暗闇都市探訪 渋谷編
- 更新日: 2024/10/31
暗闇都市探訪
都市の秘密は暗闇に存在するのかもしれない。昼間に物怪たちは眠っている。しかし、夜になると急に活動が活発になる。東南アジアを旅しているとよく真夜中に野犬に追われることがあるが、日本でも真夜中にはある種の生き物が都市の暗闇を蠢いているように思える。そのような想像力を掻き立てられる場所はどこにあるのだろうか。暗闇を物怪の生息地と考え、その暗闇がどこに存在するのかを突き止めてみよう。今回、僕は渋谷の街をテーマに暗闇を探すことにした。渋谷で最も高い建物「SIBUYA SKY(229m)」の屋上に立ち、渋谷の暗闇を眺め、その暗闇に実際に行ってみて、そこがなぜ暗闇であるのかを考えてみようという試みである。
1930年代から1981年の没年に至るまで日本全国の生活の営みをフィールドワークして歩いたその達人の視点で、高いところとはどのような場所だったのか。おそらく、そのメインは山や峠だったはずだ。山から里を眺めれば、その全容を眺めることができ、フィールドワークの指針が立つということだったのだろう。現代における高いところといえば、山だけではなく、東京タワーやスカイツリーなどの高層建築物が思い浮かぶ。フィールドワークの達人の視点を借りながらも、しばしば訪れる渋谷を新鮮な視点で、原点に帰った気持ちで眺めてみたい。
渋谷駅直結の「SHIBUYA SKY」は渋谷上空229mにある展望施設から、360度のパノラマを眺めることができる。14階~45階の移行空間「SKY GATE 」、 46階の屋内展望回廊「SKY GALLERY」、屋上展望空間「SKY STAGE」の3つのゾーンで構成され、今回は屋上にいくことが目的である。VISIONは「渋谷と共に文化を育む。」であり、「展望せよ。渋谷、世界、自分、未来。」のメッセージとともに、訪れる人々に新しい気づきを誘発する展示やイベントも開催しているようだ。
僕はもともと「SHIBUYA SKY」を訪れる前に、渋谷のヒカリエの展望所スカイロビー(無料)にて渋谷の街の模型と実際の街の風景を眺めてみたのだが、高さが足りないと思った。ヒカリエは34階建てだが、その11階部分がスカイロビーとなっている。道玄坂と宮益坂の街路樹の暗さがやや気になったくらいで発見は少なかった。もう少し、高くから眺めてみないと、渋谷を俯瞰することにはならない。そこで、思い切って、渋谷で最も高い「SHIBUYA SKY」に上り、そのてっぺんから、渋谷を眺めてみようと考えたのである。入場料はweb予約で2200円。こんなにお金をかけないと、上から眺めることはできない。ややためらいもあったが、僕はお金を払って、渋谷の街を眺めてみたいと思ったのである。
エレベーターに乗る直前に、中東系のインバウンド観光客と思われる中年の男の人が気さくに声をかけてきた。僕はしっかり列に並んでエレベーターに乗るのを待っていたのだが、うっかりよそ見をしてしまって前の方に詰めるのが遅れてしまったので、結果的に前を譲ってあげた時、「良い人認定」をしてもらえたのだろう。それをきっかけに、その中年の男は「一緒にまわろう」というような雰囲気を出してきて、エレベーターの切れ目にもかかわらず、「この人は友達なので一緒に乗せてあげてください」みたいなことも言ってくれてギュウギュウのエレベーターに僕を押し込んだ。「You are alone?Go with me」という風な声をかけてくれた。星空の下で、孤独を埋めたいと思ったのだろうか。夜景と孤独はセットで付きまとう。周りはカップルでデートに来た人たちだらけという環境も関係しているだろう。夜景はどこまでも欲望を秘めていると思った。エレベーターの天井には銀河系を思わせる映像が流れ、異空間への道案内をされている気分になってきた。
最上階に到着して窓に駆け寄ると、そこには渋谷の街=大地、あるいは地球が広がっているようで、とにかく地上の面積が広いと思った。宇宙空間に近づくにつれて下を眺めると地上の面積は広いと感じるのだろう。僕は撮影に夢中になってしまい、中年の男の人そっちのけで撮影を始めた。とにかく一人になりたかった。誰かと来ているならその人に合わせるけれど、僕は今回、夜景にしっかりと向き合いたいと思っていた。だから、その人と馴れ馴れしくするわけにはいかなかった。どこか切羽詰まっていた。そうしたら愛想を尽かしてしまったみたいで、さっさと先を歩いていってしまった。その後、僕を探して一回だけ声をかけてくれたが、撮影に夢中な雰囲気を出すと、もう声をかけてこなくなった。後から考えてもみれば、僕が持っているプロが使うようなフルサイズの一眼レフカメラを携えているから、それで自分を映して欲しいという気持ちが湧いてきたのかもしれないとも思った。
しかし、わずかに屋上が楽園と化している場所がある。高層の複合施設・FUKURASUの屋上には、紫や赤の電光が輝き、魅惑を秘めた屋上空間が現出しているのだ。よくデートスポットとなっているレストランのようだ。後でしっかり調べてみると、ここは「SHIBU NIWA」と呼ぶらしい。そしてFUKURASUの語源は「訪れるすべての人々の幸福を大きく膨らませる」ということだとネット記事で読んだ。なるほど、ここも欲望の行き着く場所である。
