本郷三丁目 / 樋口一葉が愛した街は、きっといい街。

  • 更新日: 2018/07/26

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坂が多いぜ! 本郷。

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どうもこんにちは。今日は本郷三丁目に来ています。とてもお暑うございますね。


ええ、お暑うございますね。来たか~本郷三丁目。来たか~。


というと。


東京で散歩といえば文京区、そして坂、みたいなの、なんとなくあるじゃないですか。もう、いろいろなメディアで採り上げられてますし、こう、俺らみたいなもんがやらなくてもいいかなっていうアレがあって、この界隈、個人的には何回も来てるし好きなんだけど、殆ど採り上げてこなかったんす。


確かに。でもまぁ、この企画は偉人を取り上げて跡地を巡りながら、良い街だなぁっていう……


樋口一葉?


いやいや、この本郷三丁目という街にはね、宮沢賢治とか二葉亭四迷とか島崎藤村とか、たくさんの偉人が住んでた街じゃないですか。だから本郷三丁目と聞いて樋口一葉をイメージするのはまだ早いです。


おっ、意外! たしかに菊坂周辺は文豪いっぱい住んでましたしね。今回は誰を取り上げるんです?


いや、まぁ……樋口一葉なんですけどね。


あっ。なんか、ごめんね。


樋口一葉さんは、吉原の遊女を描いた「たけくらべ」や貧困にあえぐ人間を描いた「おおつごもり」という代表作を執筆した、近代以降で初めての職業女流作家です。肺結核で24の若さで亡くなってしまったんですが、そのうちの11年をこの街で過ごしています。


24年間のうち11年間をこの街で……。12年住んでくれてたら、人生の半分って言えたのにな。あと1年住んでさえくれれば約分可能……。


まあまあ、住んでたんじゃないですか。あと、樋口さんの面白いところは引っ越しの回数がけっこう多めでして、24年間に10回以上も引っ越ししてるんです。具体的な回数は諸説あるんですけども、12回か15回と言われていて、単純計算で2年間に1回以上のペースの引っ越し。オリンピックイヤーよりもワールドカップイヤーよりもこち亀の日暮が目覚める頻度よりも多いんですよ!


その例えのやつ全部4年に1回周期のやつだからどれか一個でいいですよ。


で、この本郷三丁目近辺だけでも4か所ほど旧居跡があるんですよ。


なるほど。それは本郷三丁目=樋口一葉って言っていい。ちなみに僕が前歩いたとき、ここ、樋口一葉のぬりえ募集してましたからね。すごくないですか。樋口一葉のぬりえって。





本郷に住んでた文人のなかでもひときわ愛されてるんですね。これは是が非でも暑くてもなんでも旧居跡に見ておく必要があるでしょう。そんなわけで今日は樋口一葉さんの旧居跡を中心に本郷三丁目を歩いていきましょう。




文豪たちの愛した坂・菊坂



本郷三丁目駅の1番出口を出て左に進むとぶつかる春日通りを横断します。道路の向こう側はビルビルしててオフィスな建物がズラリ。僕らが歩いてる方は個人商店がメインで背の低い建物が並んでいます。




春日通り沿いにある櫻木神社。自転車こいでた人が一旦降りて一拍一礼、っていう流れを約1分で2組ほどがやっているのを見かけました。




ここは本郷小学校です。樋口一葉さんもかつてはちょこっとだけ本郷小学校にいたという話ですが、この本郷小学校とは違う本郷小学校です。


どういうこと? ここの本郷小学校ではない、アナザー本郷小学校があったと?





ほら、小学校の横側を見てみるとまだ開校20周年なんですよここ。


ほんとだ、20歳。人間でいうと根拠の無い万能感を持った若者ですね。


樋口一葉さんの通っていた本郷小学校は1882年に火災で校舎焼失、直後に新築、増築をしてカムバックするものの1945年3月には空襲で全焼。で、翌年廃校になってしまったんです。


度重なる焼失。屈強な精神が培われそう。あれ、樋口さん火災は大丈夫だったんですか?


