獅子舞伝播のハブ・松山町

  • 更新日: 2021/11/02

獅子舞伝播のハブ・松山町のアイキャッチ画像

獅子舞が伝えられた場所は川沿いの堤防だった

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石川県加賀市の獅子舞の伝来経路を調べていて、気づいたことがある。それは、獅子舞を伝えるハブとなった地域があるということだ。「ハブ空港」を思い浮かべていただくとわかりやすい。ハブ空港は国内線・国際線ともに本数が多く、旅客機を乗り換えて他国や地方都市に行くための移動の拠点となる空港のことである。ここで移動するのは、もちろん人やモノであり、交流や交易が活発になっていくためには、欠かせないのがこのハブ空港の存在である。

一方で、獅子舞におけるハブとは、人でもモノでもない。運ばれるのは獅子舞という変わり続ける文化的生命体とでも言おうか。獅子舞という文化は、村から村へと伝えられ、その土地の独自の形へと変化して定着する。一箇所に伝えることもあれば、複数箇所に伝えることもある。これは、自分から「獅子舞やってね」と伝えるというよりかは、「獅子舞習わせてください」という風に他の村からお願いされて伝えるという場合が多い。伝える箇所が多ければ多いほど、ハブとして重要な役割を担っていたことがわかる。

石川県加賀市松山町は周辺地域と比べて、突出してそのバブとしての役割が大きかったように思う。石川県能美市から伝えられた獅子舞を周辺の中島町、分校町、桑原町、宇谷町、横北町、二子塚町、庄町などの町に伝えたのだ。これほどまでに多数の町に、自分たちの獅子舞の舞い方を教えたというのは、周辺地域において類例がない。そこには、どのようなエピソードが隠されていたのだろうか?獅子舞という生命体が散歩した痕跡をたどるべく、私は松山町とその周辺の地域を訪れた。




まず最初に、僕は松山町とその周辺の公民館を訪れ、様々な町の地域住民の方に、聞き取り調査を行った。



●証言者A「粟生町から松山町に獅子舞が伝わった」(松山町)
明治30年代に、松山町を流れる動橋川が洪水により氾濫した。能美郡の粟生町から土建屋さんが泊りがけで駆けつけ工事をしてくれた。その仕事の合間に、獅子舞を教えてくれたんだ。当時は周りで獅子舞をしている地域は少なかった。

●証言者B 「獅子舞は松山町から習った」(横北町)
獅子舞は松山町から伝わったと聞いたことがある。

●証言者C 「松山町に獅子舞を伝えたのは土方さんだ」(宇谷町)
粟生町は手取川という暴れ川の洪水で常時水害に見舞われたので、田畑の修復工事には優れた特殊技術を持った人たちがいた。その一部の人が松山町に出稼ぎに来ており、土方さんという人が獅子舞を教えてくれたんや。

●証言者D 「松山町は川近くに寝泊まりしている人に獅子舞を習ったんや」(二子塚町)
もともと動橋川の堤防決壊のため、粟生という地域から松山町に人夫が来ていて、夜はその川の近くに寝泊まりをしていた。松山町の人はその人夫が寝泊まりしている場所で、獅子舞を習った。この松山町が習った獅子舞を二子塚町が習って始めたのが、昭和30年ごろ。戦争から復興も込めて、華やかな獅子舞を始めたんや。

●証言者E 「松山町とは農業用水は繋がっとった」(中島町)
獅子舞の始まりは戦後に粟生から習ったことに始まる。でも、松山町から農業用水を引いていたから、獅子舞も松山町を経由して習ったかもしれんな。

獅子舞という得体の知れない生命体の姿を明らかにするため、各町の地域の方々の証言を整理してまとめてみると、「明治30年代に粟生の土建屋の土方さんが、松山町の動橋川付近で寝泊まりしていた時、地域の人に獅子舞を教えた。」という実態が浮かび上がってきた。それが明治から昭和にかけて、時代を経るに従って、周辺の地域に伝わったというわけだ。






聞き取り調査の後、獅子舞を伝えた明治時代の人は何を考えていたのだろう?という好奇心が湧いてきて、松山町を散歩することにした。



松山町と隣町との境界にあったのは、動橋川の支流である川だった。堤防はコンクリートブロックで固められ、そこには自然と一体化するように、草木が生い茂りつつあった。ススキが夕陽に照らされておりキラキラと美しく輝いている。