時計回りにそこから視点を回転させてみよう。文化村通りの先に広がるのはやや暗めの海だ。あれは松濤エリアであり、渋谷駅方面から歩いていると、急に閑静な住宅街が広がるので、その感覚はよくわかる。まるでダイダラボッチの足が上からペシャン!と家々を潰してしまったかのように窪んでいる。まるで現代の建築事情が生み出した表層的な盆地だ。
なぜこのような住宅街が生まれたのか。まずこの住宅街は第一種低層住居専用地域に指定されている。用途・高さ・建ぺい率に定めがあり、高さは10mまでと低い。さらに渋谷区の条例によってこのあたりの家の区画は200㎡以上という定めがあるため、ゆったりとした敷地に低い家が建てられる傾向にあり、必然的にお金持ちの豪邸になりやすい のだ。229mのSIBUYA SKY屋上から眺めると、高さ10m以下の建築物は極めておとなしく影を潜めている。そのような印象になるのも無理はない。そして住宅街と商業地の境目があまりにもくっきりとしているから、この明暗差が生まれているのだろう。
日本は太古より金属器生産が行われており、日本書紀や古事記に登場する天香具山などの初期鉱山とみなされている場所で人間は物質的資源と権力を手にした。弥生時代にはすでに武器での戦いによって土地を征服したとも考えられるが、その一方で初期段階において「鏡」というマテリアルが敵を威嚇して従わせたという話を聞いたことがある。そうそう「日本の歴史」のようなタイトルの少年向け漫画で、遠く昔にそのことを読んだことを思い出した。鏡が太陽を反射させ、そして相手を直撃させる様は極めて魔性的であり、当時の人にしたらそのパワーに非常に驚いたに違いない。そのような原始的な鏡の魔性的な要素をスクランブル交差点の光から感じるのである。太陽がなかったら成り立たなかったその恐ろしいパワーを太陽が沈んだ夜においても手に入れた人間は、暗闇を祓い安全な環境での経済活動を実現したが、そこを照らす光は安全というよりかはどこか恐ろしさすら感じる。
再び時計回りに視点をずらそう。代々木公園の闇(中央)と新宿御苑の闇(右上)...。これは今回の夜景観察の中でも最も暗い場所であった。暗いからそこには何があるかわからない。隕石が衝突した跡に思えるほどに巨大である。先ほどの松濤に感じたダイダラボッチの足跡の面影とはレベルが違う。そこには深い沼や湖があるのか。大いなる想像力を働かせる。宇宙人が夜の地球に初めて降り立とうとした時、代々木公園を見てどう思うのだろうか。ものすごく慎重に近づくに違いない。あまりにも奇妙すぎる。街灯の光がいくつか光っているのも大変奇妙である。国家レベルの犯罪で虐げられた者か、あるいは難民、少数民族の類いが住む深い森なのではないかという想像が働く。
実際に代々木公園について実際に調べてみると、一定のホームレスが居住しているらしく、南門入口近辺で毎週土曜日朝と月曜日午後、キリスト教系団体によってホームレスの人たちへの支援活動(炊き出しなど)が続けられているようだ。近年ホームレスは減少しており、100名以下という記述もちらほら見受けられるが、代々木公園という受け皿がなくなった時に他にその人々はどこで生きられるのだろうか。そういう意味でブラックボックス化した闇すら感じる場所である。
夜景から眺める世界は、闇というフィルターが被せられることによって、昼間には知る由もない街の真実が暴かれるという非常にセンシティブな状況を目の当たりにする。何がこの世界の秩序を握っていて、何が闇に葬られているのかを意識することになるから、覚悟して臨んだ方が良いと改めて思った。この世界の秘密を知ることになるのだから...。
そこからまた視点を移すと、鉄道の線路の闇が直線的に続いていた。宮下パークのロマンチックな明るさとは非常に対照的である。その屋上にはスケボー施設が整備されており、天井がガラス張りなので、夜の闇を明るくすることにも貢献している。その反面、この線路の暗闇は異常である。
鉄道は乗っている分には周りの街並みが明るいから明るいところを走っているように思えるのだが、実際は常に闇の中を走り続けている。そのことにほとんどの乗客は気づいていない。人身事故でよく電車は止まるけれど、その際に数多くの屍の痕跡が線路上に眠っていることを忘れてはいけない。その数はおびただしいはずなのだが、多くの人はそのことを気にも留めておらず、移動の時間が遅れることばかりを気にしている。暗がりは人間の生命が絶たれる場所であり、人の記憶をかき消してしまうような恐ろしい場所なのだ。
ヒカリエ、左中央に見える四角く光る謎のオブジェ、右上に三角形に光るタイの寺院のようなオブジェ、ここら辺のフォルムの奇妙さは印象深いものがある。宮益坂沿いの高いビルの最上階に城のようなものが見える。あれはなんだろうかと疑問に思ったので、後ほど地上に降りて探してみたが、まるで手がかりがつかみにくくてわからなかった。探し回っても、目の前のビルが大きすぎて、俯瞰的な位置感覚が掴みにくいのだ。
最も明暗差がある場所といえば、首都高速3号渋谷線である。高速道路上は非常に明るく照らされ、無数の車のライトの光が見えるものの、その周辺が真っ暗で、まるで光の世界と闇の世界を作り出しているように見えた。その首都高の先にあるのは白色とピンク色に派手に輝く東京タワーだ。東京タワーへと一直線に伸びる首都高は周辺エリアと隔絶されたような異空間を作り出す。周囲の環境あるいは日常生活と隔絶された独自の世界観を築き上げているように思える。
