする
洗足の住宅地にあった母の実家は、空襲で焼けてしまい、しばらく他の家に間借りをしていた。やっと自分の家を買って、武蔵小山に越してきたのだ、と叔母は言っていた。路地の突き当りにある、小さくて質素な家だったと聞いた。
平和通りには、今は営業していない店。くずれかかった字が、美容室と読める。ここに来ていたかもしれない。
肥料と園芸の店。庭仕事好きな祖父は、ここに来たかも。
この祠も昔からあるでしょう。写真に撮っておこう。
平和通りをどんどん行くと、賑やかな商店街になった。こんな店もある。平和通りは、いい。
◆◆
見つかったと喜んで、叔母に写真を送った。嬉しいので、メールと郵送、両方送ってみた。
年が明けて、叔母から手紙が届いた。手書きの地図を入れてくれていた。
見ると、戦後住んだ家は、駅の南側! 最初の日に出かけた大きなアーケード街とタワーマンションの方だ。
平和通り沿いに流れていた品川用水は、線路をまたいで駅の南の方を通っていた。その近く、朗惺寺の前の道を折れたところだと地図には書いてある。
がっかりする。この間見た駅の南側は、タワーマンションの建設で、きれいに開発されている。昔の景色も、くねくねの路地もありそうもない。
◆◆
でもまあ、地図も書いてもらったし、写真でも撮るか、ともう一度出かけた。三度目の武蔵小山。
南口のそそりたつマンション
目印の朗惺寺はマンションのふもとに沈んでいる。
朗惺寺の前の武蔵小山一番通り。すぐ近くに、最初の日に来た商店街「パルム」が見える。この通りを、叔母の地図の通りに南に折れる。
この辺りが家のあったところらしい。
マンションやアパートの並ぶ住宅地に、路地の突き当りの小さな質素な家の気配は残っていない。何しろ、ここは駅近、買い物至便のいい場所だ。
昔の気配を見つけようと、平和通りの方に行ってみる。
清水屋は米屋さん。古くからやっていそう。
電気商会にラーメン店。平和通りは、駅のこっち側でもいい味を出している。街灯の三連のオレンジもとてもよい。
立派な銭湯 清水湯があった。
後から知ったけれど、清水湯は、大正時代創業の銭湯。先代が温泉を掘り当て、今の当主も温泉を掘り当てて、さらにスパに改装したらしい、
このすごい一家の銭湯が、普通の銭湯だったころ、母の家族も多分通っただろう。
最後に武蔵小山一番通りでランチにする。Leon Biancoに入ってみる。
赤ちゃん連れの若い女性や、熟年の夫婦でで賑わうイタリアンレストランで、遅いランチのリゾット。チーズが濃厚でリーズナブルだ。町の中にこんな店があるのは、うらやましい。
それにしても、叔母が言っていた路地はどうなったんだろう?駅から10分歩くって言ってたけど、5分もかからないし、ともやもやして帰った。
◆◆◆
帰宅してから、ぐずぐずインターネットを触る。「武蔵小山」「戦後」でいろいろと出てくる。
武蔵小山駅の南側では、耕地整理で、きれいな碁盤目の町が早くからできていた。そこに、軍需産業の工場が品川区の真ん中から入ってきた。戦後も、住宅に交じって、小さな工場があったり、そこで働く人が住んでいたらしい。
それなら町は今よりごちゃっとしていたかもしれない。でも、路地はどうした?
