鎌倉 / 大佛次郎が愛した街は、きっといい街。

  • 更新日: 2017/12/07

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江ノ電のホーム、雰囲気があっていいですよね。

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どうもこんにちは。今日は鎌倉に来ています。


鎌倉、実はわたくしめちゃくちゃ好きで、10年くらい前は毎週のように来てました。あんまり変わってないな。っていうか、これ、偉人が住んでた街をうろうろする企画じゃないですか。鎌倉は歴史あるから関係する偉人も多いでしょ。誰?


今回はね、なんと、僕の遠い親戚なんですよ。


えー。源氏?


源氏だとざっくりしすぎだし、源氏の末裔って人わりと多いからね。前回、わたくし山川のひいおじいちゃん、野尻抱影桜新町でやったんですけど、今回はその弟、大佛次郎(おさらぎじろう)を紹介します。忠臣蔵の話を描いた『赤穂浪士』、幕末維新の『天皇の世紀』、神出鬼没な勤王志士が活躍する『鞍馬天狗』などの歴史小説から『スイッチョねこ』っていう童話も描いてた人物なんですよ。


へえ。よく知らないからへえ、しか言えないけど、野尻さんと大佛さんは兄弟で物書きでいらっしゃったんですね。


特に、小説『赤穂浪士』は1961年の東映映画や1964年のNHK大河ドラマ『赤穂浪士』の原作になりました。今よく知られている赤穂浪士は大佛次郎版と言ってもいいと思います。そもそも、大佛次郎以前の講談では「赤穂義士(ぎし)」と呼ばれていたんですって。


へー。そんな人が鎌倉に住んでいたと。


そうなんですよ。あ、でも、執筆は横浜だったそうです。「横浜じゃないと気が乗らないなぁ」っていうので、横浜は山下公園近くのホテルニューグランドの318号室に約10年間……。


それは、鎌倉より横浜のほうが好きなんじゃないか。


でも、居を構えたのは鎌倉ですからね。横浜は、気分転換にスタバで仕事する感じじゃないですか?


え? スタバに10年も居る?


あ、ちなみにホテルニューグランドの318号室は鞍馬天狗にちなんで現在「天狗の間」って名前の客室になっています。


天狗の間。ホテルなのに、天狗の間。ホテル的にはいいの?


さあ。まあ、それで集客できればいいんじゃないですか。知らないですけど。横浜にはその他にも大佛次郎記念館があるので横浜にもゆかりがあるんですが、次郎さんが住んでたのはここ鎌倉ですから。とりあえず歩きましょうか。




大佛茶廊を訪ねます

大佛次郎さんの別邸は今、土日限定で大佛茶楼っていう喫茶店になっているので、ちょっと行ってみましょう。ぼくのおばあちゃんの妹さんが住んでます。


大叔母さんだね。





鎌倉駅東口から出てまず目につくのは、小町通り入り口にそびえ立つ鳥居。1960年に鶴岡八幡宮から許可をもらって商店街の人たちで建てたものなんですね。ここをチェックポイントにすれば、うっかりはぐれてしまった遠足中の小中学生も安心。



あ、ここ。イワタ珈琲店。


モダンな喫茶店。


1948年に開店、鎌倉で一番古い喫茶店で、次郎さんも訪れたことがあるそうです。ちょうど51歳の頃で、毎日新聞に『帰郷』っていう小説の連載を開始した年で。


へー、どんな話なんですか。


故あって日本を離れていた男の主人公が、終戦後の日本の姿を見て悲しむ話です。鎌倉円覚寺周辺の場面も出てくるんですよ。


ひょっとしたらイワタでコーヒー飲みながら小説の展開を考えていたかもしれないのか。ちなみに、肝心のお味の方はいかがなのかしら?