首都高を照らす光は白色(LED照明)に近いものもあればオレンジ色(高圧ナトリウム灯)に近いものもある。その中で首都高は近年、省エネルギーへの取組みの1つとして道路照明のLED化を推進しているという。LED照明は従来の水銀灯や高圧ナトリウム灯と比較して、消費電力が少なく長寿命とのこと。省エネルギーと地球温暖化抑制に貢献したい狙いである。首都高の光の違いを見ていると、時代の変遷も感じられるわけだ。(参考:首都高速道路株式会社HP)
渋谷川沿いに視点を向けると、光は均一的に明るく街を照らし出すと同時に、龍のように蛇行した道が多いことに気がついた。渋谷川はもちろん線路やその周辺の道までもが蛇行している。これは蛇であり龍が住む土地だと思う。微細な血管がその触手を伸ばし蠢いているようにも思える。明治通りを境として、東側の金王八幡宮方面は暗闇で低い建物が広がる反面、西側は明るくて高いビルが広がっている。ここは305号線が境界線だったようだ。そのずっと先の地平にはおそらく品川あたりのギラギラした光が異様なコミュニティ感を放つ。
さて、360度眺めてから、満足して地上に降りてきた。1時間半も僕は屋上で夜景を眺めていたらしい。なんとなくこうするのが良いかなと思って、レモンサワーを片手に下からビル群を見上げた。街灯やら直立式の看板にもたれかかったりして、上を眺めた。上から眺めることと下から眺めることは感覚的に異なっていた。地を這い大きなものに挑むような面持ちでそれらを眺めた。
・松濤の高級住宅の暗闇
ダイダラボッチの足跡を連想させるような低い薄暗さがある。建物が低くてとにかく暗い。
・代々木公園の暗闇
巨大なクレーターか何か、建物が吹き飛ばされたような穴にも思える。隕石の衝突や微かな光にまつろわぬ民を連想する。
・線路の暗闇
暗い龍のような導線が続いている。人身事故で亡くなった命を思い浮かべる。電車はその上を走り続ける。
暗闇に存在するのは、負のエネルギー、カオス、混沌としたわからなさ、そして忘れ去られた存在...。暗闇に対するイメージは膨らみ、ある生き物を生み出す。それが人間に教えてくれるのは恐ろしい出来事に対する教訓か、暗闇を生き抜く術か、そこに存在するエネルギーをポジティブに変えてくれる何かか。
▲SHIBUYA SKYエレベーターの演出
1. 代々木公園
さて、まずは最も暗いと感じ、インパクトが強かった代々木公園から。クレーターのような恐ろしさは、現地でも感じるのか。結論から言えば、代々木公園はそこまで暗くないことがわかった。
上から眺めると電灯が森に隠されているため、あまりにも暗すぎるような印象があったが、実際に公園の中に入ってみると電灯だらけで比較的明るい。 たくさんのランニングする人々の姿があり、暗がりの恐ろしさというのはほとんどなかった。
ただし、暖色電球ではなく寒色電球(緑色)があり、これは少しゾワっとした。
あとは人通りの少ないところもいくつかあって、そこを照らす丸くボワっと広がる光が、どこか心の奥底の魂みたいなものを呼び覚ますような感覚があった。
あとはトイレの光が暗闇の中に目立つ感じがあって、駆け込み寺のような印象を受けた。
道を一本入ると暗がりは存在したが、茂みがほとんどないためか見通しはよく、これは代々木公園が犯罪の温床にならないような上手い設計がなされていると思った。ちなみに代々木公園は昔、陸軍代々木練兵場が存在したところであり、多少そういう話も聞いてから訪れると霊の存在を想像するかなとは思った。
2. 松濤
代々木公園を後にした僕は、次に神山町の繁華街方面から、松濤エリアに入った。松濤は低層住宅街が低く影を潜め、ダイダラボッチの足跡を連想させたが、実際に訪れるとどう感じるのだろうか。
急に静かで暗い閑静な住宅街が始まった。ここはまるで眠る町だと思った。
車通りも急に少なくなり、足取りが早い勝ち組サラリーマン、ビジネスマンのような人々がスタスタと歩いている姿を見かける。
神殿の如く暖色の薄明かりがボワっと光る豪邸のエントランスが周囲の静かな景観とマッチしていて驚いた。松濤エリアの薄暗さは奇妙であり魅惑的であり、それが面白いと思った。
青白くて機械的な色が目立つ。住宅街の車庫の位置を示すためのライトだろうか。
一番恐ろしかったのは渋谷区立鍋島松濤公園である。一歩踏み入れるなり茂みが周囲を覆い、その先に何が広がるかわからないような恐怖を覚える。
突然何か幽霊のようなものが見えた気がした。ぎゃあああああああ!!!
よく見ると茂みの先に木の棒が何本も立っているように見えてきて、あれはお墓か?と思い、写真を撮ろうとしたが恐ろしくて手元がブレ過ぎて...。うわわわわわ!!!と二重に驚く。写真が火の玉を写したように、あまりにも奇妙に撮れてしまった。
近づいてよくみると、渋谷区特有のおしゃトイレ(おしゃれなトイレのこと)だった。公園の中心には深く静かな池が存在しており、それを眺めていると何か恐ろしいヌシ的な生物が浮き上がってくるような妄想が広がるが、真っ暗すぎて写真を写すことが難しかった。
それからまた違うコースで公園を回ってみる。電灯に照らされたベンチが悲しげに思えてきて何かを見上げているような人間に思えてくる。そこから逃げるように進むと、まもなくして茂みに囲まれる。うわあ、これはやばい!何かに囲まれたようなゾワゾワ感があって、ヒイヒイヒイ、フウフウフウ、ウワーーーーーー。息ができずに階段を駆け上った!!