樋口さんはセーフでした。開校2年目の1877年に入学したんですが、すぐに私立小学校に転校しちゃうんですね。


リスクマネジメント能力が素晴らしい。


ちなみに現・本郷小学校はTwitterやら公式HPの更新も頻繁に行ってて、学校行事の内容とか毎日の給食写真をアップしてるので、それを見るのもちょっと面白いです。






男女平等センターだって。





ここですね。マンションの1階が男女平等センター。ここちょっと面白い話があって、ここはかつて唐津藩主・小笠原氏の中屋敷、上田藩主・松平氏の中屋敷が建ってたんですね。現在のこのマンションは1984年に建てられたものなんですが、その際の発掘調査で、この中屋敷に関係するアイテムがたくさん発掘されたそうで、真砂(まさご)遺跡と名付けられています。



ちなみに真砂というのはこのあたりの旧町名です。





1965年に無くなったそうですが、いまだに真砂を名乗る看板をたくさん見かけました。




ここをまっすぐ行くと菊坂にぶつかります。この道の名前は本妙寺坂。菊坂を跨いだ向こう側にかつて本妙寺がありました(現在は巣鴨5丁目に移転)。大事なことなのでもう一度言いますけども、この道の名前は本妙寺坂です。坂ですかね、ここ?


一応菊坂にぶつかるあたりはちょっと坂になってるよ。






菊坂はもう目の前なんですけども、ここで菊坂界隈文人マップをチェックしておきましょう。
たくさんの文人たちが住んでいました。文人達は坂が好き。



樋口一葉が3人居ます。金田一京助も3人居ます。
引越好きが可視化されています。




おっ、町案内の地図くれるんだ。んで、やっぱり代表格は樋口一葉なんだ。お金になってるから認知度すごいしな。





巻物っぽく収納されたプリント。


なんか、この残り枚数だと、持っていきづらい……。





番町文人散歩コース「町案内」。所要時間40分で距離2.2km、歩幅80㎝で2750歩。歩数についてこんなに細かく言及しているのも珍しい。


万歩計使いの人には嬉しい指標かもしれない。






さて、菊坂通りにやってきましたよ。この坂を北西の方向に進みます。



菊坂は、古い建物こそ残っているのですが、



わりと昭和末期から平成初期っぽいオーラを感じます。新しい建物が結構進出しています。



しかし一本入ると、まだまだ良い昭和が広がっているではありませんか。
狭い道にひしめく家。たなびく布団。ダイナミックな路上園芸。



この敷石がサインです。ここを左に曲がると樋口さんの旧居跡があります。


お、隠しステージの表現だ。





この井戸の近くに樋口ファミリーが住んでいたと言われています。路地から入って左側の方ですね。この井戸もかつて樋口さんが使っていたとか。ココに住み始めたのは18歳の9月。前年に事業に失敗した父の則義さんが死去し、多額の借金を負っていたころでした。母や妹が針仕事や洗い張りをしている一方で、樋口一葉さんは原稿料を求めて小説家を志していました。



その2年後には井戸を挟んで反対の右側に引っ越した樋口家。前に住んでた家よりも部屋が一つ多いというメリットもあったようで。




ちょっと菊坂メインストリートに戻ります。マナーを守れない人はゴミ出し禁止ですよ。




ここは伊勢屋質店で、樋口家がよく行ってたんですって。さっきの樋口邸から徒歩3分経たないくらいの場所ですね。


これだけ近かったもんですから、たびたび通って金策に励んでいたんでしょうね。


僕もね、近所にブックオフができたときはすごく嬉しくてね。今月苦しいなって思ったときには、2年以上読んでない漫画をごっそり持っていって千円少々稼いでましたよ。


部屋の中がすっきりするしお金ももらえるからいいよね。その裏で、大して面白くないマンガをごっそり買ってしまって、部屋せまくなるしお金奪われている人が居る。


光あれば闇もある。ところでこの質屋なんですけど、樋口さんが24歳の若さで亡くなってしまったときには、お店から香典が届けられたくらいですから、それだけ頻繁にお世話になってたってことですよね。





ちなみに現在は土日の間だけ中に入れます。無料なので興味のある人は行ってみてね。



蔵からコードが出ていました。




菊坂を中心に、また別の坂々がネットワークしています。
この坂の名は胸突坂。あまりの厳しさに思わず、胸を突いてしまうシビアな坂という意味なんでしょう。
でもこうやって見ると角度はそこまで大したことなさそう。ほんのちょっとだけきつい角度なんだけど、なによりもそのほんのちょっとだけのきつさが長く続いてジワジワと足腰が疲れていく、そんなタイプの坂なんでしょう。



と思ったら、ほんのちょっとだけのキツさじゃ全然ないですね。角度的に本当にきつい。ここまで何人かの自転車乗りとすれ違ったんですが、ほとんどみんな電動自転車でした。この街では、電動自転車はマストアイテムなのかもしれません。




「ご自由にお持ち下さい。」を英訳しているのがグッドポイント。
外国人ウケがよさそうな食器もチラホラ。このあたりは外国人向けの観光ガイドにも載ってるんだろうか。載ってそうだな。




お、鳳明館だ。古い旅館ですよ。


泊まったことあるんですか?