それがね、ここのホットケーキがめちゃくちゃ分厚くておいしいんですよ。だいたい4cmくらいですかね。開店前にホットケーキ求めて並んでる人がいたり、テレビで紹介されたりすることもあったり。ちなみに、川端康成とかジョン・レノンもきたことあるらしいです。いろんな意味でビッグネームな喫茶店。






それにしても、小町通りの人通りの多さ! 遠足で班行動してる小中学生に、大学生くらいのカップル、外国人観光客、あとおばあさん! 人口密度の高さは原宿に近い。



しかし角を折れると趣深い風景が続きます。
うさぎの古希、



焼とり野菊。



お、ミルクホールカフェの看板だ。昔よく行ってたな。小町通りのちょっと奥まったところにある古い喫茶店なんですけど、甘いカレーがたまんない。あと、ここに書いてある「オペラライス」ってのはお勧め。






「とんびに気をつけて!」だって。この近辺ってトンビがいるんでしたね。僕が小学生の頃、鎌倉に遠足に来たんですけども、どっかの原っぱでシート広げてみんなでお弁当食べてたんですね。そしたら隣のクラスの男子がトンビに弁当つままれたとかでザワザワしてて、それが羨ましくて、自分もトンビの被害に遭ったらオイシイのになと思ってゆっくり弁当食べてたんですけど、来てくれず。


昔、浜のほうで缶コーヒー飲もうとしたら、もう片方の手で持ってたチュロスをガサッと持っていかれたことあったな。チュロス持ちやすそうだったなあ。枝っぽいし。


うらやましい……。


うらやましい?






小町通りを右折して、鶴岡八幡宮方面へ向かいます。



カレー屋さん「キャラウェイ」。ボリューム満点のお店で、普通盛りで550g、中盛りは900g、大盛りは1kgを超えます。しかもリーズナブル。だいたい30分から1時間ほど並ぶこともあるようで。




ものすごくハイカラな銀行だね。


ここはもともと10年くらい前までラルフ・ローレンが入ってたんですよ。


どうりで。和の街並の中に一つだけ洋があるからめちゃくちゃ目立つね。現役銀行強盗に聞いた銀行強盗したい銀行ランキングの上位に入りそう。






ここは鶴岡八幡宮の参道、若宮大路の段葛(だんかずら)と呼ばれている場所。このまま真っ直ぐ歩くと鶴岡八幡宮です。



段葛は車道よりも高くなってます。鎌倉時代に若宮大路の水捌けが悪く、雨が降ると歩きにくかったのがきっかけで、この道が造られたんだそう。両サイドには桜の木があり、春には花見客で賑わいます。



こういう筆書きのお約束に反したら、とんでもない罰が当たりそうな気がしません?


難しい漢字を使っているのも恐怖感増してますよね。「於いて」とか「行爲」とか。


漢文にしたらさらに天罰レベルが上がって守ってくれる人増えそう。


でも理解できない人も増えそう。






さて、目的は大佛茶廊でした。鶴岡八幡宮はちょっとお預けにして、段葛を横断します。



でもこのあたりの細い道が良すぎてうろうろしてしまうのでなかなか着きません。



こんな場所にカフェもある。ほほう。



デカいクモの巣をくぐって進みます。



閑静な住宅街でもあってカフェもあってレストランもあって自然も豊か。境界が曖昧なのは観光地であることと歴史のなせる業か。




鎌倉武士っぽい犬が粗相の警告を。



こっちは多分源氏の血を引いていない犬。同じ鎌倉市でも犬同士の格差が激しい。




あ、ありましたよ、大佛茶廊。右へ道なり入り口左って。この絵は猫?


猫ですね。大佛茶楼から細路地を挟んで南側に本邸があったんですけど、いつも猫に囲まれて暮らしてたんですよ。猫専用のお部屋があって猫をお世話する専門のお手伝いさんもいて。「猫は一生の伴侶」って言ってたくらいですからね。人間と結婚してましたけど。猫の童話も書いてました。スイッチョっていう俗称で知られるウマオイを猫が飲み込んじゃって、ずっと腹の中で鳴き続けてるって話です。子どもの頃に自宅でおばあちゃんに読んでもらいました。なんか猫の絵がめちゃくちゃかわいくて心にずっと残ってますよ。


今だったらインスタの猫クラスタに愛されそうですな。


ベタベタに甘やかしていたというわけでもないらしいです。遺言書に「我が家の猫を甘やかさないこと」って書いてたみたいですから。





左手にあるのが大佛茶廊ですね。可愛いカーブ。ぐるっとまわります。



さぁ、正門に着きました。今日は平日だから茶楼はやってないんですけど。


えっ、親戚力でなんとかならないの?


大叔母さんがお留守なんですって。あと今日なんか造園業者が入ってるみたいです。それは知らされてなかったですけど。


表札が2つある。


ペンネーム版と本名版の2つの表札です。本名は野尻清彦です。おさらぎの表札は里見弴(とん)さんという小説家が書いてくれたものです。


里見弴さん。大佛次郎さんとはどういうつながりなんですか?