それから僕は公園を後にして早足で文化村方面に抜け、歩き続けるとネオンピカピカの渋谷らしい光景が広がっていた。松濤エリアだけぽっかりと暗闇が広がっていたのは、非常に同意できる。実際に歩いてみて、その感覚はくっきり存在した。実際に歩いてみても明らかに光と闇の境界線が引かれたように雰囲気がガラッと変わる。そこらへんが体感できてとてもよかった。
3. 鉄道の線路
さて、最後の暗闇である鉄道の線路はどこから眺められるだろうか。高架下ではなく線路より高い位置で、かつ近くから眺められなければならない。そこで原宿駅の手前あたりが一番良いのではないかと直感的に思い、そこに向かった。
原宿駅の手前で、明治時代に鉄道を敷設したときからあると言われている、水無橋という橋にたどり着いた。確かにその名の通り、水のない鉄道橋である。
そこから線路を眺めていると電車が通る時は多少明るくなるものの、線路だけだと圧倒的に暗い。赤い光が怪しげに光ったり、線路にビルの光が多少反射するくらいで、基本的には光がない空間である。圧倒的な暗がりがそこに存在した。
一番驚いたこととして、極めつけはこの線路脇の暗がりに何者かによって書かれた巨大なグラフィティがあったことである。そもそも線路脇は大きな崖のような感じなので線路脇まで降りてくることは大変難しいだろう。降りれたとしても電車に乗っている人に見られて通報されるだろうに。おそらくこれを書いたグラフィティのアーティストは、夜も更けて終電も終わった丑三つ時辺りに忽然と現れ、ものすごいスピードでグラフィティを描きあげて去っていったのだろう。これだけの数を仕上げたこと、そしてクオリティ、この立地を考えるに、只者ではないだろう。
ちなみにこの水無橋の近くからSHIBUYA SKYを眺めることができて、圧倒的な光を感じた。貴族に向かって膝をついて、お辞儀しつつその姿を見上げているような気分になった。
例えば、線路の高架下の通り道である。雨の水たまりにビルの光が反射して艶めかしい暗がりがそこには存在していた。それを何食わぬ顔で傘をさした大勢の人間たちが通過していくのだ。
あともうひとつは線路と大きいビルの隙間に挟まれて、細々と存在する飲屋街である。完全に暗闇というわけではないが、電灯が暗めなので闇を連想せざるをえない。「のんべえ横丁」と呼ばれており、オレンジ色の光に照らされた昭和レトロな飲屋街だ。この飲屋街の始まりは終戦後の闇市であり、GHQの規制で屋台が次々と姿を消す中で、わずかに公の場として認められた闇市の名残がこの飲屋街に残っているというわけである。暗闇と闇市、どちらも闇という言葉が共通だ。
夜間光データと経済活動に強い相関がある(光量が強い都市は稼いでいる)という話があるが、果たして本当なのだろうか。高いところから誰が見てもなかなかわからない光が存在しており、そこでは細々とした経済活動が営まれている。夜景的経済活動は自己利益を追求することで適切な資源配分が達成される「見えざる手」かもしれないが、飲屋街に広がる微かな光はどうやらそれを超えた意味を含んでおり究極的な「見えざる妖怪」かもしれない。
そういえば、手塚治虫の火の鳥(太陽編)には「光と闇の世界」が描かれている。これは火の鳥シリーズの実質的な最終話だ。「21世紀の日本では、火の鳥を神と崇拝する宗教団体「光」が地上を支配し、地上から追われたシャドーたちとの抗争がつづく。そしてそれは、まるで仏教と産土神たちとの争いのようでもあった(TEZUKA PRODUCTIONSホームページより)」。暗闇があるから光があり、光があるから暗闇がある。その抗争は絶え間なく現代でも続いていることを薄々感じざるを得なかった。暗闇はどこまでも真実を伝えてくれる。暗闇は何かを覆い隠すのではなく、暴くのである。
民俗学者・宮本常一の視点「必ず高いところへ登ってみよ」
暗闇を眺める前に、高いところから街を眺めることについても考えてみたい。『民俗学の旅』(講談社学術文庫)によれば、民俗学者の宮本常一は故郷・周防大島から出る時に、肉親からこのような言葉を託された。「新しく訪ねていったところは必ず高いところへ登ってみよ。そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見おろすようなことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ。そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへは必ず行って見ることだ。高い所でよく見ておいたら道にまようことはほとんどない。」と。1930年代から1981年の没年に至るまで日本全国の生活の営みをフィールドワークして歩いたその達人の視点で、高いところとはどのような場所だったのか。おそらく、そのメインは山や峠だったはずだ。山から里を眺めれば、その全容を眺めることができ、フィールドワークの指針が立つということだったのだろう。現代における高いところといえば、山だけではなく、東京タワーやスカイツリーなどの高層建築物が思い浮かぶ。フィールドワークの達人の視点を借りながらも、しばしば訪れる渋谷を新鮮な視点で、原点に帰った気持ちで眺めてみたい。
渋谷で最も高い場所「SHIBUYA SKY」