小学校の頃の移動教室で、隔年ごとにここに泊まってたんですよ。で、僕は1年違いで別の旅館でした。


アナザーワールドのヤスノリさんだったらこの旅館に泊まっていたと。


僕の年は「ふたき旅館」っていう、これも本郷にあるいいお宿なんですけど、確かもう廃業していますね。






最近けっこういろんな町内会でやっているよねぇ、蚊の防除。


不快害虫用スミラブ発泡錠「SES」っていうのは蚊のほかにもチョウバエも防除できる優れものなんですよ。これにかかれば、幼虫がみんな羽化に失敗して死にます。


思ってたより恐ろしい薬。だいたい、羽化に失敗って何? ピーターパン症候群みたいなもん?


違うと思います。






また違う坂です。この急激な坂は「新坂」。
名前からして新しい坂っぽいですけど、江戸時代に開かれた古い坂です。
下りていくと言問通りに出ます。この右手にある工事現場は……





静穏に刻む麗しき邸宅、パークホームズ本郷 ザ レジデンスが建設中でございます。
ここには2014年までやっていた太栄館という旅館がありました。キャッチフレーズは「石川啄木ゆかりの宿」。
1908年に3階の3畳半の部屋に9か月近く滞在していて、部屋から富士山が見えてとても嬉しいと話していたそうで。



全52室で大浴場あり、お土産屋さんありとなかなかのデカさで本格派の旅館でした。入り口の前には石川啄木の石碑があったりしてね。パークホームズ本郷 ザ レジデンスの見栄えもめちゃくちゃいいんでしょうな。




ちょっと路地に入るとここも坂。



ここの坂の名前は金魚坂なんですか? いや、お店の名前のようですね。珈琲・中国茶を取り扱う喫茶店です。



毎週末・夏休み期間中は金魚すくいができるみたいです。



コナカとともにある樋口一葉終焉の地

ここからは言問通りを右に、白山通りを右に行って、樋口さんの終焉の地を見にいきましょう。




犬とともに暮らしている人間としてはこれはとてもよく分かる。落し物は本当によくないぞ! 飼い主が落し物ばっかりしてると、周りの人の犬に対するイメージも悪くなってくるんだ。




あのスポーツのアイコン。テニス経験者からするとけっこうニッチな場面を切り取ってるなと思います。


ラケット持ってるやつ? 普通に見えるけど……


いや、テニスってね、ああやってラケット持ってダッシュするシーンってあんまりないんですよ。ガチンコでダッシュするのは相手にドロップショット打たれて必死に拾いに行くときと、ロブを上げられてネット前からベースラインまで後退するときくらいです。でもまぁ後退するときは上空のボール見上げながら走る感じになるので、このアイコンはドロップショットを処理するときのダッシュを切り取ってますね。


そこまで考えて作ってないと思うけどな。






すごいよ、この殿様サミット。本物の大名家の末裔が参加するんだ。


江戸時代、現在の文京区内に屋敷を構えていた大名家の歴史や文京区との関わりについて研究し、そこから得られたこれからの文京区政や現代社会に活かせる教訓や展望などについて考察したレポートを募集ですって。最終ステージは大名様の前でプレゼンをすると。


褒美か、打ち首か……。


えっバッドエンドもあるの?






あっ、あれは開化楼! 今流行りの二郎系のお店でけっこう開化楼さんにお世話になっているところが多い製麺屋さんですね。あのワシャワシャゴワゴワとした中毒性のある麺がこの輸送車の中に入ってるかもしれないと考えると腹が減ってきます。




白山通りに来ました。こうやって見てみると、緑がいいアクセント出してますね。ここからまっすぐすすみます。




白山通りは古いビルが多くて嬉しいです。




この辺のアパートのやさしい丸みもいい昭和。




花器と茶道具を取り扱ういとうや商店。創業100年を超える老舗です。



こ、これは……。





このネコのマグカップ、いいなぁ。


えっ買うの?