野球仲間です。


えっ、野球仲間?


ともに鎌倉を愛し続け、お互いの記念のときには野球大会を開いていた仲なんです。横浜の大佛記念館にも2人がユニフォーム姿でグラウンド上で握手してる写真があります。ちなみにこのとき大佛次郎さんは70歳で里見さんは79歳です。


マスターズリーグ並みの年齢の高さ。


学生時代に野球に熱中してましたからね。現代によみがえってたらベイスターズファンだったような気がします。今年の日本シリーズを見せてあげたかった。





仕方がないから大佛茶楼を外から眺める。営業時は、静かなお庭やお座敷でお茶やお菓子を頂けます。ほんとですよ!

ところで、ここは大佛次郎さんの別邸、だったんですよね。別邸ってのは何をするところなの?


本邸は猫の楽園状態でしたので、別邸は編集者との打ち合わせだったり、里見弴さんとか久米正雄さんなどの作家が集まって宴会してたりしてたそうですよ。


猫に本邸を取られたのか。「猫を甘やかすな」という遺言の重みが増してくるな……。




大佛次郎が起こした日本初のナショナル・トラスト運動

さて、次は鶴岡八幡宮の裏側、御谷(おやつ)の森へ。
日本で初めてナショナル・トラスト運動が起こった場所です。ナショナル・トラスト運動というのは、経済的な理由での自然破壊の流れを市民活動によって阻止すること。大佛次郎さんが、鎌倉を愛する者として守り抜いた自然を見に行きましょう。



鶴岡八幡宮の脇を通って、裏側の山へ向かっています。
歩道が狭くて怖い。スマホ見ながら歩いてたら、うっかり水路に落ちてびしょ濡れになりそう。



車のお祓いだって。やったことないなあ。


新車買った人とか、交通事故や交通違反をしてしまったとかがやってくるんですよ。申し込むと神主さんがいらっしゃって一台ずつ丁寧にお祓いしてくれます。ドアはもちろん、ボンネットやらトランクも開けて、祈りが隅々まで届くようにと。


ついでに窓拭いてくれたり。


そういうサービスはないですね。






「ご利用ください」の手前、何が秘匿されたんだろうか。




車お祓い所の脇を通ってさらに北へ。タイムズの看板が白いのは、鎌倉の景観条例が厳しいため。
このほかにも、



コカコーラの自販機、



ローソン、



ファミリーマートも色が落ち着いています。その手前の中華まんの旗はどうなんだ? という気がしなくもないですが……。




ここは鶴岡八幡宮の裏に当たるんですけど、ここから奥は御谷(おやつ)の森と言って、日本で初めてのナショナル・トラスト運動があった場所です。


大佛さんも一枚噛んでるんですか?


バリバリに噛んでます。1964年に、ここらの森林を切り拓いて住宅街をつくろうという話がありまして。東京オリンピックの影響で日本全体が経済成長を遂げている頃でした。で、そんな御谷住宅開発計画に対して、そうはさせないぜ! って立ち上がったのが大佛次郎さんだったんです。人呼んで、御谷(おやつ)騒動


音だけ聞くと、おやつの取り合いをしてる小学生みたいな感じですけど。


そんな生優しいやつじゃないですよ。既に鎌倉ではブルドーザーが森林をガンガンなぎ倒していて「昭和の鎌倉攻め」なんて言われてたんですから。そんな中、大佛さんが朝日新聞で「破壊される自然」っていうエッセイを寄稿してイギリスのナショナル・トラスト運動を紹介したんですよ。市民から寄付を募って、残したい土地や建物を購入するという手法があると。さらに川端康成、鏑木清方、小林秀雄などに協力を依頼して論陣を張ったんです。


うわー、けっこう強力なキャラ引っ張ってきましたね。敵にまわしたらめんどくさそう~。それで結果は?





結果は見ての通りです。最終的には、1966年に山林1.5ヘクタールを寄付金で買い取ったんです。で、この市民の運動がマスコミでも大きく取り上げられて、古都の歴史的景観を守る「古都保存法」が制定されました。もし、この山が住宅街になってたら、ひょっとしたらタイムズの看板も白くなかったかもしれません。






さあ、御谷の森を見た後は、さっき素通りした鶴岡八幡宮に入りましょう。



遠足の子どもたちや観光客に加えて、七五三絡みの参拝客もいるシーズンだったので、すごく混んでました。



鶴岡八幡宮で鳩みくじ? 鶴って言ってんのに鳩?