渋谷駅直結の「SHIBUYA SKY」は渋谷上空229mにある展望施設から、360度のパノラマを眺めることができる。14階~45階の移行空間「SKY GATE 」、 46階の屋内展望回廊「SKY GALLERY」、屋上展望空間「SKY STAGE」の3つのゾーンで構成され、今回は屋上にいくことが目的である。VISIONは「渋谷と共に文化を育む。」であり、「展望せよ。渋谷、世界、自分、未来。」のメッセージとともに、訪れる人々に新しい気づきを誘発する展示やイベントも開催しているようだ。
僕はもともと「SHIBUYA SKY」を訪れる前に、渋谷のヒカリエの展望所スカイロビー(無料)にて渋谷の街の模型と実際の街の風景を眺めてみたのだが、高さが足りないと思った。ヒカリエは34階建てだが、その11階部分がスカイロビーとなっている。道玄坂と宮益坂の街路樹の暗さがやや気になったくらいで発見は少なかった。もう少し、高くから眺めてみないと、渋谷を俯瞰することにはならない。そこで、思い切って、渋谷で最も高い「SHIBUYA SKY」に上り、そのてっぺんから、渋谷を眺めてみようと考えたのである。入場料はweb予約で2200円。こんなにお金をかけないと、上から眺めることはできない。ややためらいもあったが、僕はお金を払って、渋谷の街を眺めてみたいと思ったのである。
孤独を埋めたくなる夢の頂上楽園「SIBUYA SKY」
8月下旬に「SHIBUYA SKY」のチケットを取った。それで、現地にいけたのが、9月19日。あまりに人気すぎるのだ。なかなかチケットが取れない。とりわけ夜は難しく、夜景に対する人々の期待値は非常に高い。「20時40分から21時の間に入場してください」と時間が指定されており、僕は当日、20時40分ちょうどに14階の受付カウンターに無事に到着した。エレベーターに乗る直前に、中東系のインバウンド観光客と思われる中年の男の人が気さくに声をかけてきた。僕はしっかり列に並んでエレベーターに乗るのを待っていたのだが、うっかりよそ見をしてしまって前の方に詰めるのが遅れてしまったので、結果的に前を譲ってあげた時、「良い人認定」をしてもらえたのだろう。それをきっかけに、その中年の男は「一緒にまわろう」というような雰囲気を出してきて、エレベーターの切れ目にもかかわらず、「この人は友達なので一緒に乗せてあげてください」みたいなことも言ってくれてギュウギュウのエレベーターに僕を押し込んだ。「You are alone?Go with me」という風な声をかけてくれた。星空の下で、孤独を埋めたいと思ったのだろうか。夜景と孤独はセットで付きまとう。周りはカップルでデートに来た人たちだらけという環境も関係しているだろう。夜景はどこまでも欲望を秘めていると思った。エレベーターの天井には銀河系を思わせる映像が流れ、異空間への道案内をされている気分になってきた。
最上階に到着して窓に駆け寄ると、そこには渋谷の街=大地、あるいは地球が広がっているようで、とにかく地上の面積が広いと思った。宇宙空間に近づくにつれて下を眺めると地上の面積は広いと感じるのだろう。僕は撮影に夢中になってしまい、中年の男の人そっちのけで撮影を始めた。とにかく一人になりたかった。誰かと来ているならその人に合わせるけれど、僕は今回、夜景にしっかりと向き合いたいと思っていた。だから、その人と馴れ馴れしくするわけにはいかなかった。どこか切羽詰まっていた。そうしたら愛想を尽かしてしまったみたいで、さっさと先を歩いていってしまった。その後、僕を探して一回だけ声をかけてくれたが、撮影に夢中な雰囲気を出すと、もう声をかけてこなくなった。後から考えてもみれば、僕が持っているプロが使うようなフルサイズの一眼レフカメラを携えているから、それで自分を映して欲しいという気持ちが湧いてきたのかもしれないとも思った。
暗闇の屋上と光る屋上
さて、渋谷の夜景をじっくり眺めていて、気がついたことがある。まず闇はいつも屋上にあるということである。暗い場所を探して見回した時に必ずと言っていいほど、屋上の暗さが気になる。屋上は特に活用されなければ、都市における死角になりうるし、暗くて何が行われているのか得体の知れない空間なのである。しかし、わずかに屋上が楽園と化している場所がある。高層の複合施設・FUKURASUの屋上には、紫や赤の電光が輝き、魅惑を秘めた屋上空間が現出しているのだ。よくデートスポットとなっているレストランのようだ。後でしっかり調べてみると、ここは「SHIBU NIWA」と呼ぶらしい。そしてFUKURASUの語源は「訪れるすべての人々の幸福を大きく膨らませる」ということだとネット記事で読んだ。なるほど、ここも欲望の行き着く場所である。
低い高級住宅街の暗闇
時計回りにそこから視点を回転させてみよう。文化村通りの先に広がるのはやや暗めの海だ。あれは松濤エリアであり、渋谷駅方面から歩いていると、急に閑静な住宅街が広がるので、その感覚はよくわかる。まるでダイダラボッチの足が上からペシャン!と家々を潰してしまったかのように窪んでいる。まるで現代の建築事情が生み出した表層的な盆地だ。