うわぁどうしようかなぁ。悩む。






買いました。




あ、ここが樋口一葉が過ごした最後の住宅です。


一応紳士服コナカの敷地内なのね。


ここは樋口さんが作家として花開いた場所です。ここに住んでから肺結核で亡くなるまでの間に「たけくらべ」「にごり絵」「十三夜」を書きあげて発表したんですね。この2年間は”奇跡の2年間”とも言われています(奇跡の14か月という場合もある)。吉原で駄菓子とかを売ってる雑貨店を畳んだのちの1894年にこの場所に引っ越してきました。六畳二間と四畳半一間、庭には三坪程度の池があったそうです。





んで、となり、まいばすけっとか。いいですね。


もし当時あったら行ってたでしょうね。営業時間も長いですし。作家と相性は良さそう。






旧居から白山通りを挟んで向こう側に見えるのは柳町仲通り。
ビルの谷間にある不思議な商店街なのですが、ここにはかつて都電白山線の小石川柳町駅があって、おそらくあれはその名残です。
あれ、ということは樋口家、駅チカ物件? と思って調べてみたら、樋口さんが亡くなったのは1896年、白山線の開通は1909年で、当時はまだ駅チカではありませんでした。残念。


樋口一葉が幼いころに住んでいた東大の近所



ここからは樋口さんが4歳から9歳の間に住んでいた場所の隣、法真寺に行きますね。
向かい側に東大の赤門が見えるグッドな場所です。
まわりに東大生と思しき偏差値高そうな学生が増えてきました。




顕微鏡専門店。なかなか見ないですよ。




医学書専門店が2店舗も。写真では見えないけど、鳩山邦夫事務所をはさんで競合しあう形になっています。




ここが赤門ですね。神社みたいな神々しさ。「ドラゴン桜」で東大受験生たちが赤門見てやる気出すシーンがあるけど、これはやる気が出ますよ、東大目指してなくても。




赤門マウンテン丼! 赤門ステーキ丼! 銀八丼のメニューもがっつり東大にあやかっています。
なんとなく赤色なんだな。



これも赤門にあやかった何かだと思ったらナチュラルローソンでした。




ここですね、法真寺。樋口一葉さんの旧居跡の隣のお寺。


昔住んでたところの隣? 関係なくない?





いや、それがそうでもないんですよ。ここは「ゆく雲」の舞台にもなっているし、ここには文京一葉記念館や樋口さんの銅像もあるんですよ。ちょっと中入ってみましょう。





なんかこのお寺、様子がおかしくないか? 工事中だよね。


そうですね、なんか狭い足場で滑ったら池ポチャみたいな危険な道通りましたもんね今。





これが一葉さん? パラソル差して、汗水たらすのとは無縁な出で立ちで工事現場を眺めているけども。


ここに住んでいたのは4歳から9歳の間でリッチな時代だったんですよ。2階の窓から境内の桜を眺めてたり読書に耽ってたり、7歳で南総里見八犬伝を読破した秀女だったとか。まぁかくいう僕もドラゴンボールのアニメを幼稚園時代に全部見ましたけどね。


ドラゴンボールも南総里見八犬伝がちょっとだけモデルになってるって話だもんね。だが、読書とアニメ鑑賞とでは大きく難易度が異なると思う。で、この人は樋口さん?





いや、違います。これは米田らむさんだそうです。ここに書いてあった。だけですけど。






それじゃああれが樋口さん?


樋口さんはたしか出家していなかったような……。





あ! これは法然上人の銅像ですね。


完全にアートですね。末法の表現ですよ。


本当は単体で落ち着いた雰囲気を醸し出してる銅像なんでしょうけども、これはこれで期間限定のアートです。






工事現場のおじさんに「樋口一葉の銅像があるって聞いたんですけど、どこにあるんですかね?」って聞いたんですが、「樋口一葉……? いや、分からないですねぇ」という返答がありました。
樋口一葉さんの銅像は人目につかないどこかで暑さを避けて静かにただずんでいるんでしょう。こんな法真寺を見られるのは滅多にないぜ!





ところで、冒頭に出てきた文京区男女平等センター。
本郷三丁目という場所で男女平等センターが、樋口一葉さんのホームタウンに建てられたというのは、何か意味があるように思いました。
樋口さんは、男性と対等に活動した女性の先駆者的な存在としても捉えられています。おかあさんは「女に学問は必要ない」という考えの持ち主であったために、高等科第4級を首席で卒業した後には進学を諦めたり、のちには女性である自分自身が社会的に力がないことを悔いて「おのこならましかば(男だったらよかったのに)」という内容の日記も書いたり。
そんな人生から生み出された小説のテーマが”女性”であったことは、きっと意味があるのでしょう。

この街で約11年の年月を過ごした樋口さん。法真寺近くに住んでいた少女時代には読書を嗜み、歌を習い、井戸の近くに住んでいたころには貧困生活を過ごしながら作家を志し、コナカ近くでは作家として花開きました。町全体に樋口さんの知性とハングリー精神が根付いていたような気がします。


(おしまい)




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山川悠

誰もいないバッティングセンターで数百円分の素振りを楽しむのが好きです。
いや、本当は好きじゃない。みんなが見てる前でカキンカキンしたい。高校時代は帰宅部。

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