鶴岡八幡宮は、鳩と縁が深いんですよ。鎌倉時代の軍記物「平家物語」で八幡様のお使いとして鳩が登場するシーンがあるんですよね。鎌倉時代に、戦で勝利を呼び込むための生き物として鳩の絵柄を家紋に使うのが当時のトレンドだったらしいです。八幡宮の「八」の字もよく見ると鳩っぽい形になってるんですよ。





へー。やったらいいんじゃないですか。鳩みくじ。











言葉数が多いのが災いしてるっていうからこれから静かにしますよ………。


まぁ凶じゃなくてよかったんじゃないですか。鶴岡八幡宮は設定厳しめっていう話聞きますし。


……。


え、こっから喋らない感じ?





(あれ、おみくじに鳩のストラップまでついてるじゃない! お得お得!)




露店もいっぱい。



飴うどぶ。さかさ文字を見ると、祭りにきてるなぁ~! って気がして購買意欲がそそられる。




太鼓橋ですね。20年くらい前は渡れたという話ですけど、現在は封鎖されていて渡れなくなっています。源頼朝のころに造られたものなので800年ものの橋です。当時は朱塗りされていたので赤橋と呼ばれていました。


次郎さんのかつての勤務地にも足を運ぶ



このまま若宮大路を由比ガ浜方面に歩いて、大佛次郎さんのかつての勤務先を目指します。




これ、お餅屋さんに見えない? アトリエとかMade In Japanと餅って何かと思ってよく見たら「絣」だった。


餅屋ではなく服屋さんですね。


久留米の米っていう字も餅っぽさを出してると思うんだ。


あ、服といえば、うちの母親が、大佛次郎さんにセーター買ってもらったことあるんですって。


ほう、セーターを?


なんかおじいちゃん(山川の祖父)と大佛さんが銀座を歩いてるときに、孫(山川の母)にって大佛さんが買ってくれたんですって。2万5千円くらいのものをいただいたんですって。


現代でも2万5千円のセーター買うのってけっこう渋るよね。さすが大佛様~。


ね、高いですよね。でも、頂いたセーターを持って家に帰ってきたおじいちゃんは、「お札が縦折りにしてある1万円をヒョイヒョイ出してたんだよ。(大佛さんは)面白いお札の畳み方をするよねぇ~」って感心してたって母が言ってました。


感動するポイントがちょっとずれている。


セーター買ってもらって50年近く経ちますが、今でも宝物としてタンスの中にしまってるって母が言ってました。






鎌倉おみやげ界のドン、鳩サブレーですね。


ええ、豊島屋総本店ですね。この建物いいよねえ。


明治27年に豊島屋が創業して、鳩サブレーが生まれたのは明治30年ごろ。開発者で創業者の久保田久次郎さんは鳩サブレーのことを「鳩三郎」って呼んでいたらしいです。






童謡って書いてあるだけなのに威圧感がすごい。




ベンチの不揃い加減。仲間たちと集団で座れば微妙な温度差が生まれそう。




鎌倉なのにレストランあさくさ。



あさくさなのに鎌倉名物の釜あげしらす丼を推してくる。何かわけありのお店なのかもしれないので入ってみます。





小さい頃によく行った食堂に雰囲気が似ている。新しくも無く、かといってレトロ感もない。何の気兼ねもなくて落ち着く。



ラードで揚げた上ロースカツ定食を注文。ロースが肉厚でローズ塩との相性がとても良かったです。というか、あれ、名店ですぞ、これは……。
晩酌セットみたいなのがあったり、テレビ付いてたり、庶民的な店内であったので正直舐めてかかっていました。



お店の人の話によると、もともとこのお店は本当に浅草(田原町のほう)にあり、関東大震災を機にお店を鎌倉に移したとのこと。歴史ある大衆レストランでありました。どうりで。
ごちそうさまでした。