なぜこのような住宅街が生まれたのか。まずこの住宅街は第一種低層住居専用地域に指定されている。用途・高さ・建ぺい率に定めがあり、高さは10mまでと低い。さらに渋谷区の条例によってこのあたりの家の区画は200㎡以上という定めがあるため、ゆったりとした敷地に低い家が建てられる傾向にあり、必然的にお金持ちの豪邸になりやすい のだ。229mのSIBUYA SKY屋上から眺めると、高さ10m以下の建築物は極めておとなしく影を潜めている。そのような印象になるのも無理はない。そして住宅街と商業地の境目があまりにもくっきりとしているから、この明暗差が生まれているのだろう。
光を放ち続けるディスプレイと太古の鏡
その松濤エリアの手前にあるのが、スクランブル交差点である。この周辺は非常に光量が強くて、今回の夜景の中でも最も明るい場所だったと言える。街灯というよりもスクランブル交差点周辺のビルに取り付けられたディスプレイやビルの名前を書いた看板(109やMODIなど)の光量が異様に強くて目立つ。カメラのISO、シャッタースピード、絞りを完全に一定にして全ての夜景を比較したいとも思ったが、これは難しかった。とりあえず、この場所の光量は異様に強かったことを強調しておきたい。ここまで光量が強いと、得体の知れない敵を威嚇して、その者が内包する厄を抉り出すように、大胆に祓ってくれるようにも思えてくる。日本は太古より金属器生産が行われており、日本書紀や古事記に登場する天香具山などの初期鉱山とみなされている場所で人間は物質的資源と権力を手にした。弥生時代にはすでに武器での戦いによって土地を征服したとも考えられるが、その一方で初期段階において「鏡」というマテリアルが敵を威嚇して従わせたという話を聞いたことがある。そうそう「日本の歴史」のようなタイトルの少年向け漫画で、遠く昔にそのことを読んだことを思い出した。鏡が太陽を反射させ、そして相手を直撃させる様は極めて魔性的であり、当時の人にしたらそのパワーに非常に驚いたに違いない。そのような原始的な鏡の魔性的な要素をスクランブル交差点の光から感じるのである。太陽がなかったら成り立たなかったその恐ろしいパワーを太陽が沈んだ夜においても手に入れた人間は、暗闇を祓い安全な環境での経済活動を実現したが、そこを照らす光は安全というよりかはどこか恐ろしさすら感じる。
まつろわぬ民を思わせる公園の闇と微かな光
再び時計回りに視点をずらそう。代々木公園の闇(中央)と新宿御苑の闇(右上)...。これは今回の夜景観察の中でも最も暗い場所であった。暗いからそこには何があるかわからない。隕石が衝突した跡に思えるほどに巨大である。先ほどの松濤に感じたダイダラボッチの足跡の面影とはレベルが違う。そこには深い沼や湖があるのか。大いなる想像力を働かせる。宇宙人が夜の地球に初めて降り立とうとした時、代々木公園を見てどう思うのだろうか。ものすごく慎重に近づくに違いない。あまりにも奇妙すぎる。街灯の光がいくつか光っているのも大変奇妙である。国家レベルの犯罪で虐げられた者か、あるいは難民、少数民族の類いが住む深い森なのではないかという想像が働く。
実際に代々木公園について実際に調べてみると、一定のホームレスが居住しているらしく、南門入口近辺で毎週土曜日朝と月曜日午後、キリスト教系団体によってホームレスの人たちへの支援活動(炊き出しなど)が続けられているようだ。近年ホームレスは減少しており、100名以下という記述もちらほら見受けられるが、代々木公園という受け皿がなくなった時に他にその人々はどこで生きられるのだろうか。そういう意味でブラックボックス化した闇すら感じる場所である。
夜景から眺める世界は、闇というフィルターが被せられることによって、昼間には知る由もない街の真実が暴かれるという非常にセンシティブな状況を目の当たりにする。何がこの世界の秩序を握っていて、何が闇に葬られているのかを意識することになるから、覚悟して臨んだ方が良いと改めて思った。この世界の秘密を知ることになるのだから...。
鉄道の線路の闇
そこからまた視点を移すと、鉄道の線路の闇が直線的に続いていた。宮下パークのロマンチックな明るさとは非常に対照的である。その屋上にはスケボー施設が整備されており、天井がガラス張りなので、夜の闇を明るくすることにも貢献している。その反面、この線路の暗闇は異常である。
鉄道は乗っている分には周りの街並みが明るいから明るいところを走っているように思えるのだが、実際は常に闇の中を走り続けている。そのことにほとんどの乗客は気づいていない。人身事故でよく電車は止まるけれど、その際に数多くの屍の痕跡が線路上に眠っていることを忘れてはいけない。その数はおびただしいはずなのだが、多くの人はそのことを気にも留めておらず、移動の時間が遅れることばかりを気にしている。暗がりは人間の生命が絶たれる場所であり、人の記憶をかき消してしまうような恐ろしい場所なのだ。
奇妙な光、オブジェたちの存在
ヒカリエ、左中央に見える四角く光る謎のオブジェ、右上に三角形に光るタイの寺院のようなオブジェ、ここら辺のフォルムの奇妙さは印象深いものがある。宮益坂沿いの高いビルの最上階に城のようなものが見える。あれはなんだろうかと疑問に思ったので、後ほど地上に降りて探してみたが、まるで手がかりがつかみにくくてわからなかった。探し回っても、目の前のビルが大きすぎて、俯瞰的な位置感覚が掴みにくいのだ。
首都高速3号渋谷線を照らす光