そのうち、「りゅえる」とか「武蔵小山飲食店街」という言葉が出てきた。駅の南側にあった飲食店街が、惜しまれながら取り壊されて、タワーマンションになるという記事。2015年って、結構最近のことだ。
画像を見ると、昭和な感じの密集した飲み屋街。くねくねした路地。戦後すぐにできや飲み屋街は、武蔵小山駅前から朗惺寺まで続いていたという。叔母の言ってたのは多分これだ。
駅から母の家までは、この飲み屋街の路地をくねくね曲がりながら帰ったのだろう。時間もかかるし、女子中学生の通学路としては刺激的すぎたかも。
「武蔵小山の駅から10分くらい。線路沿いでも、林業試験場の方でもない。路地をくねくね曲がって、近くには川と銭湯があった」の謎は解けた。多分。
三回も行った武蔵小山散歩。
謎は解けたけれど、また行くかもしれない。
駅の前にはタワーマンションとスターバックス。ここはきらきらした武蔵小山。
ロータリーには、アーケードの商店街の入り口がある。商店街は「パルム」といい、アーケードを日本で始めて作ったらしい。
800メートルもあるアーケードは今でも東京最長なのだそう。
天丼とか、パフェとか、美味しそうなものが多い。近所の人が自転車押したりして歩いていて、気楽にぶらぶらできる感じがいい。
やる気のある八百屋さん。アーケードの一番目立つ入口にある。
文具店に、コッペパンの店。
コッペパンの行列に並びながら、母が「戦後武蔵小山に住んでいた」と言っていたのを思い出した。どこに住んでたんだろう。武蔵小山とか西小山とか言っていたけれど「また言ってるよ」と聞き流していた。今聞けそうなのは、80代の叔母だけだ。いきなり電話するのもなあ。
今度は、武蔵小山駅の北の方に回ってみる。こっちの口には、林試の森公園があるらしい。
駅の階段を上ると、いきなり高校である。小山高校。
高校と病院の間を進む。街灯に「十三会商店会」って、気になる名前がついている。
十三会商店会の由来が貼られている。
昔この通りは暗くて「小便横丁」と言われていました。そこで先人有志が皆様が安全に通れるように街灯を建て旧番地の小山三丁目十三番地から「十三会」が出来ました。
十三会は住所なんだ。街灯には、お店の名前がはいっていて。「スナックふみ」とか。
スナックふみさん、お店も見つけた。
畳屋さんは、営業しているのか?
飲む系の店が多い。
林試の森公園は、明治33年から昭和53年まで林産試験場があったところ。試験場で林の研究していた人が、ステッキ持って、帽子かぶってここを通ってたかも。この商店街で飲んで帰ったりしてたかも。と妄想どんどん膨らむよき商店街。
ちょっと広い道にぶつかる。これは平和通り。すずらんみたいな街灯がいい。
平和通りを渡ると、路地につながる。薔薇の花が咲いてるヘアサロンを横目に、路地へ。路地は、写真撮るタイミングが難しいくらい、人通りがすごい。
路地を入って、すぐ右に地蔵菩薩。赤いドアとのコントラストが素晴らしい。
鉢植えと花が捧げられ、大切にされている様子。人通りもただならぬ多さだし、ここは多分大事な路地。
路地が人気すぎて、こんな看板も。コーンに巻いた広告が大変なことに。
もう一つ路地を抜けて、道路を渡ると、林試の森公園が近い。
武蔵小山は、南も北もよかった。
帰ってから、叔母に電話をした。叔母から聞いた、戦後住んだ家の情報。
「武蔵小山の駅から10分くらい。線路沿いでも、林業試験場の方でもない。路地をくねくね曲がって、近くには川と銭湯があった」
このヒントから住んだ家を探すって、探偵ですか? 面白いなあ。
川のことなら、詳しい人たちがインターネットに情報を載せている。武蔵小山といえば、品川用水だな。蛇崩川の可能性もあるけれど、林試の森公園の方だ。
本命の品川用水は、今は埋め立てられているけれど、元は平和通りに沿って流れていたらしい。平和通りって、林試の森公園に行く途中に横切った、すずらんみたいな街灯の通りだ。平和通りのどこだろう?