渋谷商店だって


渋谷商店……。さっき浅草あったし、銀座線ですね。こうなるともっと集めたくなるな。銀座線駅名。


鎌倉で銀座線駅名を揃えるゲームが出来そう。






下馬(げば)の交差点。意味ありげな名前でしょう。



鶴岡八幡宮の昔の参拝客は、ここで馬を降りなくちゃいけなかったんですね。ちなみにここから鶴岡八幡宮までは1.4kmあります。普段馬ばかり乗ってる人からしたら、ちょっと歩き疲れるくらいの距離かもしれません。




琵琶橋を渡ります。太鼓橋同様に、かつては朱塗りで孤を描くような形だったのですが、1992年に御影石の橋が架かりました。




YAMAKA。ぼーっと見てるとバイク屋さんかなって思ったんだけど、スーパーなんですね。


あー。分かるよ。YAMAHAっぽいからじゃない?


端っこにスクーター止めてあったから売り物かと思った。





鎌倉駅から南は、スーパーが増えてきます。観光地から、住むエリアに変わってきた証拠です。
ここらは平地で住みやすいエリア。




鎌倉でも起きていた英国士官殺傷事件。ここ、下馬近辺でも英国士官2名が浪人に斬り殺されていたんですって。


けっこうマイナスな情報じゃないですかこれ?


生麦事件は有名だけど、俺たちもイギリス人殺してたぜ~! みたいなワル自慢。






さてさて、だいぶ歩きましたが、この大金持ちの別荘のような建物が、



大佛次郎さんがかつて務めていた場所、鎌倉女学院。帝国大学を卒業してから、非常勤講師として歴史・国語・作文を教えていました。



えっ何その佇まい。


教育熱心なお母さんをイメージしてみました。写真撮る時、こんな感じのポーズをとって微笑んでそうじゃないですか?


ああ、うん。え? それを、どうすんの?


ノープランです。




大仏の裏側を見に行く

お次は、大佛次郎がさらに昔住んでたところに行きますよ。さて、どこでしょうか。ヒントは「大佛」です。



江ノ電に乗って、長谷へ行きましょう。



あ、ちなみに駅舎の隣に中国名菜 銀座アスターを見つけたので、浅草、渋谷に続き、銀座線駅名3つめです。どうでもいいですか。そうですか。




真正面に広告がぎっしり。広告が縦長なのが独特ですね。掲載料が年間96,000円(税別)っていう、業界内では破格の安さです。都内だと数十万~百万行くやつですよ。
しかも、これ風景を壊しているかといえば、決してそんなことない気がします。広告看板含めて、ローカルな江ノ電の駅っぽさがあります。




夕方でも江ノ電はスゴイ盛況ぶり。




江ノ電は、住宅街を縫うように走ります。
手を伸ばせば届きそうなセイヨウアサガオとの距離感。




長谷駅までは鎌倉から6分くらい。なんなら歩けます。




さすが観光地、改札近辺は大学受験当日並みに混んでます。外国人向けのガイドにも載っているので外国の方も多い。




みなさん、大仏様がいらっしゃる高徳院に足を運ばれるようですね。奇遇ですね、実は僕らもそうなんです。




コーヒー、coffee、珈琲。なんかアップル社みたいなスッキリ加減。
センスよくて羨ましい~。



Buddhaのマークもイカしてる。




大仏フェチってなんだ。フェチズムを感じる対象がデカすぎる。そんなの居るの?


大仏の螺髪フェチとかなら分かるけどな。






いや、しかし



この街には、ところどころに大仏様のイラストがある。大仏フェチにはたまらないのかもしれない。




大仏と呼んだり、



大仏様と呼んだり、人それぞれの微妙な信仰心の違いも表れている。




鎌倉みやげ山海堂。



よく観光地の土産物屋で木刀とか売ってるけど、ここはなんか売ってるもののレベルが違う。戦争でもはじめるの?


ほかの中学の奴らに因縁つけられて、戦闘になったら買い付けに来るんじゃないですか。


現地で武器を補給できるのは有利ですね。戦争は武力じゃないんですよ。最終的に兵站が勝敗を決しますから。






露坐の大仏おわします、高徳院につきました。
なぜかトイレが赤字でゴールっぽい地図。




大佛。大佛っておさらぎって読むの実は今日初めて知った。


そもそも「おさらぎ」ってのは大仏が建立された土地、このあたりの地名だったそうで。北条家の分家が名乗ってる姓でもあったとか。まあ大仏を「おさらぎ」と読む理由は諸説あってよく分からないんですけど。


大佛次郎ってペンネームはやっぱり大仏と関係あるんですか?