最も明暗差がある場所といえば、首都高速3号渋谷線である。高速道路上は非常に明るく照らされ、無数の車のライトの光が見えるものの、その周辺が真っ暗で、まるで光の世界と闇の世界を作り出しているように見えた。その首都高の先にあるのは白色とピンク色に派手に輝く東京タワーだ。東京タワーへと一直線に伸びる首都高は周辺エリアと隔絶されたような異空間を作り出す。周囲の環境あるいは日常生活と隔絶された独自の世界観を築き上げているように思える。
首都高を照らす光は白色(LED照明)に近いものもあればオレンジ色(高圧ナトリウム灯)に近いものもある。その中で首都高は近年、省エネルギーへの取組みの1つとして道路照明のLED化を推進しているという。LED照明は従来の水銀灯や高圧ナトリウム灯と比較して、消費電力が少なく長寿命とのこと。省エネルギーと地球温暖化抑制に貢献したい狙いである。首都高の光の違いを見ていると、時代の変遷も感じられるわけだ。(参考:首都高速道路株式会社HP)
渋谷川沿いに潜む龍の存在
渋谷川沿いに視点を向けると、光は均一的に明るく街を照らし出すと同時に、龍のように蛇行した道が多いことに気がついた。渋谷川はもちろん線路やその周辺の道までもが蛇行している。これは蛇であり龍が住む土地だと思う。微細な血管がその触手を伸ばし蠢いているようにも思える。明治通りを境として、東側の金王八幡宮方面は暗闇で低い建物が広がる反面、西側は明るくて高いビルが広がっている。ここは305号線が境界線だったようだ。そのずっと先の地平にはおそらく品川あたりのギラギラした光が異様なコミュニティ感を放つ。
さて、360度眺めてから、満足して地上に降りてきた。1時間半も僕は屋上で夜景を眺めていたらしい。なんとなくこうするのが良いかなと思って、レモンサワーを片手に下からビル群を見上げた。街灯やら直立式の看板にもたれかかったりして、上を眺めた。上から眺めることと下から眺めることは感覚的に異なっていた。地を這い大きなものに挑むような面持ちでそれらを眺めた。
渋谷における暗闇とそこに潜む厄
渋谷の夜景を眺めていて、感じた厄の存在...。これを整理してみようと思う。特に印象的だった最も暗い場所はこの3箇所であり、そこから想像されたのはこのような生き物、人間、あるいは妖怪の類だった。・松濤の高級住宅の暗闇
ダイダラボッチの足跡を連想させるような低い薄暗さがある。建物が低くてとにかく暗い。
・代々木公園の暗闇
巨大なクレーターか何か、建物が吹き飛ばされたような穴にも思える。隕石の衝突や微かな光にまつろわぬ民を連想する。
・線路の暗闇
暗い龍のような導線が続いている。人身事故で亡くなった命を思い浮かべる。電車はその上を走り続ける。
暗闇に存在するのは、負のエネルギー、カオス、混沌としたわからなさ、そして忘れ去られた存在...。暗闇に対するイメージは膨らみ、ある生き物を生み出す。それが人間に教えてくれるのは恐ろしい出来事に対する教訓か、暗闇を生き抜く術か、そこに存在するエネルギーをポジティブに変えてくれる何かか。
▲SHIBUYA SKYエレベーターの演出
暗闇に実際に行ってみた
さて渋谷の最も高いところから暗闇を眺めただけでは満足はできなかった。実際に現地に赴き、高所から感じた気配は現地に行っても同様に感じられるものなのか。それを実際に確かめたいと思った。勇気を振り絞り、日にちを改めて2024年10月8日に、渋谷の3箇所を3時間くまなく歩いた。1. 代々木公園
さて、まずは最も暗いと感じ、インパクトが強かった代々木公園から。クレーターのような恐ろしさは、現地でも感じるのか。結論から言えば、代々木公園はそこまで暗くないことがわかった。
上から眺めると電灯が森に隠されているため、あまりにも暗すぎるような印象があったが、実際に公園の中に入ってみると電灯だらけで比較的明るい。 たくさんのランニングする人々の姿があり、暗がりの恐ろしさというのはほとんどなかった。
ただし、暖色電球ではなく寒色電球(緑色)があり、これは少しゾワっとした。
あとは人通りの少ないところもいくつかあって、そこを照らす丸くボワっと広がる光が、どこか心の奥底の魂みたいなものを呼び覚ますような感覚があった。
あとはトイレの光が暗闇の中に目立つ感じがあって、駆け込み寺のような印象を受けた。
道を一本入ると暗がりは存在したが、茂みがほとんどないためか見通しはよく、これは代々木公園が犯罪の温床にならないような上手い設計がなされていると思った。ちなみに代々木公園は昔、陸軍代々木練兵場が存在したところであり、多少そういう話も聞いてから訪れると霊の存在を想像するかなとは思った。
2. 松濤
代々木公園を後にした僕は、次に神山町の繁華街方面から、松濤エリアに入った。松濤は低層住宅街が低く影を潜め、ダイダラボッチの足跡を連想させたが、実際に訪れるとどう感じるのだろうか。
急に静かで暗い閑静な住宅街が始まった。ここはまるで眠る町だと思った。
車通りも急に少なくなり、足取りが早い勝ち組サラリーマン、ビジネスマンのような人々がスタスタと歩いている姿を見かける。
神殿の如く暖色の薄明かりがボワっと光る豪邸のエントランスが周囲の静かな景観とマッチしていて驚いた。松濤エリアの薄暗さは奇妙であり魅惑的であり、それが面白いと思った。
青白くて機械的な色が目立つ。住宅街の車庫の位置を示すためのライトだろうか。
一番恐ろしかったのは渋谷区立鍋島松濤公園である。一歩踏み入れるなり茂みが周囲を覆い、その先に何が広がるかわからないような恐怖を覚える。
突然何か幽霊のようなものが見えた気がした。ぎゃあああああああ!!!