松山町を示す看板があった。さあ、ここから町内の散策を始めよう。




地域の中心となる神社には、菅原道真が祀られている。獅子舞を行う祭りの日は、神社から舞い始める場合が多い。この神社に建てられた碑によれば、松山という町名は戦国時代の文献には既に登場するという。この地域の歴史は古いということがわかった。




農業用のトラクターがあった。中島町との間に農業用水を引いているという話もあったように、昔から農業が盛んな町だったのだろう。農業ということは五穀豊穣の祭りがあり、祭礼は春祭りと秋祭りがある。秋祭りに獅子舞をする場合が多いが、春祭りにも行う地域は存在する。




今では空き地となっており、何かの建物が建っていたのだろうと思わせる場所も多い。昔と今とでは見えている風景も違うものがあるのだろう。その古層を匂わせる気配のようなものが少なからずある。ここは工場の跡地だったのだろうか?などと想像するのは楽しい。




粟生から土建屋の人が寝泊まりに来ていたという動橋川沿いにでた。橋の工事をしているらしく、鉄骨が組まれている。今となっては、川の洪水を食い止めるような堤防工事をやっている風景は見られない。川岸には人が通った様子は見られず、アマゾン川の岸を彷彿とさせるような木々が生い茂っている。それにしても、堤防の面積が非常に広い。川と民家までの距離は非常に長いことが窺える。




かろうじて存在する、細い砂利道を発見した。作業用の車が通れるように作られたということかもしれない。ボコボコしていてチャリが通ることもできないし、人が頻繁に通る道とも思えない。右奥の方に、ものすごく小さな小屋が見える。明治時代に川の堤防工事をしに来ていた粟生の人々は、あのような小さな小屋に寝泊まりしていたのかもしれない。そして、この広い堤防を使いながら、獅子舞を休憩がてらの遊びとして舞っていた可能性はある。




現在、橋の工事には、国土交通省が関わっているらしい。円柱状の通行止めが通行可と不可の境目を規定している。




いよいよ日は暮れそうだ。町内には川の水の流れを緩める構造物があることを発見した。これはいつ頃に作られたのだろうか?その歴史はよくわからない。周辺で白鷺が虫をついばんでいたが、僕の気配を遠方から感じ取ったのか、すぐさま飛んでいった。そこまで近く寄っていなかったので「警戒心が強い」と思ったが、念には念を入れということで飛んだのだろうか。それにしても、夕日をバックにした美しい光景である。




川から民家や工場までは距離があり、堤防との間には大きな道路が挟まれていた。相当、洪水に苦労しないと、こういう区画にはならないのでは?と思った。つまり、洪水で度々氾濫していた動橋川の沿岸には建物を建てず、川と建物との間に距離を置いたのではないか?という推測である。




散歩を始めた動橋川の支流に戻ってきた。ここでは先ほどとは違い、川沿いにも民家や工場がある。この川は比較的緩やかだ。地域住民はこの川と、仲良く暮らしてきたのかもしれない。川と人との距離感は、水と寄り添い災害の被害を受けながらも生活に使う水としての恩恵を受け取っていたという生活の営みを物語っている。そして、水との関わり合いの中で、堤防の作業員によって獅子舞は伝えられ、この地に受け継がれたのだ。




現在、松山町では40年近く獅子舞を実施していない。昔は、中学1年生から獅子舞を始め、40歳まで獅子舞を行なっていた。祭りの日は大きな幟旗を立てて、お宮さんで2晩泊まった。8月24~26日がお祭りの日で、その前後合わせて5日間は仕事ができなかった。獅子舞を行なったのは毎年8月25日だった。演目は棒振りと、薙刀と、太刀と、回し棒など全部で13種類だ。町内は20軒ほど回った。祭りといえば、他地域に嫁に行った娘さんやらそのお婿さんやらも来て楽しんでいた。それが今では、獅子という生命体は住処を変えてしまったのだろうか?いや、公民館の物置には、今でも獅子頭がきちんと眠っているらしい。







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稲村行真

文章を書きながらも写真のアート作品を製作中。好奇心旺盛でとにかく歩くことが好き。かつてはご飯を毎食3合食べてエネルギーを注入していた。

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