大佛さん、高徳寺の大仏の裏側近くに住んでいることがあったんです。で、「太郎」は大仏様で「次郎」は自分、いう位置づけになっています。


兄弟なのか。


師匠と弟子のような感じかもしれませんね。大仏様のことは大佛先生って呼んでましたから。



では、大佛次郎も眺めたであろう大仏様の裏側を拝みに生きましょう。



小学生の頃、遠足でこのくらいのアングルからクラスの集合写真を撮った思い出があるんだけど、今日はこっちからではなく……



こっち。像高約11.3m、重量約121トン は間近で見るとやっぱりデカイ。

関東大震災があった当時、大仏裏に住んでいたこともあった大佛次郎さんですから、このアングルから大仏様を眺めていたことがたくさんあったはず。


震災! 大仏も大佛次郎さんも大丈夫だったんですか?


縁側で友達と3人でこれからやってくる秋の鎌倉の美しさについて、紅茶を飲みながら語ろうとしていたときに震災が起きたといいます。


紅茶は無事では済まなかったんでしょうね。


そんなのほっぽりだして、3人で抱き合って、地震が収まるのを待ってました。山懐に家があったので、山崩れにあったら確実に死ぬ状況でした。結局、無事にやり過ごしたんですけど、数日後の余震で大佛次郎さんの家は潰れました。ちなみに大仏太郎様も約45センチほど前に滑り、台座は右後側が約9センチ、前側が約45センチほど地中にめり込んだそうですよ。






ちょこちょこ見かけるフックみたいなのはなんなんですかね? ちょっと調べたけど謎なんですって。



ちなみに大仏の右頬もよく見るとうっすらと金色が残っています。これも金箔なのかメッキなのか不明。大仏太郎様って謎が多いんですよ。ミステリアスな男ってモテますよね。






江ノ電の踏切を渡ると、由比ガ浜はすぐそこです。



大佛次郎さんは、他にも10以上のペンネームを持っていました。その一つに由比浜人というのがあったんですね。御谷の開発を阻止したり、震災前に鎌倉の紅葉について語っていたり、由比ガ浜をもじったペンネームを付けたり、鎌倉の自然に惚れこんでいたのだと思います。



代表作のひとつ「鞍馬天狗」は、幕末から明治維新後に掛けて権力の批判者として剣を振るう男の物語なのですが、大佛次郎さんは生前、鞍馬天狗は自分の手で殺したいと話していました。


ああ、主人公が死んで終わるパターン。


47作品目の「地獄太平記」の最後、巌流島で決闘することになるんですけど……


お、いい展開。殺せそうですね!


だけど、相手が戦意を削がれて出家してしまい……


は? どういう回避!?


殺せませんでした。


よく作家さんが言う、勝手に登場人物が動いちゃうっていうやつですか。


一応これで完結はしているので、書いている途中で、満足のいく着地点が見えたのか。あるいは、もっと長生きしていたら、鞍馬天狗の死を以て物語を終了させる構想があったのかもしれません。





読書をすること、小説を書くことは兄・野尻抱影の影響であると話していた大佛次郎さん。父である政助さんが単身赴任で家を空けることが多かったため、次郎さんにとって、12歳年上の兄・野尻抱影さんは、第二のお父さんのような存在でした。

2人が最後に会ったのは入院先の築地の病院。「モネの展覧会に行ったついでに来たんだよ」と嘘をついてお見舞いにいった野尻さん。孫娘(山川の母)を一緒に連れて行ったのは「たまたま寄りました感」を出すためだったんじゃないかと孫娘(山川の母)が言っていました。そのときもまだまだ頑張って大佛さんは小説を書こうとしていたそうです。

亡くなる2か月の手紙には、執筆がこれ以上続けられない悔しさや、文筆の道に導いてくれた父や抱影さんへの感謝を綴っています。

天皇の世紀は未完で終わりました。鞍馬天狗もまだまだ元気に生きています。天皇の世紀と鞍馬天狗。そう遠くない将来、大佛三郎を名乗る人物が表れて、続きを書いたりするのかもしれません。


おしまい



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山川悠

誰もいないバッティングセンターで数百円分の素振りを楽しむのが好きです。
いや、本当は好きじゃない。みんなが見てる前でカキンカキンしたい。高校時代は帰宅部。

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