よく見ると茂みの先に木の棒が何本も立っているように見えてきて、あれはお墓か?と思い、写真を撮ろうとしたが恐ろしくて手元がブレ過ぎて...。うわわわわわ!!!と二重に驚く。写真が火の玉を写したように、あまりにも奇妙に撮れてしまった。
近づいてよくみると、渋谷区特有のおしゃトイレ(おしゃれなトイレのこと)だった。公園の中心には深く静かな池が存在しており、それを眺めていると何か恐ろしいヌシ的な生物が浮き上がってくるような妄想が広がるが、真っ暗すぎて写真を写すことが難しかった。
それからまた違うコースで公園を回ってみる。電灯に照らされたベンチが悲しげに思えてきて何かを見上げているような人間に思えてくる。そこから逃げるように進むと、まもなくして茂みに囲まれる。うわあ、これはやばい!何かに囲まれたようなゾワゾワ感があって、ヒイヒイヒイ、フウフウフウ、ウワーーーーーー。息ができずに階段を駆け上った!!
それから僕は公園を後にして早足で文化村方面に抜け、歩き続けるとネオンピカピカの渋谷らしい光景が広がっていた。松濤エリアだけぽっかりと暗闇が広がっていたのは、非常に同意できる。実際に歩いてみて、その感覚はくっきり存在した。実際に歩いてみても明らかに光と闇の境界線が引かれたように雰囲気がガラッと変わる。そこらへんが体感できてとてもよかった。
3. 鉄道の線路
さて、最後の暗闇である鉄道の線路はどこから眺められるだろうか。高架下ではなく線路より高い位置で、かつ近くから眺められなければならない。そこで原宿駅の手前あたりが一番良いのではないかと直感的に思い、そこに向かった。
原宿駅の手前で、明治時代に鉄道を敷設したときからあると言われている、水無橋という橋にたどり着いた。確かにその名の通り、水のない鉄道橋である。
そこから線路を眺めていると電車が通る時は多少明るくなるものの、線路だけだと圧倒的に暗い。赤い光が怪しげに光ったり、線路にビルの光が多少反射するくらいで、基本的には光がない空間である。圧倒的な暗がりがそこに存在した。
一番驚いたこととして、極めつけはこの線路脇の暗がりに何者かによって書かれた巨大なグラフィティがあったことである。そもそも線路脇は大きな崖のような感じなので線路脇まで降りてくることは大変難しいだろう。降りれたとしても電車に乗っている人に見られて通報されるだろうに。おそらくこれを書いたグラフィティのアーティストは、夜も更けて終電も終わった丑三つ時辺りに忽然と現れ、ものすごいスピードでグラフィティを描きあげて去っていったのだろう。これだけの数を仕上げたこと、そしてクオリティ、この立地を考えるに、只者ではないだろう。
ちなみにこの水無橋の近くからSHIBUYA SKYを眺めることができて、圧倒的な光を感じた。貴族に向かって膝をついて、お辞儀しつつその姿を見上げているような気分になった。
上から眺めるだけでは気が付かない暗闇
ところで、以上の3箇所は高いところから眺めて発見できた暗がりである。しかし、実際に地上に降りて眺めてみると、上からでは発見できない暗がりも存在した。例えば、線路の高架下の通り道である。雨の水たまりにビルの光が反射して艶めかしい暗がりがそこには存在していた。それを何食わぬ顔で傘をさした大勢の人間たちが通過していくのだ。
あともうひとつは線路と大きいビルの隙間に挟まれて、細々と存在する飲屋街である。完全に暗闇というわけではないが、電灯が暗めなので闇を連想せざるをえない。「のんべえ横丁」と呼ばれており、オレンジ色の光に照らされた昭和レトロな飲屋街だ。この飲屋街の始まりは終戦後の闇市であり、GHQの規制で屋台が次々と姿を消す中で、わずかに公の場として認められた闇市の名残がこの飲屋街に残っているというわけである。暗闇と闇市、どちらも闇という言葉が共通だ。
夜間光データと経済活動に強い相関がある(光量が強い都市は稼いでいる)という話があるが、果たして本当なのだろうか。高いところから誰が見てもなかなかわからない光が存在しており、そこでは細々とした経済活動が営まれている。夜景的経済活動は自己利益を追求することで適切な資源配分が達成される「見えざる手」かもしれないが、飲屋街に広がる微かな光はどうやらそれを超えた意味を含んでおり究極的な「見えざる妖怪」かもしれない。
暗闇都市 渋谷とは?
さて、長くなったが、まとめに入ろう。対象地域で最も高い建物に上り、夜景を眺めて暗闇の位置を確認して、実際にそこに行ってみる試みを「暗闇都市探訪」と名付けよう。渋谷の暗闇は代々木公園、松濤、鉄道の3箇所が圧倒的だった。それぞれ暗闇の濃淡はあったものの、どこも妖怪やまつろわぬ民などの気配を感じた。そして、上から眺めるだけでは気が付かない闇も地上には存在した。上から眺めることと下から眺めること、そして暗闇というフィルターが街の新しい特質を暴き出す面白さに浸ることができた。そういえば、手塚治虫の火の鳥(太陽編)には「光と闇の世界」が描かれている。これは火の鳥シリーズの実質的な最終話だ。「21世紀の日本では、火の鳥を神と崇拝する宗教団体「光」が地上を支配し、地上から追われたシャドーたちとの抗争がつづく。そしてそれは、まるで仏教と産土神たちとの争いのようでもあった(TEZUKA PRODUCTIONSホームページより)」。暗闇があるから光があり、光があるから暗闇がある。その抗争は絶え間なく現代でも続いていることを薄々感じざるを得なかった。暗闇はどこまでも真実を伝えてくれる。暗闇は何かを覆い隠すのではなく、暴くのである。