ネットの地図を睨むと、路地が多そうなのは、駅の北西。もう1回行ってみるか。
二回目の武蔵小山。北口の階段の地図を眺めると、狙いをつけていた場所に「入間湯」とある。まさかの銭湯。
西口商店街を抜けていく。上を向いて咲いている豪華な街灯。この町の街灯は見ごたえある。
平和通りにやってきた。品川用水跡だ。入間湯があったはず場所は、なんと工事現場になっていた。
銭湯がなくなってるのは残念だけれど、まわりは路地だらけ。もう、ここで決まりではないか。「この辺に住んでたんだね」としみじみする
洗足の住宅地にあった母の実家は、空襲で焼けてしまい、しばらく他の家に間借りをしていた。やっと自分の家を買って、武蔵小山に越してきたのだ、と叔母は言っていた。路地の突き当りにある、小さくて質素な家だったと聞いた。
平和通りには、今は営業していない店。くずれかかった字が、美容室と読める。ここに来ていたかもしれない。
肥料と園芸の店。庭仕事好きな祖父は、ここに来たかも。
この祠も昔からあるでしょう。写真に撮っておこう。
平和通りをどんどん行くと、賑やかな商店街になった。こんな店もある。平和通りは、いい。
見つかったと喜んで、叔母に写真を送った。嬉しいので、メールと郵送、両方送ってみた。
年が明けて、叔母から手紙が届いた。手書きの地図を入れてくれていた。
見ると、戦後住んだ家は、駅の南側! 最初の日に出かけた大きなアーケード街とタワーマンションの方だ。
平和通り沿いに流れていた品川用水は、線路をまたいで駅の南の方を通っていた。その近く、朗惺寺の前の道を折れたところだと地図には書いてある。
がっかりする。この間見た駅の南側は、タワーマンションの建設で、きれいに開発されている。昔の景色も、くねくねの路地もありそうもない。
でもまあ、地図も書いてもらったし、写真でも撮るか、ともう一度出かけた。三度目の武蔵小山。
南口のそそりたつマンション
目印の朗惺寺はマンションのふもとに沈んでいる。
朗惺寺の前の武蔵小山一番通り。すぐ近くに、最初の日に来た商店街「パルム」が見える。この通りを、叔母の地図の通りに南に折れる。
この辺りが家のあったところらしい。
マンションやアパートの並ぶ住宅地に、路地の突き当りの小さな質素な家の気配は残っていない。何しろ、ここは駅近、買い物至便のいい場所だ。
昔の気配を見つけようと、平和通りの方に行ってみる。
清水屋は米屋さん。古くからやっていそう。
電気商会にラーメン店。平和通りは、駅のこっち側でもいい味を出している。街灯の三連のオレンジもとてもよい。
立派な銭湯 清水湯があった。
後から知ったけれど、清水湯は、大正時代創業の銭湯。先代が温泉を掘り当て、今の当主も温泉を掘り当てて、さらにスパに改装したらしい、
このすごい一家の銭湯が、普通の銭湯だったころ、母の家族も多分通っただろう。
最後に武蔵小山一番通りでランチにする。Leon Biancoに入ってみる。
赤ちゃん連れの若い女性や、熟年の夫婦でで賑わうイタリアンレストランで、遅いランチのリゾット。チーズが濃厚でリーズナブルだ。町の中にこんな店があるのは、うらやましい。
それにしても、叔母が言っていた路地はどうなったんだろう?駅から10分歩くって言ってたけど、5分もかからないし、ともやもやして帰った。
帰宅してから、ぐずぐずインターネットを触る。「武蔵小山」「戦後」でいろいろと出てくる。
武蔵小山駅の南側では、耕地整理で、きれいな碁盤目の町が早くからできていた。そこに、軍需産業の工場が品川区の真ん中から入ってきた。戦後も、住宅に交じって、小さな工場があったり、そこで働く人が住んでいたらしい。
それなら町は今よりごちゃっとしていたかもしれない。でも、路地はどうした?
そのうち、「りゅえる」とか「武蔵小山飲食店街」という言葉が出てきた。駅の南側にあった飲食店街が、惜しまれながら取り壊されて、タワーマンションになるという記事。2015年って、結構最近のことだ。
画像を見ると、昭和な感じの密集した飲み屋街。くねくねした路地。戦後すぐにできや飲み屋街は、武蔵小山駅前から朗惺寺まで続いていたという。叔母の言ってたのは多分これだ。
駅から母の家までは、この飲み屋街の路地をくねくね曲がりながら帰ったのだろう。時間もかかるし、女子中学生の通学路としては刺激的すぎたかも。
「武蔵小山の駅から10分くらい。線路沿いでも、林業試験場の方でもない。路地をくねくね曲がって、近くには川と銭湯があった」の謎は解けた。多分。
三回も行った武蔵小山散歩。
謎は解けたけれど、また行くかもしれない。